Lap 1 「止まった時間と赤い稲妻」
梅雨が明けたばかりの土曜の朝。
島谷悟は、いつものように缶コーヒーを片手に愛車のボンネットに腰かけていた。
駐車場の隅で、年季の入ったトヨタAE86トレノが、まるで飼い慣らされた老犬のように静かにたたずんでいる。
「もう……30年になるか」
ぼそりと呟いた声は、ただ静かに夏の空気に溶けていく。
免許を取ったその日に中古で買ったこのクルマ。錆びたフレーム、気まぐれなエアコン、たまに拗ねるエンジン。
でも、それでも悟はこの車に――いや、この“時間”に愛着を持っていた。
「なあ、悟。もう限界だろ、そのポンコツ。さっさと売って、新しいの買えって」
チューニングショップ「ガレージ風馬」の店長、古川風馬は、会うたびにそう言ってくる。
悟は、ただ笑って聞き流す。別に怒ってるわけじゃない。どこか諦めにも似た、乾いた微笑だ。
(新しい車に乗ったところで……俺の人生が変わるわけじゃないしな……)
仕事が終われば、コンビニ弁当と缶ビール、そして夜はハンコンを握ってレースゲーム。
オンラインランキングは国内で100位そこそこ。トップ層に届くには何かが足りない。でも、それでもいいとどこかで思っている。
変わらない日常。
同じ景色。
同じスピード。
――だが、その日は少しだけ違った。
「……ん?」
シャッターが開く音と同時に、車の唸りが鼓膜を揺らした。それは、悟の知っているどの音とも違った。
鮮やかな赤のボディが、陽光にギラついた。
トヨタGR86。街乗り車とは明らかに違う、どこか研ぎ澄まされた佇まい。
運転席のドアが開き、ひょいっと軽やかに降りてきたのは──少女。
黒のスキニーデニムに、オーバーサイズのTシャツ。髪はポニーテールで後ろにまとめられ、額の汗を指でぬぐうしぐさも板についている。華奢で、スレンダーなシルエット。顔も小さく、いかにも軽そうなその身体で、さっきのGR86を動かしていたとはにわかに信じがたい。
彼女は古川に向かって声をかけた。
「すみませーん、デフのとこ、ちょっと違和感あって。時間あるときでいいんで、見てもらえますか?」
悟はその様子を少し離れたところから、トレノの屋根に肘をついて見ていた。声をかけるでもなく、ただ静かに。ガレージの空気が、ほんの少し変わったような気がした。
(……客? いや、あの感じ……)
古川と彼女は、親しげに笑いながら言葉を交わしている。あとで聞いたところによると、彼女が所属するレースチームに、古川がメカニックを派遣したことがきっかけで顔を出すようになったらしい。
彼女の名前は、宮下早矢。19歳。プロドライバー。悟とは、まるで対極の存在──
でもこのとき、悟はまだ知らなかった。
この“たまたま”が、自分の中で30年くすぶっていたエンジンに、火を点けることになるとは──




