■第五話 たぶん、私たちのいちばん幸せだった時間
パーティー当日、ハインフリートは私を伴って皇族専用の馬車で会場へ乗り付けた。私たちが馬車を降りた途端、周囲がハッとするのを感じた。私は金の装飾があしらわれた群青色のフリフリドレス。ハインフリートはピンクベージュのジャケットに、アクアマリンのチーフをあしらっている。
これはこの日のために、二人でお互いの髪や目の色を取り入れたペアコーディネートだ。国でトップクラスの裁縫師が仕立てたので、もちろん上質だし似合ってはいるのだが、傍目には完全なバカップルである。かく言う私も、物語の裏事情を知るまではそう信じていた。
やがて宴もたけなわ、ハインフリートがおもむろに私の手を取り、ナディア様へと歩み寄る。周囲はさっきから、この三角関係を見て見ぬふりをしつつ内心では興味津々といった様子だ。ナディア様はエレガントなドレス姿で取り巻きと談笑していたが、私たちが近づくのを見て表情を引き締めた。
「皇国の輝ける星、ハインフリート皇太子殿下にご挨拶を申し上げます」
いつもながら、見とれるほどに美しいカーテシー。真珠の精霊が舞い降りたかのような、輝くばかりの美しさである。ハインフリートはその挨拶が終わるのを待っていたかのように、唐突に別れの言葉を切り出した。
「ナディア、私は君との婚約を解消したい」
周囲に大きなざわめきが起こった。皇太子が浮気しているのはみんな知っていたが、まさか婚約破棄までするとは誰も予測していなかったはずだ。きっとナディア様も、単なる火遊びだと寛容に静観しておられたのだろう。それなのに婚約破棄を突きつけられ、お気の毒で仕方ない。
「理由を、お伺いしても?」
「君には、大変すまないことをしたと思っている。しかし私はこの、クロユキ・スタンホープ男爵令嬢を愛してしまったのだ」
一言一句、原作と違わぬ台詞が流れていく。ナディア様は取り乱す様子もなく、まっすぐにハインフリート、そして私をちらりと見て、こちらもまた原作通りの言葉を口にした。
「仰せのままに」
瞬時、その場がストップモーションになったかのような感覚に陥った。優雅な物腰で、唇には微かな笑みまで漂わせているのに、この圧力はどうだろう。これが完全無欠の、公爵令嬢のオーラなのだと感服した。
しかし原作を読んだ私は知っている。ナディア様がどんなに幼なじみの婚約者を愛していたか、そしてどれほど傷ついたかを。彼女はこの瞬間、自尊心を総動員して恋に終止符を打ったのだ。
そのご立派な姿を見て、こんなチャラいピンク頭が婚約者を奪って申し訳なく思うと同時に、どうか原作通り素晴らしい伴侶に巡り合ってほしいと、私は心から神様に願った。
パーティーからしばらくして、ナディア様は隣国へ留学した。そして2年の月日が流れ、一時は我が国の社交界を揺るがしたスキャンダルも、人の噂もなんとやらで、最近では私たちのことはすっかり忘れ去られている。
その理由の一つに、皇太子ハインフリートが公の場に顔を出さなくなったことがある。あれ以来、彼は何度かくしゃみをくり返し、今はもうベッドから起き上がれないほどに衰弱していた。
医者の見立てでは、すでに生きているのが不思議なくらいだそうだ。しかしそれでも彼が頑張っているのは、私の努力も少しはあるんじゃないかとうぬぼれている。
「今日は水仙の花が咲いていたので、摘んできました」
「ああ、いい香りだ。もう春が来たんだね」
ハインフリートはもうほとんど目が見えない。そんな彼に季節を伝えたり、他愛もない話をしたり、物語を読み聞かせたり。それが私の毎日になっている。
先日、皇帝陛下からそろそろ自由にしてくれていいとお達しがあったのだが、私は自分の意志でハインフリートに付き添っている。いつからか彼はナディア様のことを口にしなくなり、私たちの間には穏やかな空気が流れるようになっていた。
私の実家は約束通り豪邸に生まれ変わり、私と母も継ぎの当たったドレスを着ることはなくなった。何もかもがうまくいったはずなのだ。それなのに、日増しに心が沈んでいく。
