表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/50

第二十話:迫る虎、并州の決断

第二十話:迫る虎、并州の決断


曹操そうそう軍、五万と号し北上中!? 馬鹿な、なぜ今、我らを…!?」


晋陽しんようの軍議の場は、斥候からもたらされた緊急の報せに、水を打ったように静まり返り、次いで激しい衝撃と動揺に包まれた。北の袁紹えんしょうへの対応に追われている最中、全く予想していなかった南からの脅威。しかも、相手は今や中原に覇を唱えつつある曹操孟徳そうそうもうとくであり、その軍勢は并州へいしゅうの全兵力を遥かに凌駕りょうがする五万。まさに、悪夢としか言いようのない状況であった。


「なぜだ…なぜ曹操が、この時期に我らに牙を剥くのだ…?」老将・張譲ちょうじょうは、血の気の引いた顔でうめくように言った。

「考えられる理由はいくつかございます」陳宮ちんきゅうは、内心の動揺を押し殺し、努めて冷静に分析を始めた。「一つは、袁紹への牽制。我らと袁紹が連携し、北方を固めることを恐れ、先手を打って我らを叩き潰しに来た可能性。二つ目は、将来の憂いを今のうちに断つという、彼の覇道における計算。中原をほぼ手中に収めた曹操にとって、北方に我らのような独立勢力が存在することは、いずれ必ず邪魔になる。三つ目は…」陳宮は言葉を濁したが、その場の誰もが察した。先の徐州じょしゅうでの非道な虐殺で失った名声を回復するため、新たな戦功を求めている可能性だ。


「いずれにせよ、言い訳を探している暇はない! 我らにとって、建国以来、最大の危機であることは間違いない!」呂布りょふは、地図を睨みつけながら、厳しい表情で言った。彼の脳裏には、虎牢関ころうかんで見た曹操の底知れぬ瞳と、伝え聞くその非情さが焼き付いていた。「あの男、本気でこの并州を奪りに来るつもりだろう」


「兵力差は、歴然としております」張遼ちょうりょうが重い口を開いた。「我が軍は、動員可能な全ての兵を集めても、二万に満たない。対する敵は五万。しかも、曹操軍は精鋭で知られ、夏侯惇かこうとん夏侯淵かこうえん曹仁そうじん許褚きょちょといった猛将が揃っていると聞きます。正面からぶつかれば、たとえ奉先様(呂布)の武勇があっても、勝ち目は万に一つも…」


「守りに徹するしかあるまい」寡黙な高順こうじゅんが、短く、しかし断固たる口調で言った。「晋陽は天然の要害に守られた堅城。兵糧さえ十分に確保できれば、長期の籠城ろうじょうに持ち込み、敵の疲弊を待つことも可能かと」


「しかし、その兵糧が…」張譲が再び懸念を示した。「先の遠征と黒山賊こくさんぞく戦での消耗は大きく、屯田とんでんもようやく軌道に乗り始めたばかり。民からの徴発にも限界がある。長期の籠城に、果たして耐えられるかどうか…」晋陽の城内では、曹操軍接近の報に民衆が動揺し、一部では早くも逃亡を図る者も出始めていた。元黒山賊たちも、「俺たちはどうなるんだ?」と不穏な動きを見せているという報告も入っていた。


打つ手がないのか? このまま、曹操の大軍の前に蹂躙じゅうりんされるのを待つしかないのか? 重苦しい沈黙が、再び軍議の場を支配した。誰もが、迫りくる破滅の足音を聞いているかのようだった。


その沈黙を破ったのは、陳宮だった。

「…一つ、危険な賭けではありますが、試してみる価値のある策がございます」

「策だと? この状況でか?」呂布が、すがるような目で陳宮を見た。


「はい。曹操と袁紹は、互いに天下を狙う宿敵。両者が真の意味で手を結ぶことはありえません。ならば、その関係を利用するのです」

「どういうことだ?」


「袁紹に使者を送るのです。曹操が并州に侵攻してきた事実を伝え、『もし并州が曹操の手に落ちれば、貴殿の背後は完全に脅かされることになる。そうなれば、河北の覇権も危うい。今こそ、我らと手を組み、共通の敵である曹操を討つべきではないか』と、連携を持ちかけるのです」

「なにぃ!? あの袁紹に助けを求めると申すか!」呂布は再び声を荒らげた。「先日、あれほど我らを侮辱し、足元を見てきた男に、頭を下げろというのか! 断じてできん!」

