第1話 色褪せる世界
今から85年前。
日本時間0時ぴったりに、突如として世界中にダンジョンが現れた。
突然の事態に騒然とする間もなく、空に表示されたテロップが現状を一言で説明する。
曰く、『女神からの贈り物』。
超次元存在が世界中にばら撒いたダンジョンなるものからは山のような資源を獲得でき、確かな利益を実感した各国はその『贈り物』を享受した。
連なってダンジョンに潜る資格を持つ者達、アクセス許可紋と云われるソレを宿したごく一部の人間が探索者と呼称されるようになり、莫大な富と与えられた特権、名声もなにも思うがままの職業に持たざる者たちが嫉妬と尊敬の眼差しを向けたのは言うまでもない。
惜しくも資源の宝庫たるダンジョンに入るには、アクセス許可紋とそれで利用が可能となるダンジョンショップの力が必要不可欠だった。
ダンジョンの中には悍ましい怪物たちが跋扈し、それを打破することで魔石を手に入れることができる。
その魔石がダンジョンショップにてポイントに変換され、より探索者の能力を伸ばすことに繋がり、未踏破のダンジョンにも挑むことができ、資源が増加し富も名声も大きくなり……。
と、女神という存在は巧いこと好循環を完成させ、人類にダンジョンという存在を受け入れさせたのだ。
女神とはなんなのか?
なぜ地球に、今になって干渉することを決めたのか?
どうしてダンジョンに怪物たる魔物を配置しているのか?
それらのことは85年経っても解明されることはなく、ただただ人類は与えられた〝恵み〟を享受し続けた。
そしてそんな時代の中、1人の赤子が生を受ける。
なんの変哲もなく、ともすれば毒親ともいえる者達の種から誕生したソレは、『女神の贈り物』が現れてより〝85年〟の月日が経った頃であったのだ。
時を重ね、赤子は幼児に、そして少年へと。
佐々木村正という人間が、14歳、高校を目前に控えた中学三年のことである。
彼は、担任の教師から脅迫を受けていた。
「佐々木。このままお前を高校に進学させるわけにはいかない。わかるな?」
時は夕暮れ。
一人の男性教師と生徒たる佐々木村正だけが残る教室は、橙色の日を浴びて教師の顔に影を作った。
真っ直ぐに村正を見つめ真摯に向き合おうというその教師は、眼前で1冊の本を後生大事に抱える自らの生徒に〝高校に行かせない〟と言ったのだ。
言われた当の本人は、強く口を横一文字に結び担任の教師を睨みつける。
いやそれは睨むというより、まだ幼さの残る少年が見せる大人への反抗であった。
村正にはこの教師がなにを言わんとしているのかがわかっている。
故に、村正は胸に抱えるその1冊の本を、守るように強く抱きしめた。
両者の強い意志を宿した視線が交差し、身長差もあって正しく村正にはこの担任教師が巨大な壁のように思えてならなかった。
教師が口を開く。
「佐々木、悪いことは言わないから、いい加減そのエロ本を捨てなさい」
「嫌だ……っ!!」
「嫌だじゃない。君が入学した頃からずっと、君はそれを手放さなかった。授業中も休み時間も、暇さえあればエロ本をガン見する日々。このままでは高校になんて行かせられない」
「勉強もしています」
「そういう問題じゃない。授業態度、いやそれ以前の問題だ。もう一度言う、そのエロ本を捨てなさい」
「嫌だ!」
強い意志を宿した視線は、更なる激情を以って白熱した交差を見せる。
これが少年漫画のワンシーンであるなら、ビリビリと稲妻が奔っていることだろう。
……会話の中身は、とても少年漫画とは似ても似つかないが。
村正が後生大事に抱えている本とは、俗に言うエロ本……いや紛うことなきエロ本であった。
真剣な表情で村正を見つめる担任教師が、脅迫を受けたなどという冤罪を科されるのはあまりにも不憫すぎる状況だ。
彼の言う通り、村正は学校生活に於いて10割をエロ本で過ごしている。
ただ村正の言い分としては、その10割に重なるように勉学も運動もしているということだ。
片時もエロ本を手放すことなく、しかしてその傍らで優秀に過ぎる成績を残しているのが、村正という人間──否、男であった。
