第三十七話:裏切りの刃、最後の咆哮
第三十七話:裏切りの刃、最後の咆哮
丑三つ時、疲労困憊の晋陽城を、悪夢のような静寂が支配していた。連日の激戦は、城内の誰もから体力と気力を奪い去り、今はただ、次なる攻撃に備えて、浅い、悪夢にうなされるような眠りに落ちている者がほとんどであった。
しかし、その静寂は、最も恐れていた形で、内側から破られた。
「な、何者だ! 貴様ら!」
「敵だ! 裏切り者だ! 城内に敵が!」
南門付近。闇に紛れて動く不審な影に気づいた哨兵の声は、すぐに悲鳴に変わった。見れば、昼間は復興作業に従事していたはずの元魏兵たちが、密かに隠し持っていた武器を手に、守備兵たちに襲いかかってきたのである! 彼らの目は、故郷への思いと、魏軍に合流すれば助かるという最後の望みに血走り、死に物狂いであった。
「城門を開けるぞ! 魏軍を招き入れるのだ!」かつての魏軍将校だったリーダー格の男が叫び、数十人の反乱者たちは、手薄になった守備兵を次々と斬り伏せ、城門の巨大な閂へと殺到した。このままでは、内から門が開かれ、魏の大軍が雪崩込んできてしまう!
「大変です! 南門にて、元魏兵たちが反乱! 城門が危うい!」
その凶報は、瞬く間に城内を駆け巡り、仮眠を取っていた呂布や家臣たちの元にも届いた。
「なにぃ!? 裏切りだと! あの者たちを、生かしておいたのが間違いだったか!」呂布は、牀榻から飛び起きた。肩の傷が激しく痛むが、それ以上に、裏切りへの怒りが彼の全身を貫いた。
「…くっ、やはり来たか! 司馬懿め、この手を隠し持っていたとは…! 私の警戒が足りなかったか…!」陳宮も、唇を噛み締め、自らの失策を悔いた。
「奉先様! いかがなさいますか!?」張譲が狼狽しながら尋ねる。
「決まっている!」呂布は、傍らに立てかけてあった方天画戟を掴もうとしたが、左肩の激痛に顔を歪め、それを断念した。代わりに、腰に佩いていた愛用の剣を抜き放った。「俺が行く! 裏切り者どもを、この手で始末してくれるわ!」
「お待ちください、将軍!」陳宮が必死に制止した。「将軍は城全体の指揮を! それに、お体のお傷が…! ここは、張遼殿か、飛燕様たちにお任せするのが!」
「いや、俺が行く!」呂布の決意は固かった。「これは、俺が奴らを生かしておいた責任でもある。それに、この混乱の中、兵たちの士気を繋ぎ止められるのは、俺しかおるまい! 俺の姿を見せるのだ!」(それに…あの者たちも、生きるために必死だったのかもしれん。だが、仲間を裏切る行為だけは、断じて許せん!)彼の心には、怒りと共に、複雑な思いも去来していた。
呂布は、陳宮の制止を振り切り、数名の親衛隊だけを連れて、南門へと駆けつけた。厩舎にいる赤兎の元を、彼は一度だけ振り返った。先の戦いで脇腹と脚に矢を受け、もはや全力で駆けることは叶わない相棒。その瞳が、悲しげに主を見送っていた。
南門付近では、既に激しい戦闘が繰り広げられていた。反乱者たちは、数で勝る并州兵(駆けつけた張遼や飛燕、宋憲の部隊も含む)に追い詰められつつあったが、必死の形相で抵抗を続けていた。城門の閂は、あと一歩で外されそうになっている。
そこへ、呂布が、鬼神の如き形相で現れた。
「裏切り者どもめ! この呂布奉先が、貴様らを一人残らず地獄へ送ってくれるわ!」
呂布の、戦場を支配するほどの覇気に、反乱者たちは一瞬怯んだ。だが、もはや後戻りはできない。彼らは、呂布に対しても、死に物狂いで襲いかかってきた。
しかし、相手が悪すぎた。たとえ肩を負傷し、武器が剣であろうとも、呂布は呂布。彼の振るう剣は、まるで閃光のように煌めき、反乱者たちの防御を容易く切り裂いていく。数で勝るはずの彼らは、呂布の圧倒的な武の前に、なすすべもなく斬り伏せられていった。
「ひ、ひいぃぃ!」
「逃げろ! 本物の鬼神だ!」
反乱者たちの士気は完全に崩壊した。張遼や飛燕、宋憲の部隊が、逃げ惑う彼らを容赦なく討ち取り、あるいは捕縛していく。裏切りに対する彼らの怒りは、激しかった。
城門は、辛うじて守られた。だが、この内部反乱は、既に限界に近かった并州軍の士気に、決定的な打撃を与えた。仲間からの裏切りという事実は、兵士たちの心に深い疑心暗鬼と、拭いきれない絶望感を植え付けた。
そして、まるでその瞬間を待っていたかのように、夜が明け、朝陽が昇ると共に、城外の魏軍と鮮卑軍が、これまでにないほどの規模と激しさで、晋陽城への最後の総攻撃を開始したのである!
