第二十七話:魏の勅使、最後の駆け引き
第二十七話:魏の勅使、最後の駆け引き
遼東を驚くべき速さで平定した司馬懿仲達。その報せは、并州の呂布たちに、これまでにないほどの衝撃と危機感をもたらした。いつ、その鋭い矛先が、この北方の地に向けられてもおかしくはない。晋陽の城内は、表面的な平穏を保ちつつも、来るべき決戦に備え、張り詰めた空気に満ちていた。
しかし、司馬懿の次の一手は、呂布たちの予想とは少し異なっていた。彼は、遼東平定で疲弊した軍を休ませるためか、あるいは別の策謀を巡らせているのか、大軍を率いて一旦中原へと帰還する動きを見せたのである。
「…どういうことだ?」軍議の席で、呂布は訝しんだ。「司馬懿は、我らを攻めるのではないのか? それとも、何か裏があるのか?」
「おそらくは、両方でしょう」陳宮は、地図を睨みながら冷静に分析した。「司馬懿は力押しを好まぬ男。まずは軍を休ませつつ、我らの出方を窺い、同時に別の手段で揺さぶりをかけてくるはず。例えば…外交圧力、あるいは内部への調略など」
陳宮の予測は、今回も的中した。数日後、魏の都・洛陽から、帝の勅使と称する、物々しい行列が晋陽へと到着したのである。前回よりも多くの兵を伴い、その威圧感は格段に増していた。
使者の代表は、やはりあの老獪そうな文官であった。彼は、謁見の間で、居並ぶ呂布や家臣たちを前に、丁重な、しかし有無を言わせぬ口調で口上を述べ始めた。
「呂布将軍、先の遼東平定、誠に慶賀の至りにございます。これもひとえに、将軍が北方の守りを固め、魏の背後を脅かす憂いをなくしてくださったおかげ。帝も深く感謝なされ、将軍のこれまでの功績に報いるため、この度、将軍を『大将軍』の位に任じ、并州に加え、新たに朔方郡一帯の支配権をもお与えになる、との破格の恩賞を賜ります!」
「大将軍に、朔方郡だと…!?」その場にいた張譲ら重臣たちから、驚きの声が上がった。それは、まさに望外の厚遇であった。しかし、呂布も陳宮も、表情を変えなかった。これほど甘い言葉の裏には、必ず毒があることを知っていたからだ。
案の定、勅使は言葉を続けた。
「ただし…帝は、将軍への絶対的な信頼の証として、そして魏と并州の永続的な友好の礎として、一つ、お願いがございます。将軍には三人の麗しいご息女がおられるとか。そのうち、お一方を、皇子・曹芳様の妃として、都へお迎えしたい、と帝は切望されておいでです。これは、呂布将軍にとっても、并州にとっても、またとない栄誉。賢明なる将軍ならば、この意味、お分かりのはずですな?」
前回の人質要求よりも、さらに踏み込んだ、明確な政略結婚の要求。それも、相手は将来の魏帝となるかもしれない皇子である。それは、表向きは最高の栄誉に見せかけながら、実質的には呂布の娘を人質として差し出し、并州が完全に魏の支配下に組み込まれることを意味する、巧妙にして悪辣な罠であった。
謁見の間に、凍るような沈黙が流れた。誰もが、呂布の反応を固唾を飲んで見守っている。
「…断る」
呂布の返答は、短く、しかし鋼のように固い響きを持っていた。
「な…将軍! それは…帝の、いや、魏への反逆とみなされますぞ! それが何を意味するか、お分かりか!」勅使は、さすがに顔色を変え、声を荒らげた。その本性が剥き出しになる。
「反逆と取るなら取るが良い」呂布は、玉座(というには質素だが)から静かに立ち上がり、勅使を真正面から見据えた。その双眸には、揺るぎない意志の光が宿っていた。「俺の娘たちは、政略の道具ではない。彼女たちには、彼女たち自身の幸福を追求する権利がある。それを、俺が勝手に決めることはできん。ましてや、魏の都合で、娘の幸せを奪うような真似は、この呂布奉先、断じて許さん!」
その言葉には、父親としての深い愛情と、個人の尊厳を守ろうとする彼なりの「義」が込められていた。それは、たとえ帝の勅命であろうと、天下の覇者であろうと、決して曲げることのできない、彼の魂の叫びであった。
「将軍! あなた一人の意地のために、并州の民を戦火に巻き込むおつもりか!」勅使はなおも食い下がろうとした。
「戦いを望むのは、貴様たちの方であろうが!」呂布は一喝した。「俺は、ただ、この并州と、ここに生きる民、そして俺の家族を守りたいだけだ。そのためならば、たとえ相手が魏の皇帝であろうと、司馬懿であろうと、この方天画戟をもって、全力で迎え撃つまでよ!」
その毅然とした態度と、全身から放たれる凄まじい覇気に、勅使は完全に気圧され、言葉を失い、ただ震えるしかなかった。
「…勅使殿、ご苦労であったな」陳宮が、冷静に、しかし有無を言わせぬ口調で割って入った。「我が主君の返答は、今の言葉が全てだ。これ以上、申し上げることはない。お引き取り願おうか」
勅使たちは、為す術もなく、すごすごと謁見の間を退出していった。彼らが持ち帰るであろう呂布の返答が、洛陽の司馬懿を激怒させ、ついに魏の大軍を并州へと差し向けることになるであろうことは、もはや誰の目にも明らかであった。
「…よろしいのですか、将軍」勅使が去った後、陳宮は静かに、しかし確かな覚悟を秘めた声で尋ねた。「これで、もはや後戻りはできませぬぞ。司馬懿は、必ずや大軍を率いて攻めてきましょう。それも、今度は外交的な揺さぶりなどではなく、我らを完全に滅ぼすために」
「構わん」呂布は、窓の外に広がる、夕陽に染まる并州の大地を見つめながら、静かに答えた。「遅かれ早かれ、奴らは来る。ならば、小細工で時間を稼ぐよりも、堂々と、我らの全てを賭けて迎え撃つまでよ。俺はもう、逃げも隠れもしない」
彼の瞳には、迷いは微塵もなかった。覚悟は、決まっていた。
「それに…」呂布は、ふと表情を和らげ、傍らに控える家臣たち――陳宮、張遼、高順、張譲――の顔を見渡した。「俺には、貴公らのような、命を預けられる頼れる仲間たちがいる。そして…」彼は、城の奥で待つであろう、愛しい娘たちの顔を思い浮かべた。「守るべき、かけがえのない宝もある。負けるわけにはいかんのだ。絶対に」
その言葉に、陳宮も、張遼も、高順も、張譲も、力強く頷いた。彼らの心は、今、完全に一つになっていた。主君の覚悟は、彼らの覚悟でもあった。
魏からの最後の通告とも言える要求を、呂布は自らの「義」と「愛」をもって、はっきりと拒絶した。それは、并州の独立を守るための、そして愛する者たちを守るための、彼の最後の、そして最も尊い決断であった。
もはや、外交的な駆け引きの時間は終わった。残された道は、ただ一つ。
北方の狼は、迫り来る中原の虎――司馬懿率いる魏の大軍を、その鋭い牙と爪で、并州の地で、全力で迎え撃つ。并州の、そして呂布奉先の、最後の戦いの火蓋が、今まさに切られようとしていた。




