■第三話 幸せであるほど、不安になるのは何故
恥ずかしがる私を口説き落として、エンネが私の唇を攻略するまでに、一ヶ月。それからさらに攻防を経て、半年足らずで私は完全に彼の手に落ちた。
その際、エンネは貴族の館で経験した悲しい思い出を打ち明けてくれた。彼は男娼として、貴族のご婦人方の相手をさせられていたという。
「告白しといて今さらだけど、僕には黒歴史がある」
私なんて中身はアラサーの転生者(しかも4回目)よ、と言いたかったけど黙っておいた。
「異種族間なら、子どもはできない。それをいいことに、暇を持て余したご婦人方が、金で僕を買うんだ。いま思い出しても吐き気がするよ」
エンネの目尻から、キラキラと粒が落ちる。男も女も、寄ってたかって彼を食い物にしていたのだと思うと、エンネが不憫で胸が締めつけられる思いがした。
「クロユキは……、こんな僕でもいい? 僕の体は汚れている」
「汚れてなんかないわ。よくそんな仕打ちに耐えたわね。汚れているのは、あんたを利用したバカ貴族たちよ。私にとってエンネは、誰よりもきれいで輝いているわ」
そう言うとエンネは、私の肩に頭をのせて「ありがとう」と目を閉じた。こんな可愛い子をいじめやがって。いつか私が仕返ししちゃる。でも、彼が攫われたおかげでこうして今、私たちは一緒にいられるのだ。そう考えると人生とは、何とも皮肉なものである。
そんな毎日を重ねながら、私たちは共に笑い、共に苦労し、たくさんの季節を見送った。そして、気がつけばエンネが森の小屋に来てから間もなく10年。彼は226歳になったが相変わらず若者の姿のままで、木から木を飛び渡りながら元気に過ごしている。
一方私は三十路をいくつか越えて、目尻にシワが刻まれ始めた。エンネと共に生きようと思い始めたときから、常に自分だけが老いていく恐怖はあった。あまりに幸せで、普段は昼間の月のように忘れているが、時々現実に向かい合うのが辛くて仕方ないことがある。
考えても栓ないことなのは理解している。いっそ、老いて醜くなった私をエンネが見限ってくれれば、まだ心理的に楽かもしれない。でも、彼は決してそうしない。むしろ10年前より今の方が、私に対する彼の執着は強くなっており、それがまた私の心を重く苦しめる。
私はそのうち、彼を残して死ぬ。残された彼は、どうやって生きていくのだろうか。原作でのヨルムエンネは、300歳を超えた孤高のエルフだった。そこへたどり着くまでの長い年月を考えると、私は泣きそうな気持ちになるのだ。
しかし、長きにわたる蜜月にも終わりの時が来た。それは、街への買い出しの際に起こった。最近は貴族の追っ手が来なくなったので、ごくたまにエンネと街へ出かけることがある。重たいものを荷車にのせて運ぶので、男手があると助かるのだ。
もちろん、彼がエルフであるとわからぬよう、しっかりと髪を隠す頭巾をかぶって、長いローブで出かけている。前世で言うと中東の女性のような格好だ。店にも入らず誰とも喋らず、買い物だけをさっさと済ませて戻ってくるので、今までは何の問題もなかったのだが、予期せぬ出来事というのは、慣れた頃に起こるものだ。
この日も薬の材料や油などを荷車に積み込み、エンネが引き手を持って運んでいたのだが、間もなく街を出るぞという路地の奥から、勢いよく子どもが飛び出してきた。それだけなら身の軽いエンネのこと。難なく避けてお終いだったのだが、子どもが振り回していた木の枝が、事もあろうに頭巾に引っかかってしまったのだ。
「「あっ!」」
慌てて手で頭巾を押さえたが、時すでに遅し。エンネの見事な白銀の髪が流れ落ち、周囲の人々の目を捉えた。そして次の瞬間、狼狽える私の耳に、最も恐れていた言葉が飛び込んできた。
「おい……、あれってエルフじゃないか?」
「何年か前、お貴族様の館から逃げ出したっていう」
「一緒にいるのは、森に住んでる魔女だ」
ざわざわと人が集まり始め、どうしていいかわからず呆然と立ち尽くしていると、エンネがいきなり私を担いで荷車に放り込んだ。痩せっぽちの体のどこに、こんな力があったのか。
