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第二十九話:狼煙上がる、最終決戦の序幕

第二十九話:狼煙上がる、最終決戦の序幕


并州(へいしゅう)を覆う重苦しいほどの静寂は、ついに破られた。遼東(りょうとう)平定という恐るべき戦果を引っ提げ、魏(ぎ)の大尉(たいい)・司馬懿(しばい)仲達(ちゅうたつ)率いる大軍が、満を持して并州へと侵攻を開始したのである。その数、実に十万と号す。国境の物見台から次々と上がる狼煙(のろし)が、晋陽(しんよう)へと危機を伝え、并州全土に最後の戦いの始まりを告げた。


「来たか…!」


晋陽の城楼、最も高い場所で、呂布(りょふ)は南の空から立ち上る幾筋もの狼煙を睨みつけ、静かに呟いた。その表情に、驚きや動揺の色はない。ただ、長年待ち続けた宿命の相手と、ついに雌雄を決する時が来たのだという、武人としての静かな高揚感と、并州の全ての命運を背負う者としての、鋼のような覚悟が滲(にじ)み出ていた。


魏軍の進軍経路は、陳宮(ちんきゅう)の予測通り、複数に分かれていた。司馬懿は、かつて曹操(そうそう)軍が苦戦した狼牙山(ろうがさん)ルートの攻略は避け、主力部隊を比較的平坦な主要街道から晋陽へと向かわせる一方、別動隊を北の雁門(がんもん)方面や、西の河東(かとう)方面からも同時に侵攻させ、并州軍の戦力を分散させ、守りを手薄にさせようという周到な戦略であった。


「さすがは司馬懿、油断も隙もないわ」軍議の席で、陳宮は地図を指し示しながら言った。「しかし、これも想定の範囲内。我らの策も、既に動き出しております」


陳宮が練り上げた迎撃策――「晋陽を中心とした多重防御網と、遊撃部隊による機動防御」に基づき、并州軍は迅速に、しかし静かに配置についていた。


晋陽の守りは、高順(こうじゅん)率いる「陥陣営(かんじんえい)」を核とし、城壁は極限まで補強され、城内には長期籠城に耐えうるだけの兵糧と武器が備蓄されている。老将・張譲(ちょうじょう)が後方支援と兵站(へいたん)の維持を統括し、民衆も一丸となって守りを固めている。


北の雁門方面へは、張遼(ちょうりょう)が俊足の騎馬隊三千を率いて急行。彼の任務は、敵別動隊の足止めと遅滞、可能であれば奇襲による打撃を与え、決して晋陽への接近を許さないことであった。


西の河東方面へは、呂布の次女・飛燕(ひえん)が、夫となった宋憲(そうけん)と共に、父から託された精鋭騎兵千騎を率いて派遣された。彼女にとっても、これは初めての大規模な実戦指揮であったが、その瞳には不安よりも闘志が燃えていた。


そして、魏軍の主力が進むであろう、晋陽へと続く主要街道。その街道を見下ろす、起伏に富んだ丘陵地帯に、呂布自身が、手勢の并州騎兵五百と、歴戦の古参兵を中心とした歩兵部隊を率いて布陣していた。彼の役割は、自らが囮(おとり)となり、圧倒的な武勇で敵の主力を引きつけ、消耗させ、そして決定的な好機を待つことであった。


「奉先様、あまりにも危険です! 総大将が自ら先陣とは!」陳宮は最後までこの策の危険性を訴えた。

「心配はいらん」呂布は、赤兎(せきと)の首筋を叩きながら、自信に満ちた笑みを浮かべた。「俺が敵を引きつけねば、この策は成功せん。それに…」彼は悪戯っぽく笑った。「俺を討ち取れる者など、この世におるものか。貴公は、後方でどっしりと構え、俺の戦いぶりを見ておれば良い」

その言葉には、絶対的な自信と共に、軍師への揺るぎない信頼も込められていた。陳宮は、深いため息をつきながらも、静かに頷くしかなかった。そして、彼は誰にも気づかれぬよう、北へ向かう張遼の肩を叩き、一言だけ囁いた。「文遠、万が一の時は…頼むぞ」と。


出陣を前に、呂布は集まった将兵たちに最後の檄(げき)を飛ばした。

「者ども、よく聞け! 我らは、この并州の地で生まれ、育ち、そしてこの地を守るために、今、ここに立っている! 敵は十万の大軍なれど、恐れることはない! 我らには、この地の利と、何者にも屈せぬ并州武士の誇り、そして守るべきものへの揺るぎない『義』がある! 亡き丁原(ていげん)様も、天から我らを見守っておられる! 死力を尽くせ! そして、必ずや生きて、勝利の酒を酌み交わそうぞ!」


