第三十四話:最後通牒、北方の決意
第三十四話:最後通牒、北方の決意
司馬懿仲達が魏の実権を完全に掌握した――その報せは、并州に決定的な、そして避けられない最後の嵐の到来を告げていた。いつ、その巨大な力がこの北方の地に向けられるか。晋陽の城内は、固唾を飲んでその時を待つ、張り詰めた空気に満ちていた。
そして、秋風が冷たさを増してきた頃、魏からの大規模な使節団が、威圧的な護衛部隊と共に晋陽に到着した。もはや外交使節ではなく、降伏勧告のための軍使であることは、誰の目にも明らかであった。
使者の代表は、やはりあの老獪そうな文官、蒋済であった。彼は司馬懿の腹心の一人であり、その目は怜悧な光を宿していた。謁見の間で、居並ぶ呂布や陳宮、張遼ら家臣たちを睥睨するように見渡すと、彼は抑揚のない、しかし有無を言わせぬ声で口上を述べ始めた。
「鎮北将軍・呂布殿に、帝陛下、並びに政を輔佐され、今や魏の全権を掌握された大尉・司馬懿閣下より、最後のお言葉を伝えに参った。魏は今や天下をほぼ平定し、その威光は四海に遍く。速やかに魏に降伏し、帝に忠誠を誓うならば、将軍には列侯の位と、洛陽での安楽な余生を保証しよう。ご家族の身も安泰であろう。これは、司馬懿閣下の、最後の温情である」
それは、甘美な響きを持つ、しかし有無を言わせぬ降伏勧告であった。呂布が内心で(大将軍や朔方郡といった、以前の餌よりも随分と現実的な条件になったものだ…それだけ、奴らも本気ということか)と嘲る。
蒋済は続けた。「しかし、もし、この期に及んで、なおも天意に逆らい、愚かな抵抗を続けるというならば…」彼の声が、氷のように冷たくなった。「司馬懿閣下は、自ら十五万の大軍を率い、この并州を文字通り、草一本残さず蹂躙するであろう。北の軻比能も、既に閣下と手を結んでいる。貴殿らに、もはや逃げ場はない。降伏か、死か。ご決断を」
最後通牒。謁見の間は、水を打ったように静まり返った。家臣たちは顔面蒼白となり、あるいは怒りに拳を握りしめる。陳宮は目を伏せ、何かを計算するかのように指を動かしている。張遼は、ただ黙って、主君の顔を見つめていた。
呂布は、玉座に座したまま、静かに蒋済を見据えていた。彼の脳裏には、これまでの長い戦いの日々が駆け巡っていた。丁原に拾われた曠野、虎牢関での激闘、黒山賊との死闘、狼牙山での奇跡的な勝利…。そして、晋陽で待つ、愛しい娘たち、無邪気な孫たちの笑顔。(俺は何のために戦ってきた? 何を守ろうとしてきた?)
長い、重い沈黙の後、呂布はゆっくりと口を開いた。その声は、驚くほど穏やかであった。
「…勅使殿、遠路ご苦労であった。帝と、司馬懿殿のお言葉、確かに承った」
彼は、静かに立ち上がると、その老いたとは思えぬ威厳に満ちた姿で、続けた。
「…だが、断る」
その一言は、雷鳴のように謁見の間に響き渡った。
「な…! 将軍、本気か! それが何を意味するか、分かっておいでか!」蒋済は、信じられないといった表情で声を荒らげた。
「ああ、本気だ」呂布は、揺るぎない声で言った。「俺は、并州の民と、我が家族を守ると誓った。魏に降伏し、与えられた安楽な余生に甘んじることなど、俺の『義』が許さぬ。俺を信じてついてきてくれた者たちへの裏切りでもある。それに…」
彼は、ふっと、まるで嵐の前の静けさのような、しかし絶対的な自信に裏打ちされた、不敵な笑みを浮かべた。
「…忘れたか、勅使殿。俺は、呂布奉先だぞ? この俺が、戦わずして敵に膝を屈するなど、天地がひっくり返ってもありえんことよ」
その言葉には、長年戦場を駆け抜け、最強と謳われた武人としての、最後の、そして最大の誇りが燃え盛っていた。
「貴様…! 正気か! 自ら破滅を選ぶというのか! 並州の民を見殺しにする気か!」蒋済は、怒りに顔を歪ませ、呂布の「義」を逆撫でするように叫んだ。
「破滅かどうかは、戦ってみなければ分からん」呂布は、その挑発に乗ることなく、静かに言い放った。「俺は民を見殺しにはせん。だからこそ、戦うのだ。司馬懿に伝えよ。この呂布奉先、そして我が并州の民は、貴殿らを全力で迎え撃つ、と。どちらが真の強者か、どちらの『義』が天に認められるか、この北方の地で、決着をつけようではないか、とな!」
もはや、交渉の余地はない。呂布の覚悟は、誰にも覆すことはできなかった。
「…よ、よかろう…!」蒋済は、呂布の凄まじい気迫に完全に気圧され、震える声でそれだけ言うのが精一杯だった。「将軍の返答、確かに持ち帰ろう。だが、必ずや後悔することになるぞ! 貴殿のその愚かな誇りが、この并州を地獄へと突き落とすのだ!」彼は、怒りと恐怖に満ちた捨て台詞を吐き捨てると、足早に謁見の間を去っていった。
後に残されたのは、悲壮な、しかし一点の曇りもない覚悟を決めた呂布と、その主君と共に最後まで戦うことを誓う家臣たちであった。
「…将軍、ご決断、見事にございます」陳宮が、静かに、しかし感極まった様子で言った。彼の目には、軍師としての冷静さを超えた、主君への深い敬意が宿っていた。(これが…この方を選んだ理由か…)
「某も、この命、尽きるまでお供いたします!」張遼が力強く言った。
「この老骨、灰になるまで!」張譲も涙ながらに誓った。
厳続をはじめとする他の将たちも、次々と呂布の前に進み出て、最後の忠誠を誓った。彼らの心は、今、完全に一つになっていた。
呂布は、その家臣たちの顔を一人一人見つめ、力強く頷いた。
「…皆、感謝する。最後の戦いだ。我らの力を、そして并州の魂を、司馬懿とやらに見せつけてやろうではないか! 悔いの残らぬよう、存分に戦おうぞ!」
魏からの最後の通告を、呂布は自らの「義」と「誇り」、そして愛する者たちを守るという「誠」をもって、はっきりと拒絶した。それは、并州の独立を守るための、そして自らの生き様を貫くための、彼の最終的な、そして最も尊い選択であった。
もはや、後に引く道はない。残されたのは、并州の全ての力をこの晋陽城に結集し、迫り来る史上最大の敵を、迎え撃つことのみ。軍議は夜を徹して行われ、陳宮を中心に、籠城戦術、兵力配置、食料配分、そして万が一の際の次世代への継承まで、最後の作戦が練り上げられていった。
北方の空に、戦いの嵐が、いよいよその黒い翼を広げようとしていた。并州の、そして呂布奉先の、最後の戦いが、今、その壮絶な幕を開けようとしていた。




