■第四話 私たちの、甘くて長くて幸せな逃亡生活
部屋に入るなりエンネは、頭巾を脱ぎ捨てた。そんなことをしたら、エルフだとバレてしまうではないか。そう思ったときにはもう、彼の白銀の髪は滝のように肩から流れ落ちていた。
私の動揺をよそに、エンネはジュゼッペの前へ進み出ると、ポケットからナイフを取り出した。ちょ、何する気だ、早まるな!
「クロユキが出した条件に、これを加えよう」
エンネはそう言うと、腰まである長い髪を襟足でつかんで、ばっさりと切り落としてしまった。これには流石の偏屈爺も驚いたようで、目を丸くして言葉を失っている。
「どうだ、鬘(かつら)にすれば貴族の女が飛びついて高値で買うぞ」
「……いいだろう」
ジュゼッペは髪の束を受け取ると、まじまじと眺めて不気味に微笑んだ。欲しがりそうな貴族の顔が浮かんだのだろう。商売になるのであれば、この爺さんは死体でも運ぶ男だ。
「約束だからね、ちゃんと私たちを逃がしてよね」
「ああ、明け方に馬車を出す。寝てたら置いてくからな」
ジュゼッペはそう言うと、大切そうに髪束を持って奥の部屋へ消えた。私はその夜、ザンバラになったエンネの髪を整えながら、どうしてあんな無茶をしたのかを聞いてみた。
「もう一押しかな、と思ったから」
あっけらかんと言うエンネに、何だか腹が立ってきた。こっちはどれだけ肝を冷やしたと思っているんだ。
「せっかくのきれいな髪が、こんなになっちゃって……」
ため息をつく私に、エンネは「気にしないで」と笑顔を見せる。
「髪なんて、また伸びるだろ。それに、切ってしまったほうが、追っ手を巻くのに都合がいい」
エンネは近いうち、毛染めもするつもりだという。目立つ特徴を隠すためだとわかってはいるのだが、大好きだった彼の姿が変わってしまうのは切ない。もちろん、それでも好きな気持ちに変わりはないのだけれど。
エンネは貴族の館でも、軟禁されていた50年の間、髪を何度か切られたという。例え髪や涙であろうとも、彼の身体を誰かに奪われるのは嫌だ。私はすっかり短髪になってしまったエンネの後ろ姿を見ながら、涙が止まらなかった。
翌朝、一番鶏が鳴く前に私たちはジュゼッペ爺さんの荷馬車で出発した。遠くへ逃げるなら船が良いが、近隣の港には貴族の手が回っている可能性が高い。そこで私たちはまず最も近い国境を越え、そこから川を下って隣国の港へ向かうことにした。
最も危険なのが最初の国境だったが、ジュゼッペは豆の樽に私を隠し、エンネを馬車の床板の裏に張り付かせることでやり過ごした。エルフの身体能力あっての脱出劇であるが、それでもやはり貴族の検問が厳しく行われたので、間一髪だったと言える。
しかし隣国に抜けてからは、進みが速かった。ジュゼッペは小さな河口の船着き場で船頭に何やら耳打ちし、私たちをボートに押し込むと、挨拶もなしに去っていった。
そこから私たちは夜の闇を味方に海へ出て、夜が明ける頃に隣国最大の港町に着いた。ここまで来れば、人に紛れてしまえるので行動がうんと楽になる。エンネは屋台のパン菓子を買って頬張りながら、僅かに不安を含んだ眼差しで私に尋ねた。
「僕たち、ここからどこへ行くの?」
「うん、考えがあるの」
私はエンネの手からパンを奪い、一口かじった。ざらざらした砂糖とバターの香り。安っぽいが安心する味だ。私はフードをかぶったエンネの顔を、下から仰ぎ見るようにして目的地を告げた。
「あんたの、故郷へ向かおうと思う」
エンネの故郷、すなわちエルフの郷である。ユグドラシルの結界で人間界から遮断されているため、どこにあるのかは誰も知らない。当の本人エンネでさえ、攫われて連れてこられたので、この世界のどこなのか、見当もつかないという。