しかし教師は引かない、引くわけにはいかないというより、ここで引くようなら教師ではないだろうというこの超絶問題児を前に伝家の宝刀を抜いたのだ。
「推薦入学、できると思うか?」
「……卑怯者」
担任教師の名誉のために断言するなら、卑怯の欠片も彼は宿していない。
むしろなぜ自分がこのまま推薦入学を決められると思っているのか、村正の優秀なのに優秀じゃない側面を知っている教師は彼の暴言ともとれる言葉をスルーした。
佐々木村正は世間でいう毒親の下に生まれた。
彼の悲惨な家庭環境は今は置いておくとしても、1つここで重要なのは村正に高校進学のための金などないということだ。
幼少の頃ゴミ捨て場で偶然拾った1冊のエロ本を生涯の生きる術とするほどには、村正は恵まれた環境とは程遠い人生を歩んでいる。
ここで担任の教師が突きつけた推薦入学とは、村正にはただ唯一の高校進学のための手段だったのだ。
しかし村正は事ここにおいてもそのエロ本を手放そうとはしない。
なぜなら彼にとってそれは生きる術であり、これを失ってまで得られるものに価値などないと断言できるほどに大切な物なのだ。
村正の境遇を知っている教師は、ここで1つ提案をする。
一度静かに目を瞑り、開いた眼には強い意志ではなく生徒を想う優しさが宿っていた。
「佐々木。そのエロ本を捨てろとは言わない。だが学校に持ってくるのはやめるんだ。約束を守ってくれるのなら、私が新しいエロ本を買ってやる」
最低である、教師としては。
しかし1人の大人が苦境に生きる少年に伸ばす手としては、十分に和む言葉でもあった。
この担任教師は、ここに教師としてではなく1人の大人として村正を導くことを決めたのだ。
村正の瞳が動揺に揺れる。
「よく考えるんだ佐々木。1冊のエロ本をいつ接収されるかもわからない学校にまで持ち歩くのか、数多のエロ本を選りすぐって鑑賞に浸るのか。どちらが君にとって〝満足いくのか〟を、な」
──その日、村正は揺れ動く心内で問答を繰り広げながら帰路に着いた。
自宅に帰れば酒瓶の割れる音と母である女の劈くような叫び声、そして父である男の怒声が村正の耳に届く。
なんなら自宅に帰る前から既に聞こえていた。
いつものことである。
村正は静かに2階の物置部屋という名の自室へと足を運んだ。
埃が舞う空間で鞄を座布団代わりに腰を降ろし、村正は今日担任教師から示された提案を思い起こす。
後生大事に抱えるエロ本は代えが効くような物じゃない。
これは村正が幼少より生きるための友ともいえる1冊なのだ、代わりなど存在しない。
しかしそれと同時に他のエロ本にも興味があるのも、思春期の男である村正には無理からぬことであった。
今夜も腹を空かせながら、村正は考える、考える、考える……。
気付けば窓から差し込む陽光はさっぱりと消えており、暗い室内に多少の月明かりが差し込む時間になっていた。
真夜中、村正には見慣れた色の時間である。
「……そういえば明日だっけ、僕の誕生日」
ふと、そんなことを村正は思う。
普段であれば気にも留めない祝い日であるが、今日に限って村正には重要な決断を迫られ、そして対価として新たなエロ本を獲得できる、言うなれば人生初の誕生日プレゼントを得られる機会が目前にあったのだ。
しばし何も想うでもなく中空を眺め、村正は決める。
「こんな大事なことは、1歳成長した明日の自分に任せよう」
投げやりと言えるか、否。
村正の表情は、明日の自分が下す決断をもう知っているかのような、晴れ晴れとしたものだった。
時刻は23時59分。
あと1分経たずうちに、村正は明日の自分へ、1歳成長した自分となる。
輝かしさを求めているわけでも、期待しているわけでもない。
ただ明日の自分は、いつもと違った〝色〟を見ているのはないかと、そう、想っていた。
日付けが変わる、10秒前。
物置部屋に放置された古びた時計で、村正は己の明日を待つ。
そして、日付けが変わり、午前0時。
「ハッピーバースデー、僕」
村正の祝い言葉と。
右手の甲にて輝くアクセス許可紋と。
世界が激震に揺れたのは。
同じ時であったのだ。
『女神からの贈り物』が、100年の節目を迎えた時のことである。
文明が、音を立てて崩壊した。




