第三十一話:黒き旋風、反撃の狼煙
第三十一話:黒き旋風、反撃の狼煙
「張遼!? なぜ貴様がここに!?」
呂布の驚愕の叫びが、狼牙山の谷間に響き渡った。絶体絶命の窮地に、ありえないはずの場所から、ありえないはずの男が現れたのだ。黒い鎧に身を包み、精鋭騎馬隊を率いて敵陣の後方から突撃してくる、その将は紛れもなく張遼文遠であった。
「奉先様(呂布)の危機と聞き、馳せ参じました!」張遼は、馬上から力強く叫んだ。その表情には、主君を救うという鋼のような決意がみなぎっている。「陳宮殿からの密命でもありました故! 北の守りは、信頼できる副将に託して参りました!」
(陳宮殿の…策か!)呂布は瞬時に合点がいった。あの軍師は、この最悪の事態――自分が突出して危機に陥ることすら予測し、張遼に密かに「第二の矢」としての役割を与えていたのだ。おそらくは、雁門方面の敵を食い止めつつも、常に本隊と連絡を取り、機を見て救援、あるいは敵本陣への奇襲を行え、と。
張遼の、それも敵の後方からの突然の出現は、呂布を討ち取ろうとしていた夏侯惇、夏侯淵、黒沙ら魏の猛将たちに、致命的な衝撃と混乱をもたらした。
「な、何奴!?」
「敵の後方からだと!? いつの間に回り込んだのだ!」
「張遼だと!? 并州の主力はここにいるはずではなかったのか!」
彼らの注意が、一瞬、背後から迫る黒い旋風へと向いた。その一瞬の隙を、呂布が見逃すはずはなかった。
「うおおおおっ!」
彼は、左肩に突き刺さった矢の激痛を、精神力で捻じ伏せると、残る右腕一本で方天画戟を拾い上げ、獣のような雄叫びと共に、最も近くにいた黒沙へと斬りかかった。それは、死地から蘇った鬼神の、怒りの一撃であった。
「なっ…!?」黒沙は咄嗟に鉄蒺藜骨朶で受け止めたが、呂布の凄まじい気迫と渾身の力に押され、巨体がよろめき、数歩後退する。
そこへ、疾風のように駆けつけた張遼が、寸分の狂いもない槍捌きで、鋭い一突きを黒沙のがら空きになった脇腹へと繰り出した。
「ぐあああっ!」
黒沙は、槍を辛うじて体で受け流したが、脇腹を深く裂かれ、鮮血が噴き出した。たまらず彼は後方へと飛び退いた。
「張遼! 邪魔をするな!」それまで呂布との一騎打ちに集中していた許褚が、状況の変化に気づき、怒りの形相で張遼に襲いかかる。
「虎痴か! 並州の張文遠が、お相手仕る!」張遼は、許褚の人間離れした猛攻を、冷静沈着に、しかし一歩も引かずに捌きながら応戦する。新たな龍虎の戦いが、そこで始まった。
一方、夏侯惇と夏侯淵は、呂布と張遼の見事な連携、そして後方から雪崩れ込んでくる張遼隊の勢いに、一瞬、戦うべきか退くべきか、判断を迷った。
「退け! 一旦退いて陣形を立て直すぞ!」夏侯惇が、苦渋の表情で叫んだ。
しかし、呂布と張遼が、それを許すはずがなかった。
「逃がすか、夏侯兄弟!」
呂布は赤兎を駆り、張遼もまた黒き愛馬を操り、二人は阿吽の呼吸で夏侯兄弟に襲いかかる。呂布が方天画戟で夏侯惇の防御を力でこじ開ければ、張遼がその速さを活かして夏侯淵の死角を突く。二人の猛将を相手に、夏侯兄弟も必死に応戦するが、明らかに分が悪く、徐々に追い詰められていく。
さらに、張遼が率いてきた并州の精鋭騎馬隊(およそ千騎)が、混乱する魏軍の後方部隊へと容赦なく突撃し、これを蹂躙していく。彼らは軽装ながらも、一人一人が高い戦闘能力を持ち、奇襲戦法に長けていた。
「いかん! 後方が崩壊する!」
「持ち場を離れるな! 立て直せ!」
魏軍の陣形は、張遼隊という予期せぬ刃によって、背後から切り裂かれ、完全に崩壊しつつあった。
この戦況の急変を、後方の丘の上から冷静に見つめていた陳宮は、静かに、しかし力強く右手を振り下ろした。
(今だ…! この好機を逃してはならぬ!)
