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第二十二話:虎痴咆哮、飛将の窮地

第二十二話:虎痴咆哮、飛将の窮地


狼牙山ろうがさんの戦いは、熾烈しれつを極めていた。呂布りょふ軍は地の利と陳宮ちんきゅうの罠を駆使して奮戦するものの、曹操そうそう軍はその圧倒的な物量と組織力で着実に前進を続け、戦線は徐々に押し込まれつつあった。崖の上の伏兵も、夏侯淵かこうえん配下の弓兵部隊による猛烈な反撃を受け、その勢いを失い始めていた。


「くそっ、このままでは押し切られるだけだ…!」前線で指揮を執る張遼ちょうりょうは、曹仁そうじん率いる敵の堅陣を前に、焦りの色を隠せないでいた。本陣を守る高順こうじゅんもまた、鉄壁の防御陣形を維持しつつ、厳しい表情で戦況を見つめている。


その呂布本隊もまた、夏侯惇かこうとん李典りてん楽進がくしんといった曹操軍の猛将たちが率いる部隊による、波状攻撃に晒されていた。呂布は赤兎せきとを駆り、方天画戟ほうてんがげきを振るって奮戦するが、敵は次から次へと現れ、まさにあり巨象きょぞうに群がるかのようであった。


(きりがない…! このままでは、ジリ貧になるだけだ…! 何か、局面を打開する一撃が必要だ!)


呂布は、戦況を打開するためには、敵の士気を大きくくじくような、象徴的な勝利が必要だと判断した。彼の鋭い視線は、曹操軍の中でひときわ獰猛どうもうな気を放ち、巨大な刀を振り回して并州兵を蹴散らしている一人の巨漢を捉えた。


その男は、熊のようにたくましい体躯を持ち、鎧の上からはち切れんばかりの筋肉が盛り上がっている。その戦いぶりは、まさに荒れ狂う猛虎もうこ。常軌を逸した怪力と、傷を負うこともいとわぬ勇猛さ。間違いない、彼こそが曹操軍が誇る最強の矛の一つ、「虎痴こち」の異名を持つ許褚きょちょ仲康ちゅうこうであった。


呂布の全身に、武人としての血が逆流するような、熱い興奮が込み上げてきた。虎牢関ころうかん黒沙こくさと対峙した時以上の、強敵との出会いへの渇望。


「許褚! 貴様の相手は、この呂布奉先が務める! 尋常に勝負せよ!」


呂布は、周囲の敵兵を薙ぎ払いながら、赤兎を駆って許褚へと迫り、大音声で名乗りを上げた。


「おおっ! 貴様が飛将・呂布か! 噂に違わぬ良い面構えだ!」許褚も、呂布の姿を認めると、子供のように目を輝かせ、獰猛な笑みを浮かべた。「面白い! 不足はないわ! その首、この許仲康が貰い受ける!」彼は戦うことそのものに喜びを見出す、まさに「虎痴」であった。


二人の当代随一の猛将が、馬を寄せ、真正面から激突した。呂布の方天画戟と、許褚の巨大な虎頭刀ことうとうが、空気を引き裂く轟音と共に、火花を散らして激しく打ち合わされる。その衝撃は凄まじく、近くにいた両軍の兵士たちは、その余波だけで吹き飛ばされそうになり、慌てて距離を取った。


力と力の、技と技の、真っ向勝負。呂布の神速にして変幻自在な戟捌きに対し、許褚は驚異的な膂力りょりょくと野生の勘とも言うべき反射神経で応戦する。方天画戟が突きを繰り出せば、許褚は刀の腹で受け止め、薙ぎ払われれば、力で弾き返す。許褚の渾身の一撃は、大地を砕くほどの破壊力を持ち、呂布は赤兎の機動力と戟の長さでそれをさばき切る。一撃一撃が必殺の威力を秘め、どちらかが一瞬でも気を抜けば、即座に勝敗が決しかねない、息詰まる攻防が繰り広げられた。


「はあああっ!」

「でりゃあああっ!」


両者の獣のような咆哮が、戦場に響き渡る。五十合、百合ごうと打ち合っても、全く勝負はつかない。互角。いや、どちらもが相手の底知れぬ強さに驚嘆し、同時に歓喜し、持てる力の全てをぶつけ合っていた。