ハインフリート亡き後に、思う存分楽しむはずだった異世界での恋。それを私は、間もなくこの世から消えてしまう男に捧げてしまった。あと六回転生できるそうだけど、それを今生の縁に注ぎ込んで、彼をこの世に繋ぎ止めたいとさえ願っている。
そんなある日、皇太子宮に一通の手紙が届いた。隣国の王室の紋章が入っている。それを見て私は、物語が原作通り進行していることを悟った。
「ハインフリート様、ナディア様が婚約されました。お相手は隣国の第二王子だそうです」
「そうか、それは目出度いな。祝いの手紙を送ろう。クロユキ、代筆してもらえるかい」
「かしこまりました」
以前なら、心が締め付けられたであろうナディア様のご婚約を、穏やかに笑みを浮かべて喜ぶハインフリート。返信の文面にも、心からかつての婚約者を祝う気持ちが溢れていた。しかし手紙を書き終えると、ハインフリートが表情を曇らせている。
「クロユキ、すまない」
「どうしたんですか、急に」
「君の人生を、犠牲にしてしまった」
いま私は18歳。同じ年代の令嬢はすでに婚約を結んだり、早ければ母親になっている者もいる。ハインフリートに付き添ううち、貴族令嬢の「売りどき」を逃しそうな私だが、本人は好きでやっているので全く気にしていない。しかし彼にとっては、契約で私を縛っているのが辛いようだ。
「もう君は必要ないと、私がひとこと言えばいいんだ。公に出歩くことがなくなって、恋人のふりをする必要もない。それでも私は君を手放せないでいる。なぜなら――」
私は指先で、そっと彼の唇を閉じた。乾いてひびわれた唇には、いつか皇城で初めて会ったときの、溌剌とした若々しさはない。しかし彼を深く知り、長い時間を過ごした今のほうが、あの頃よりも彼を美しく思える。
最初は彼も皇族として、私など下級貴族がどうなろうが知ったことではなかっただろう。それが私と同じように、時を経るごとに情が深まり、いつしか私たちの間には強い絆が結ばれていた。もう、私たちは恋人のふりではない。この世に唯一無二の、パートナーである。
私はハインフリートの手をそっと握ると、自分の頬に当て、にっこりと笑った。こうすると、彼のぼんやりした視界でも表情がわかりやすいのだ。
「私は、ここにいるのが幸せなんです。あなたも、きっとそうでしょう?」
ハインフリートの痩せた手が、私の手をぎゅっと握り返した。私はこみ上げる涙をこらえながら、もう一度彼のために満面の笑みを湛えた。
ハインフリートが亡くなったのは、それから数ヶ月後。まもなく夏になろうかという、新緑が美しい季節だった。
彼の容態が急変し、皇帝陛下と皇后が病床に呼ばれた。私は身分の低い立場なので、隣の部屋に控えていたが、皇帝陛下から側に付くように言われ、ハインフリートの枕元に参じた。
「殿下、クロユキが参りました」
私がそう言うと、ほぼ昏睡状態だったハインフリートの顔にうっすらと笑みが浮かび、唇が何やら掠れた音を紡いだ。
「何だ、何と言っているのだ?」
皇帝陛下が侍医にそう聞くが、誰もその意味を理解できなかった。私を除いては。
「アイシテル」
ハインフリートの別れの言葉は、最初で最後の愛の囁きだった。バカだね、貴方。好きな女を泣かせないために、くだらない芝居までしたというのに。今度は私を残して逝こうとしているじゃないの。好きなら生きて、私を抱きしめてよ。
やがてゴールドの瞳から光が失せ、皇太子ハインフリートは星となった。私は心が空っぽになり、彼の死を受け入れられずに茫然としていた。
その時、目の前に光る文字が目の前に現れた。見覚えのある、日本語の羅列だ。
#婚約破棄 #ピンクブロンド
ぼんやりする頭で、ようやくそれが自分の設定したタグだと気づいた瞬間、私は光のシューターに吸い込まれた。この世界に来るときに通った、異世界への通路である。
ああ、きっと次の世界へ転生するのね。恋の終わりが、この世の終わり。それでけっこう、ハインフリートのいない世界になんて未練はないから。どこへでもすっ飛ばしてちょうだい、彼を思い出して泣かない場所へ。
第一幕/終
第一幕、お読みいただきありがとうございました。第二幕も近日中にスタートします。どうぞお楽しみに!