■第四話 この気持ちに名前をつけちゃダメなやつ
それからのスタンホープ家は忙しかった。家の改築のため皇室が用意した高級ホテルに移り、私は上級貴族のように家紋のついた馬車で通学するようになった。
そして皇室から次々と届く、最新のドレスやアクセサリー。それを身に着け、観劇やパーティーへ出かける。もちろんエスコートは皇太子ハインフリートだ。そうなると、当然だが噂は瞬く間に広がった。当然、ナディア様の耳にも入る。
「ちょっとあなた」
きたきた、小説では名前もなかった中流モブ令嬢。学院ではナディア様の取り巻きをしている連中だ。ナディア様ご本人は静観を決め込んでいるが、周りの有象無象がやかましいのなんの。
「ごきげんよう、皆さま」
「ごきげんよう、ではなくてよ。あなた、いったいどういうつもり? ハインフリート殿下はケストナー公爵家のナディア様と婚約しておられるのよ」
「存じておりますわ」
ピンクブロンドの頭をかしげて無邪気に微笑むと、モブたちの温度感が一気に高まる。
「まあ、図々しい! それを知っていながら殿下とお出かけするなんて、破廉恥ですわよ!」
「そうよ、男爵令嬢ごときが、身の程知らずもいいところだわ!」
金切り声が多重層になったところで、どこからともなく皇太子のお仲間たちが現れた。実はこれも、芝居の一部である。皇太子から「クロユキを守れ」と頼まれた上流貴族のご学友が、常に私の身辺を見守りピンチを救ってくれるという段取りなのだ。
「お嬢様方、どうなさいましたか」
イケメンのご令息たちにふわっと、しかし抗えない圧をかけられ、モブ令嬢たちは引きつった笑みを浮かべて後ずさりした。
「な、何でもありませんの」
「ええ、クロユキ様にご挨拶しただけですわ」
イケメンたちもそれを受け、キラキラのスマイルを返す。ただし目は完全に笑っていない。
「そうなんですね。では、クロユキ様をお連れしても? 殿下がお待ちになっていますので」
そうして私は学院内で皇族と上流貴族のみが使用できるダイニングルームに連行され、そこで毎日ハインフリートとランチを食べるのだ。お陰でますます噂は広まり、私は全ての女生徒の敵となっていた。
「君を矢面に立たせて申し訳ない」
優雅な仕草で紅茶を飲みながら、皇太子ハインフリートがしょんぼりした表情を浮かべる。何度か食事や観劇を共にしてわかったが、彼は基本的にとても良い人だ。
ラブハリではアホの見本のように描かれていたが、頭の回転も速いし気遣いもできる。それだけに、我が身亡き後の婚約者の嘆きを憂えてしまうのだろう。
「お気になさらず。覚悟の上でお引き受けしたのですから」
それは本心だ。こういう役どころが意地悪されるのはイセコイあるあるだし、そうでなければ芝居にリアリティが出ない。我ながらなかなかいい女優っぷりだわと悦に入っていると、ハインフリートの顔が突然曇った。
「ナディア……」
気が付けば私たちのテーブルの近くに、ナディア様がいらした。大きくカールした見事な銀髪と、抜けるような白い肌。ワインカラーの瞳はミステリアスな光を放ち、この世こんな美しい人間がいるのかと感心していると、深く柔らかな声が耳に届いた。
「皇国の輝ける星、ハインフリート皇太子殿下にご挨拶を申し上げます」
その声でハッと気づいて私も立ち上がり、あたふたと礼の姿勢を取った。貴族令嬢としては大失敗、リアクションが遅すぎる。
「ケストナー公爵令嬢に、ご挨拶を申し上げます」
「ごきげんよう。ハインフリート殿下に少しお話があるのですが、よろしくて?」
身分がはるかに上の公爵令嬢にそう言われりゃ、底辺貴族の私はどうぞどうぞのダチョウ倶楽部になるしかない。私は化粧室に行くと断り、その場をナディア様にお譲りした。
席に帰ってくると、ハインフリートが淋しげに的の外を眺めていた。その視線の先には去っていくナディア様の後ろ姿が見える。
「あの、大丈夫ですか?」
あまりにも消沈した様子に、たまらず声を掛けると、ハインフリートは眉尻を下げて悲しげに笑った。
「来月の、彼女の誕生パーティーに行かないことにした。理由を聞かれたけど、曖昧にして答えなかった」
「ナディア様は、何と?」
「そうですか、とだけ言って引き下がったよ。そういう人なんだ、彼女は。決して我儘を言わず、胸の内にしまい込んでしまう」
ああ、自分から別れを決めたにも関わらず、未練たっぷりなのね。親が決めた許嫁ではあるけれど、彼らは幼い頃から仲睦まじかったという。その中で次第に愛が育まれていったのだろう。それを断ち切るのは、いかほどの辛さか。
「……ナディア様を、愛しておられるのですね」
まだ窓の外を眺めるハインフリートの横顔に訊ねると、返事をするかわりに長いまつげがゆっくりと瞬いた。そのあまりにも美しい光景に、不覚にも胸がトゥンクしてしまった。しっかりしろ、私! 相手は18歳のおこちゃまだぞ。中身アラサーのいい大人がときめいてどうするよ。
前世ではあまり恋多き女ではなかったけど、それでも何度か人を好きになって、恋の入口の甘い痛みは知っている。そしてそれが今の私にとって、とても危険なことも。万が一彼に恋してしまえば、きっと別れの悲しみに耐えられないだろう。がんばれクロユキ、大人の女のずるい分別で、感情の芽を摘み取ってしまえ。
そんなある日、ハインフリートが高熱を出して倒れた。くしゃみをしてしまったのだ。何日も朦朧としてうなされ、目から生気が失われていく。そしてようやく平常に戻ったと思えば、禍々しい紋が背中一面を覆い尽くしていた。
もちろんこのことは城内でも箝口令が徹底されたが、私は徹夜でマスクを縫い、病室でハーブの入ったお湯を沸かして湿度を上げた。どうしてもっと早くやらなかったんだ、現代知識でくしゃみを防げたかもしれないのに。
「恋人のふりなんだから、そんなことまでしてくれなくていいんだよ」
甲斐甲斐しく世話をする私に、ハインフリートが弱々しく笑う。体がきついだろうに、私のことを気にかけてくれる優しさに、胸が切なくて苦しくなった。ついこの間、この人を好きになっちゃダメだと自分に言い聞かせたのに、なんだ、もう好きになっちゃってるじゃない。私は精一杯の嘘笑いを顔に貼り付けて、泣き出しそうな心を宥めた。
「病人は大人しく寝ていてください。早く元気になってくれなきゃ、恋人のふりもできないですよ」
それ以後、彼は人の見ていない場所では私のお手製マスクを装着し、常にハーブミストを部屋で炊くようになった。そしてなんとか体調が本調子に戻ったころ、とうとう「ラブハリ」の巻頭シーンがやってきた。学院の卒業パーティーである。
ここからは、私の記憶にある世界だ。当然、この時点ではまだハインフリートとナディア様は婚約者同士なので、通常なら男性側からエスコートを申し出るところである。しかし彼はそれをしなかった。ケストナー公爵家にとっては、耐え難い屈辱であろう。
ただし、そこは誇り高い公爵家。あくまでも表面的には何事もなかったかのように、淡々と日々は過ぎていった。私にとってはそれが、まるで嵐の前の静けさのようで不気味であった。