「応!!」


将兵たちの鬨(とき)の声が、天を衝くように響き渡った。それは、絶望的な状況にも怯むことのない、北方の狼たちの雄叫びであった。


やがて、地平線の彼方から、魏軍の先鋒部隊が砂塵を巻き上げて姿を現した。先頭に立つのは、隻眼の猛将・夏侯惇(かこうとん)と、弓馬に優れた夏侯淵(かこうえん)の兄弟将軍。その後ろには、許褚(きょちょ)や曹仁(そうじん)といった猛将たちの部隊が続き、その威容は大地を埋め尽くさんばかりであった。


呂布は、丘陵地帯の岩陰や林の中に巧みに兵を伏せ、敵の先鋒が十分に谷間の街道へと引き込まれるのを待った。


「来たぞ!」斥候からの報告。

「頃合いよし…」呂布は、傍らの赤兎に囁いた。「行くぞ、相棒! 俺たちの最後の戦になるやもしれん。派手にいこうぜ!」赤兎は、主の覚悟に応えるかのように、力強く嘶いた。


「全軍、突撃!」


呂布の号令一下、丘陵に潜んでいた并州騎兵隊五百が、まるで雪崩(なだれ)のように、油断していた魏軍先鋒部隊の側面へと襲いかかった。完全に意表を突かれた魏軍の隊列は、一瞬にして混乱に陥った。


「敵襲! 敵襲だ! 側面からだ!」

「罠だ! 落ち着け、陣形を立て直せ!」


混乱の中、呂布はただ一騎、敵陣深くへと切り込んでいく。狙うは、敵の指揮官、夏侯惇・夏侯淵の首。

「夏侯惇! 夏侯淵! 呂布奉先が来たぞ! 虎牢関(ころうかん)の借りを返しに来たわ!」


呂布の咆哮(ほうこう)と共に、方天画戟(ほうてんがげき)が紅蓮(ぐれん)の軌跡を描く。赤兎の神速は、老いてもなお衰えを知らず、敵兵は反応することすらできずに薙ぎ倒されていく。その様は、まさに戦場を舞う死神。


「おのれ、呂布! またしても貴様か!」夏侯惇が、怒りの形相で刀を振るって呂布に斬りかかってくる。

「死に損ないめが! 今日こそ、ここで討ち取ってくれる!」夏侯淵も、馬上から巧みに弓を引き絞り、必殺の矢を次々と放ってくる。


呂布は、二人の猛将を同時に相手にしながらも、笑みを絶やさない。方天画戟で夏侯惇の重い一撃を受け流し、赤兎の神業的な動きで夏侯淵の矢を紙一重でかわす。(ふん、この程度か! 虎牢関の頃より、少しは腕を上げたようだが!)


しかし、魏軍もさるもの。夏侯兄弟は巧みな連携で呂布を攻め立て、周囲の兵士たちも数の利を活かして呂布を包囲しようと動き始める。呂布は、このままでは不利と判断し、一旦距離を取り、体勢を立て直そうとする。


だが、その時、魏軍の後方から、地響きと共に新たな部隊が砂塵を上げて迫ってくるのが見えた。その部隊の先頭に立つ者の姿を見て、呂布の表情から笑みが消えた。


熊のような巨躯。禍々(まがまが)しい刺青(いれずみ)。そして、手に持つのは、あの忌まわしい棘付きの鉄棍棒――鉄蒺藜骨朶(てつしつりこつだ)。


(あの男…! なぜここに!?)


虎牢関で死闘を繰り広げた、あの西域の異形の猛将、黒沙(こくさ)であった! 彼は、董卓(とうたく)の死後、 どういうわけか司馬懿に拾われ、その軍門に降(くだ)っていたのだ!


「はっはっは! 呂布! また会えたなァ! 貴様の首は、この黒沙様が貰うと、あの世の董卓様に約束したのだ!」


黒沙は、鉄蒺藜骨朶を振り回し、獣のような獰猛(どうもう)な笑みを浮かべて呂布へと迫ってくる。


前には夏侯惇、夏侯淵。そして、背後からは黒沙。三人の、いずれも劣らぬ強敵が、呂布の前に立ちはだかる。


(面白い…!不足はない!)


呂布の心に、絶望ではなく、むしろ歓喜に近い、激しい闘志の炎が燃え上がった。并州の命運を賭けた最終決戦は、早くも、呂布奉先という男の、武人としての本能を最大限に引き出す、壮絶な幕開けを迎えようとしていた。

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