■第三話 婚約破棄の舞台裏は、ちょっと切なかった
その日の朝、見たこともないような上等な馬車が、スタンホープ家の門前に停まった。傾きかけた門扉とのコントラストが目にしみる。私は精一杯おしとやかを装いながら、着慣れないフォーマルドレスで馬車に乗り込んだ。
おお、馬車の内装も素晴らしい。座席がフカフカだ。私、本当にお城に行くのね。そう思うと、緊張で指先が冷たくなってきた。向かいに座る父も同様のようで、ガチガチに固まって汗をびっしょりかいている。
父にとって、登城は成人の儀式以来らしい。ごめんね、私のせいでちょっと寿命が縮んだよね。でもきっと結果オーライになるから大丈夫。そんなことを考えているうち、馬車が皇城の門に着いた。
濠の上に跳ね橋が下り、大きな厚い門が開く。その先は一般庶民が一生見ることのない世界だ。私と父はおのぼりさんよろしく、目をひんむいて窓の外を眺めた。優美に整えられた樹木や、庭師が精魂込めて配置した花々が、まるで現実ではないような光景を作り出している。さすが、雅な方々のお住まい。格が違いすぎる。
やがて木立の向こうに燦然と輝く本宮が見えてきたが、私たちは少し離れた瀟洒な建物の前で馬車を下りた。出迎えの人に「皇族専用のサロンです」と説明されたので、きっと別棟みたいなものだろう。
分厚い絨毯の先にある控室に通され、びっくりするくらい香りのいい紅茶を一杯飲んだところで、いよいよお呼びがかかった。もうすでに父は汗をかきすぎてラッコみたいに湿っている。私はドレスの裾を整えると、覚悟を決めて案内に従った。天鵞絨張りのドアに向かい、係の人が我々の到着を告げる。
「お入りなさい」
穏やかな、それでいて威厳のある声が私たちの入室を許可した。そこにいたのは、肖像画でしか見たことのない皇帝陛下と、皇后陛下。そしてラブハリで文字情報として知っている、皇太子ハインフリート。彼の第一印象は「え、イメージが違う」である。
「呼びだてしてすまなんだ、スタンホープ男爵。そしてご令嬢も」
私はようやくハッと気づいて、カーテシーの礼を取った。事前に練習したのに、皇太子に気を取られていた。それほど彼の第一印象はラブハリとギャップがあった。
小説では軽くておバカなワガママ皇太子だったが、眼の前にいるハインフリートは、群青色の髪に、深いゴールドの瞳。すっきり整った顔立ちの、理知的で穏やかそうな好男子である。正直、めっっっちゃタイプっす!
「御召を賜わりまして、光栄のイタ、至りに存じます」
あーあ、お父様、噛んじゃってるよ。しかし皇帝陛下は優しげに笑い、私たちに着席をすすめてくれた。どこからともなく給仕さんが現れ、見事な手際で紅茶を淹れると、音もなく退室していく。どうやら私たちだけで話をするようだ。
「実は、スタンホープ男爵家に折りいって頼みがある」
いきなり直球が飛んできた。皇帝陛下からそう言われては、男爵ごときが断る選択肢などない。父は深々と頭を垂れた。
「はっ、何なりとお申し付けくださいませ」
「いや、まずは話を聞いてから考えてくれ。少し込み入った事情がある故、断られても仕方がない。ただ、今から話すことは他言無用である。それだけは固く約束してほしい」
誰かに漏らしたら、一家まるごと消されるパターンね。おー、怖っ。もちろん答えはイエスしかない。聞かないというオプションもない。
「もちろんでございます。天地神明に誓って、この胸に留めることをお約束します」
それを聞くと皇帝陛下は「うむ」と頷き、立派なひげを撫でると、とんでもない提案を私たちにブン投げてきた。
「クロユキ嬢、ここにいるハインフリートの恋人になってくれないだろうか」
その瞬間、空気が凍りついた。私と父は耳を疑い、数秒フリーズした後お互いの顔を見合わせたが、どうやら聞き違いではなさそうだ。さらに数秒よくよく考え、父が恐る恐る口を開いた。