無数の投石機が火球を放ち、城内のあちこちで火の手が上がる。巨大な衝車が、傷ついた城門めがけて何度も何度も打ち付けられ、ついに轟音と共に門の一部が破壊された! 雲梯が城壁に無数に掛けられ、魏兵たちが鬨の声を上げながら、蟻のように登ってくる。北門でも、軻比能軍の猛攻が激しさを増し、城壁の一部が突破されかかっていた。
「も、持ちこたえられません!」
「矢が尽きました! 石もありません!」
「城壁が…! 西壁が、ついに破られました!」
城壁の各所から、悲鳴に近い報告が上がる。兵士たちの抵抗も、もはや限界だった。疲労と絶望、そして圧倒的な物量の前に、彼らの心は折れかけていた。
呂布は、自らも剣を振るい、迫りくる敵兵を斬り伏せながら、必死に兵士たちを鼓舞し続けた。
「諦めるな! 最後まで戦え! 并州の魂を見せろ! 故郷を、家族を守るのだ!」
だが、彼の声も、もはや戦場の喧騒と、兵士たちの絶望的な呻きの中にかき消されそうになっていた。多勢に無勢。兵糧も、武器も、そして兵士たちの気力も、全てが尽きようとしていた。
ついに、西側の城壁が大きく崩落した。そこから、魏兵たちが、勝利の雄叫びを上げながら、怒涛の如く城内へと雪崩込んできたのである。
「…これまで、か…!」
城楼で最後まで指揮を執っていた陳宮が、血を吐くような声で、天を仰ぎ、力なく呟いた。その傍らで、老将・張譲も、故郷の滅亡を悟り、静かに涙を流しながら崩れ落ちた。
城内の各所で奮戦していた娘たちも、その絶望的な光景を目の当たりにし、言葉を失っていた。暁と王基は、最後まで民衆を守ろうと指示を出し続けていたが、もはや為す術はない。飛燕と宋憲は、迫りくる敵兵を前に、最後まで戦う覚悟を決めて剣を構え直した。華と郭淮は、負傷者たちと共に、迫りくる死の足音を、ただ静かに聞いていた。
そして、呂布は…。
彼は、崩落した城壁の缺口に、ただ一人、立ちはだかっていた。その手には、もはや方天画戟はない。血に濡れた剣を、静かに構えている。その体は無数の傷で覆われ、血と泥にまみれ、疲労は極限に達している。だが、その瞳には、未だ諦めを知らぬ、誇り高い北辰の光が宿っていた。
(これが、俺の最後の戦場か…)
彼は、遠い日の丁原の言葉を思い出していた。
『奉先…力だけでは、真の武人とは言えん…義を…貫け…民を…守れ…』
(親父殿…俺は、あなたの教えを守り抜けたでしょうか…? 民を…守れたでしょうか…? いや、守りきれなかったかもしれん…すまぬ…)
彼の脳裏に、愛しい娘たちの、そして無邪気な孫たちの笑顔が浮かんだ。
(すまぬ…お前たちを守りきれなかった…だが、父は、最後まで…!)
呂布は、最後の力を振り絞り、雪崩れ込んでくる魏兵の黒い波に向かって、静かに、しかし力強く、その剣を構え直した。彼の背後には、彼が愛した并州の大地が広がっている。
北方の鬼神、呂布奉先。彼の最後の咆哮が、今、始まろうとしていた。それは、勝敗を超えた、一人の武人の、魂の輝きそのものであった。