「伝令! 高順将軍へ伝えよ! 陥陣営、前へ! 敵の中央を突破し、敵軍を分断せよ! 張譲殿は、左右の伏兵部隊と連携し、敵の退路を断ち、包囲殲滅を図れ!」
陳宮の的確な指示が、矢のように各部隊へと伝わる。
「応!」
それまで鉄壁の守りに徹していた高順の陥陣営が、重い地響きと共に前進を開始した。彼らは、乱れた魏軍の中央へと、まるで巨大な鉄の楔を打ち込むかのように、一糸乱れぬ密集陣形「陥陣鉄壁」で、恐ろしいほどの圧力をもって突き進んでいく。その前には、いかなる抵抗も無意味であった。
左右の山からは、再び并州の伏兵たちが姿を現し、逃げようとする魏兵たちの退路を断ち、容赦ない矢の雨を降らせる。
呂布軍の、怒涛の如き総反撃が始まったのだ。
呂布は、張遼と共に夏侯兄弟を相手に奮戦を続けていた。左肩の傷が激しく痛み、体力の消耗も激しい。だが、張遼という頼れる右腕を得て、そして何よりも、仲間たちが繋いでくれたこの反撃の好機を無駄にはできないという強い意志が、彼を支えていた。
「どうした、夏侯惇! 貴様らの力は、その程度か!」
「くっ…呂布め…! この状況で、まだこれほどの力を…!」
夏侯惇も夏侯淵も、呂布と張遼という二人の猛将の、死力を尽くした猛攻の前に、ついに抗しきれなくなりつつあった。
一方、許褚は張遼から離れ、必死に崩れゆく自軍の兵士たちをまとめようとしていたが、陥陣営の突破と、伏兵による包囲攻撃を前に、もはや為す術はない。脇腹に傷を負った黒沙は、忌々(いまいま)しげに戦況を見つめ、いち早く戦場から離脱する機会を窺っていた。(呂布…張遼…覚えていろ…! この借りは必ず返す!)
戦いの趨勢は、完全に呂布軍へと傾いていた。勝利は目前であった。
(よし…! この勢いならば、曹操の本陣まで…!)呂布は、勝利を確信し、さらに深く敵陣へと切り込もうとした。
だが、その時、遠く魏軍の本陣から、退却を告げる銅鑼の音が、高く、そして統制の取れた響きで鳴り渡った。それは、単なる敗走を告げる音ではなく、全軍に対して、秩序を保ったまま速やかに後退せよ、と命じる合図であった。
「…退却だと?」呂布は眉をひそめた。「なぜだ? このまま押し込めば、奴らを壊滅させられるというのに!」
「おそらく…司馬懿の判断でしょう」傍らで槍を振るいながら、張遼が冷静に言った。「これ以上の損害を避けるための、見事な退き際です。深追いすれば、彼らが仕掛けた新たな罠にはまるやもしれません。それに…」張遼は呂布の左肩の傷を見た。「奉先様も、我らも、もはや限界に近いかと」
「司馬懿…!」呂布は、遠くに見えるであろう魏軍の本陣を睨みつけた。あの智将は、この敗北(あるいは一時的な後退)すらも、計算の内だというのか。その底知れぬ才覚に、呂布は改めて戦慄を覚えた。
「追撃しますか?」張遼が改めて尋ねた。
「…いや、待て」呂布は、悔しさを噛み殺しながら、首を振った。左肩の傷が、ズキンと激しく痛む。「張遼の言う通りだ。深追いは危険だ。それに、我らの損害も決して少なくない。今は、この勝利を確実なものとし、体勢を立て直すのが先決だ」
それは、かつての、ただ勝利と武功のみを追い求めた彼ならば、決して下さなかったであろう、冷静で、そして指導者としての判断であった。
呂布は、全軍に追撃停止を命じると、戦場の後始末と、負傷者の救護を指示した。
狼牙山の谷間には、夕陽が差し込み、おびただしい数の魏兵の亡骸と、そして同じく奮戦して倒れた并州兵たちの姿を赤く照らし出していた。遺棄された武具や、折れた旗指物が散乱し、戦いの激しさを物語っている。呂布は、その光景を馬上から黙って見つめ、改めてこの戦いの厳しさと、勝利のために払われた犠牲の大きさを、そして守るべきものの重さを噛みしめていた。
張遼の劇的な救援、陳宮の的確な采配、高順と陥陣営の鉄壁の守り、そして何よりも、呂布自身の不屈の闘志と、彼を信じて死力を尽くした将兵たちの奮戦によって、呂布軍は絶体絶命の危機を脱し、司馬懿率いる魏の大軍に痛撃を与えることに成功した。
しかし、これは最終的な勝利ではない。司馬懿は、必ずや再起し、より巧妙な策をもって、再びこの并州に襲いかかってくるだろう。本当の決戦は、まだこれからなのだ。
呂布は、傷ついた肩を押さえながら、静かに晋陽への帰還を命じた。嵐は、一時的に過ぎ去ったかのように見えた。だが、空には依然として暗雲が垂れ込め、本当の嵐がこれから訪れることを予感させていた。