「あの……、皇太子殿下はケストナー公爵令嬢とご婚約されているはずでは」
その問いに答えたのは、皇太子ハインフリート本人であった。
「はい。しかし私は、ナディアとの婚約を破棄しようと考えています。なぜなら……」
そこでハインフリートはぐっと言葉を詰まらせた。皇帝も眉間に深い皺を寄せ、皇后に至っては涙を浮かべている。思わず私も拳を握りしめた。空気が重たい。
「なぜなら私は、もうすぐこの世を去るからです」
今度こそ頭が真っ白になった。理解が追いつかない。しかし皇后の頬に涙が流れ落ちるのを見て、その言葉が真実であることを確信した。唖然とする私と父の前で、 皇太子はなおも 言葉を続けた。
「この国に恨みを持つ魔術師が、私に呪いをかけました。くしゃみをするごとに、命が削られていくのです」
「えっ、くしゃみ?」
それ花粉症じゃないのと思ったが、ある日突然呪いの紋章が背中に浮かび上がったそうだ。そしてくしゃみをすると何日も悶え苦しみ、そのたびに紋が大きく濃くなっていくらしい。
もちろん皇帝も、高名な術者を秘密裏に招集し解呪を試みてはいるが、改善するどころか深刻化する一方だという。このままでは、あと何年もしないうちに命が尽きてしまうだろう。
「ナディアは素晴らしい女性です。こんな呪われた男の妻になるべきではない」
その言葉で、私は自分がここへ呼ばれた理由を理解した。ナディア様に婚約者の死という悲しみを与えないよう、ハインフリートは軽薄な浮気者を演じて、彼女を遠ざけるつもりなのだ。
そのお芝居の相手役が、私である。選ばれた理由は、金で後腐れなく使い捨てできる、貧乏貴族の娘だからだろう。身分の高い令嬢には、とてもじゃないが頼めない。しかし私なら、いざとなれば口を封じてしまえる。
「そういうわけで、大変な役割を押し付けてしまうが、どうか頼まれてはくれぬか。ただし、将来ご令嬢の婚期に関わるやも知れぬ。慎重に考えて返事をしてくれ」
皇帝陛下にそう言われ、皇城を後にした私たちだったが、帰宅後の家族会議では意外なことに、両親ともに答えはノーだった。皇帝から頼まれたんだよ? 男爵令嬢が断れるわけないじゃん。下手したら消されるわよ、家族まるごと。
「しかし、いくら殿下の逝去後は自由の身と言っても、それまでお前は世間の悪評に晒されることになるんだぞ」
「そうよ、クロユキ。皇太子殿下を誑かした悪女として、ケストナー公爵家だけでなく、貴族の社会から仲間はずれにされてしまうかも」
いやいや、今だって我が家は貴族社会なんて無縁の生活だし。それに、皇帝陛下がこのボロ家を建て替えて、まとまったお金もくれるって言ってたし。世間に悪口言われたって、そんなこと気にしなけりゃいいのよ。
そう言うと両親はしょんぼりした顔をした。でも本当に大丈夫、私はまだ16歳で先は長い。皇太子殿下が亡くなった後、ほとぼりが冷めてから結婚相手を探したって、遅くはないのだ。てゆーか、前世では30歳手前で独身だったわよ!
「お前にばかり負担をかけることにならないだろうか」
ああ、優しいお父様。チェルシア(今はクロユキだけど)は愛されて育ったのね。この家族に少しでも恩返しができるよう、皇太子の恋人役を立派に勤め上げてみせるわ!
それに、ちょっと嬉しいこともある。「小説家になっちゃいな」で憧れていた上流貴族の世界が、期間限定とはいえ味わえるなんて素敵じゃない? ハインフリートの呪いは気の毒だけど、うちらビジネスカップルだから、そこはクールに割り切るつもり。
こうして、ど底辺男爵令嬢クロユキは、いきなり皇太子の恋人へと出世した。婚約破棄まであと半年。せいぜい仲睦まじい姿を周囲に見せつけて、華々しくラブハリのオープニングを飾るのだ。
今日から第一幕完了まで、連日更新します。更新時刻は12:10の予定です。お昼休みのお供にどうぞ♪