(こいつ、強い…! なんという馬鹿力、そして粘り強さよ! 黒沙とはまた違う、純粋な武の塊だ!)呂布は、久しく感じていなかった武者震いを覚えていた。

(これが呂布か…! 早い、強い、そして上手い! ちくしょう、たまらねえ! もっとだ、もっと楽しませろ!)許褚は、全身全霊で戦う喜びに酔いしれていた。


この二人の、人間離れした壮絶な一騎打ちは、狼牙山の戦場全体の動きを、一時的に停止させるほどの熱気を帯びていた。両軍の兵士たちは武器を構えるのも忘れ、固唾かたずを飲んでその行方を見守っていた。并州軍の兵士たちは主君の武勇に希望を見出し、曹操軍の兵士たちは許褚の奮闘に声援を送っていた。


しかし、その熱狂を冷徹に見つめる目があった。後方で戦況全体を把握していた陳宮である。

(いかん…! 将軍が許褚との戦いに夢中になりすぎている! これでは敵に隙を見せることになる…! 曹操がこの好機を見逃すはずがない!)


陳宮の懸念通り、中軍にいた曹操は、この状況を冷静に分析していた。

「ふふ…呂布め、許褚に釣られたか。好機到来よ」彼は不敵な笑みを浮かべ、傍らの夏侯淵に命じた。「妙才みょうさい! 手勢の弓騎兵を率い、あの崖沿いの間道から呂布の本陣側面を突け! 呂布の首は許褚に任せ、我らは敵の本陣をおととし、退路を断つのだ!」

「ははっ!」夏侯淵は弓の名手であり、機動力に優れた騎兵隊の指揮官である。彼は、精鋭の弓騎兵を率い、呂布たちの気づかぬうちに、巧みに戦場を迂回し、呂布軍の本陣へとその牙を剥こうとしていた。


一方、呂布と許褚の死闘は、なおも続いていた。互いに譲らず、まさに互角。だが、百合を超えたあたりから、呂布はわずかに焦りを感じ始めていた。許褚の体力は、まるで底なし沼のようだ。このままでは、先に自分が消耗してしまうかもしれない。(短期決戦しかないか…!)


その時だった。

「奉先様! 危ない! 敵の別動隊が本陣に!」


本陣を守る張譲の、悲鳴に近い声が風に乗って呂布の耳に届いた。呂布がハッと横を見ると、崖沿いの道から、夏侯淵率いる騎馬隊が砂塵を上げて本陣へと迫っているではないか! その数は千騎以上はいるだろう。


(しまった! 陽動は奴らの方だったのか! 陳宮の懸念通りに…!)


呂布は、許褚との戦いに集中するあまり、敵の別動隊の動きに全く気づいていなかったのだ。本陣には高順とその陥陣営が残っているとはいえ、弓騎兵を主体とする夏侯淵の部隊に側面を突かれれば、突破される危険性が高い。そうなれば、全軍が崩壊しかねない。


(ここで死ぬわけにはいかん…!)一瞬の恐怖と絶望が呂布の心をよぎったが、彼は即座にそれを振り払った。(活路は必ずある!)


「許褚! 今日のところは貴様の勝ちとしておこう! だが、この勝負、いずれ必ずつけるぞ!」


呂布は、名残惜しさを滲ませながらも、戦場で生き残るための決断を下した。彼は一瞬の隙を突いて許褚から距離を取ると、赤兎を反転させ、本陣へと駆け戻ろうとした。赤兎も主の危機を察知したのか、驚異的な反応速度で方向を変える。


しかし、好敵手との戦いに水を差され、獲物を逃がそうとしている許褚が、それを黙って見逃すはずがなかった。

「逃がすか、呂布ゥ!」


虎痴の咆哮と共に、許褚は執拗に呂布の後を追いかけ、その背後から猛攻を仕掛けてくる。前方からは夏侯淵の精鋭騎馬隊が迫り、背後からは許褚の猛追。呂布は、まさに絶体絶命の挟撃の危機に陥ったのである。


狼牙山の谷間に、呂布奉先の、そして并州軍の運命を左右する、最大の危機が訪れようとしていた。

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