「どうやって? どこにあるのか、僕だってわからないのに」
「でも、近くへ行けばわかるって言ってたでしょ」
以前、エンネに聞いたことがある。エルフたちは結界の外へ出ても、ある程度までの距離ならユグドラシルの力で郷の方角がわかるという。それを過信して遠くまで足を伸ばした結果、エンネは人間に捕らえられたのだ。
「うん、そうだね。風が教えてくれる。それに従って行けば、いつの間にか郷へ戻っているんだ」
「だったら、その風が吹く場所を探しましょう。どっちみち、私たちは定住なんてできないもの」
エンネは最初、ぱっと嬉しそうに表情を輝かせ、しばらくして悲しそうに目を伏せた。
「ごめんね、クロユキ。僕のために居場所を失ってしまった」
私は、しょんぼりするエンネの頭を子どものように撫でて、おでこに鼻をこすりつけた。親愛を示すエルフの挨拶である。
「ばかね。私たち、お互いの隣が居場所でしょう」
そこからはもう、泣き笑いである。私たちはこの瞬間、世界でいちばん幸せな逃亡者になった。
結論から言うと、逃亡生活は約12年に渡った。最初に乗ったのは東の大陸に向かう商船で、私は船長に掛け合って船倉の片隅に潜り込み、さらには地図の模写をさせてもらった。この世界で地図は、船主か貴族しか所有していない希少品なのだ。
「いいか、絶対に誰にも言うなよ」
一本だけ残しておいたマンドリカ酒で買収された船長は、迷った末に私たちの共犯者になった。密航の幇助、収賄エトセトラ、発覚すれば牢屋に入ることになるだろうが、我々も逃亡者なのでお互いお口チャックの約束だ。
「そっちこそ、私たちを売ろうなんて考えないことね。もしもの場合は船が沈む呪いをかけるわ」
私はただの薬師で、呪術の心得などないのだが、船長が裏切った場合を考えて、魔法が使えると脅しておいた。ネタはかんたん、前世で得意だったコイン落としのマジックを見せてやったのだ。
「このコップが、あんたの頭蓋骨ならどうなると思う?」
コインがコップをすり抜けた(ように見えた)瞬間、船長から小さな悲鳴が漏れた。手元が見えにくい暗い船室で披露したので、本当に魔法だと思ったのだろう。忘年会でウケるために、めっちゃ練習したんだよ。元派遣OLなめんな。
お陰で私たちは無事に東の大陸に到着し、地図を頼りに街から街へと渡り歩いた。路銀は、私が薬を作って稼いだ。
冒険者や商人のように、薬師にもギルドに近い組合があり、私はその鑑札を持っている。そのため違う土地であっても、基本的な傷薬や回復薬などなら薬屋で買取をしてもらえるのだ。材料はエンネと二人、せっせと森で採取した。
大した稼ぎにはならなかったが、基本的には森の中で野宿し、星を見ながら寄り添って眠る。元の家にいた時と違うのは、屋根があるかないかくらいだ。
たまに街で宿屋に泊まり、風呂に入ったり洗濯したりもするが、一日で退き払って次の街へ移る。いくら海を渡った外国でも、どこから通報されるかわからないからだ。
エンネは逃亡が始まって以来、短い髪を焦げ茶に染めている。その上から耳当て付きの頭巾をかぶっているので、まるで普通の青年のように見えるが、かつてキラキラ輝いていた白銀の髪をたまに思い出し、泣きたくなる夜も何度かあった。
そんな生活を繰り返し、私たちは何度目かの船に乗ってまた大陸を渡った。昔、私たちが暮らしていた大陸から真北にある、一年の半分以上が冬の大地である。そこでついにエンネは、風の呼び声を聞いた。
「クロユキ、ここだ。この先に、エルフの郷がある」
それが、私たちが出立してから11年と7ヶ月目のことである。