「頭を下げるのではありませぬ、将軍」陳宮は冷静に諭した。「あくまで対等の立場として、『利害の一致』に基づき、共通の敵に対する『連携』を提案するのです。袁紹とて、曹操がこれ以上強大になることは、絶対に望んでおりますまい。彼自身の利害を説けば、我らに直接援軍を送ることはなくとも、少なくとも曹操の背後を脅かす動きを見せる可能性はございます。そうなれば、曹操も并州攻略に全力を注ぐことはできなくなる」

「しかし…」呂布はなおも渋った。袁紹に借りを作るのは、彼のプライドが許さなかった。

「危険も承知しております」陳宮は続けた。「袁紹がこの情報を曹操に流し、我らを売る可能性も皆無ではありませぬ。しかし、何もしなければ、我らは確実に滅びます。今は、僅かな可能性に賭けるしかないかと…」


それは、苦渋の選択であった。張譲や張遼、高順も、難しい顔をしながらも、他に有効な手立てがない以上、陳宮の策に賭けるしかない、と考えているようだった。


「…分かった」呂布は、深く息を吐き出し、苦渋に満ちた表情で頷いた。(屈辱だが…今は耐えるしかない。親父殿も、ただ力に任せるだけでは駄目だと言っていた…)「陳宮殿、貴公に任せる。ただし、決して下手したてに出るな。あくまで対等な立場での交渉と心得よ。我らの誇りを失うことだけはならん」

「御意。必ずや、将軍の名誉は守ってご覧に入れます」陳宮は、呂布の成長と苦悩を感じ取り、深く頭を下げた。


直ちに、陳宮が選び抜いた、弁舌と胆力を兼ね備えた使者が、袁紹の元へと送られた。同時に、并州内では、籠城の準備と、国境付近での迎撃態勢の構築が、昼夜を分かたず急ピッチで進められた。城壁は補強され、食料や武器が集められ、兵士たちは決死の覚悟で訓練に励んだ。城下の民も、不安を抱えながらも、新たな主君の下で団結し、できる限りの協力を惜しまなかった。


数日後、袁紹からの返書が、使者によってもたらされた。軍議の席で、陳宮がその書状を読み上げる。その内容は、丁原の死を丁重に悼み、呂布の武勇を称えつつも、「当方も河北の守りが疎かにはできぬ故、 遺憾ながら出兵は困難。貴殿の武運を祈る」といった、体裁は整えつつも、明らかに援助を拒絶するものであった。予想通り、袁紹は呂布と曹操が潰し合うのを、高みの見物を決め込むつもりなのだ。


「やはり、あの男は信用できんかったか…! 期待した俺が馬鹿だったわ!」呂布は、書状を握りつぶさんばかりに吐き捨てた。

「もはや、頼れるのは我ら自身の力のみ…」絶望的な状況に、重臣たちの顔も再び曇る。


「…いや」


沈黙を破ったのは、呂布であった。彼の瞳には、先程までの怒りや失望の色はなく、代わりに、逆境に燃えるような、強い意志の光が宿っていた。


「まだ手はあるはずだ。我らには、この并州の地がある」

彼は立ち上がり、広げられた地図の前に進み出た。そして、并州と河内郡の境に連なる、険しい山岳地帯を指さした。

「ここだ。狼牙山ろうがさん。若い頃、狩りで何度も足を踏み入れたが、ここは天然の要害。大軍が侵入するには道が狭く、伏兵を置くには最適な場所が無数にある」

「狼牙山…なるほど」陳宮の目が光った。

「曹操軍は五万。我らは二万に満たない。正面から平野でぶつかれば、勝ち目はないだろう。だが、この狼牙山に敵を誘い込み、地の利を活かして戦えば…あるいは勝機が見えるかもしれん!」呂布の声には、確信がこもり始めていた。「大軍の利を殺ぎ、少数で多数を打ち破る。これぞ、兵法の常道ではないか! 陳宮殿、何か策はあるか!?」


呂布の言葉には、単なる武勇だけでなく、地形を読み、戦略を考えようとする、将としての確かな成長が見られた。絶望的な状況の中で、彼は自ら活路を見出そうとしていたのだ。


その熱意に応えるかのように、陳宮の頭脳もまた、高速で回転を始めていた。狼牙山の地形、曹操軍の予想進路、そして呂布という最強のほこと赤兎という神速の足。それらを組み合わせれば…。

「…ございますぞ、将軍」陳宮の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。「一つ、危険極まりない賭けではありますが、あるいは曹操孟徳の意表を、そして天下の度肝を抜けるやもしれぬ策が…!」


晋陽の軍議の場には、絶望的な状況にも関わらず、かすかな、しかし確かな希望の光が差し込み始めていた。并州の命運は、この狼牙山での決戦に託されることとなった。迫り来る中原の虎に対し、北方の狼は、いかにして牙をくのか。第三部の激突は、いよいよ避けられないものとなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