「クロユキ、しっかり捕まってて!」
荷車の中身は、すでに道に投げ捨てられている。私が慌てて荷台の縁にしがみつくと、エンネはものすごい速さで走り出した。エルフの身体能力の高さもさることながら、私はその冷静沈着さに驚いた。ふだんは子供っぽくてのんびりした彼が、いざとなれば頼りがいある大人の男の顔になる。その姿を見て、やはり彼は原作の通り「氷の美麗エルフ」なのだと確信した。
やがて街を出て森の入口まで走りきり、ようやくエンネは荷車を止めた。ものすごいスピードで走ったので、まだ追手の影は見えない。しかし、さっきの誰かが貴族に告げ口するだろうから、小屋を捜索されるのも時間の問題だ。ならば、私たちが選べる道はひとつしかない。
「これからどうする、クロユキ」
「もう、この森にはいられないわね」
二人で過ごした思い出の場所だが、私は家を捨てる決心をした。捕まればエンネはまた見世物として連れて行かれる。そんなことになれば、きっと私は精神を保つことができないだろう。私はエンネに精一杯の笑顔を見せて、こう言った。
「荷物をまとめましょう。二人で、旅に出るのよ」
それから私たちは荷車を捨て、森の獣道を通って小屋に帰った。普通の人間なら半日かかるが、私たちしか知らない近道なら二時間ほどで着く。そして最低限の荷物を背負い袋に詰め込み、地下室の実験動物を逃がして、床にたっぷりと毒草を撒いておいた。命に関わるようなものではないが、吸い込めばしばらくは咳が止まらなくなる。エンネを追い込んだ奴らへの、せめてもの意趣返しである。
「ここは大好きな家だったから、離れるのは悲しいな」
そう呟いたエンネの眦から、輝く粒がコロコロと床に落ちた。私だって、同じ気持ちだ。毎日、向かい合って食事をしたテーブル、エンネが草の汁で染めた木綿のカーテン、抱き合うようにして眠った狭いベッド。何もかもが、私たちの幸せな日々の思い出である。
私は身を断ち切られる想いで、古い木のドアを締めて吊り橋を渡り、最後に小屋の風景を目に焼き付けた。もう一生、ここへ戻ることはないだろう。しばらく眺めていたかったが、私たちには時間がない。急いで森の中を駆け抜け、街とは違う方角を目指した。唯一、私たちを助けてくれそうな人物に会うためである。
森の北側には、私と同じくらい偏屈な爺さんが住んでいる。いわゆる訳あり案件を扱う商人で、彼に頼めば大概のものは入手できる。私も何度か、希少な薬草を注文したことがあった。ジュゼッペは金に卑しく口汚く、愛想のかけらもない老人であるが、契約した仕事だけは確実に履行する。そんな彼に私たちの逃亡を手伝わせようという訳である。
「はっ、やなこった」
思った通り、ジュゼッペは簡単には首を縦に振らなかった。貴族の圧力には屈しない人間ではあるが、面倒を背負い込むのは真っ平ごめんだと手を振って私たちを追い払う仕草をした。ここまでは想定の範囲内だが、諦めるわけにはいかない。普通に逃げていては、すぐに追手に捕まってしまう。私は彼の食指が動きそうな条件を提示した。
「この鍵を、あんたにあげるわ。私の家の床下の鍵よ」
ジュゼッペのぎょろりとした眼が、小さな鍵を睨みつける。
「何があるんだ」
「希少な薬草、調合に使う宝石や貴石、調合した薬も全部そこにあるわ。あと、マンドリカ酒の10年ものが7本ほど」
老人の目は、まだ鍵を睨み続けている。頭の中で損得勘定をしているのだろう。いつぞやエンネを匿った地下の貯蔵庫に、私は貴重品を詰め込んで出てきた。捜索隊があらかた調べた後でこっそり取りに行けば、かなりの金額になるはずだ。中でもマンドリカ酒の古酒は、なかなか市場に出回らないレアな酒である。どうか、これで手を打ってくれ。
そう祈りながらジュゼッペと対峙していた私の背後で、何やらガタガタと音がした。振り向くとエンネが立っているではないか。外で待っているように言ったのに! そしてエンネは、私が思いもよらない行動に出た。




