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第十七話:河北の双雄、迫る嵐

第十七話:河北の双雄、迫る嵐


黒山賊(こくさんぞく)残党を打ち破り、晋陽(しんよう)へ凱旋(がいせん)した呂布(りょふ)は、并州(へいしゅう)の新たな主君として、領内の安定化に力を注いでいた。陳宮(ちんきゅう)の辣腕(らつわん)の下、屯田(とんでん)は着実に成果を上げ始め、城内の兵糧庫には少しずつだが穀物が積み上げられていた。晋陽の市場にも活気が戻り、民の顔にも以前のような不安の色は薄れつつあった。捕虜とした元黒山賊たちも、開墾作業などに従事させられる中で、呂布の公正な(しかし厳しい)統治に次第に順応し始めていた。軍事面でも、張遼(ちょうりょう)、高順(こうじゅん)による訓練で兵士たちの練度は向上し、陥陣営(かんじんえい)はその威容を整えつつあった。


呂布自身も、時折領内を視察し、民の声に耳を傾けた。「用水路の修復、ありがたき幸せにございます」「おかげで、この冬は飢えずに済みそうです」といった感謝の声を聞くたび、彼の胸には領主としての責任感と共に、確かな手応えが満ちてきていた。不正を働く役人には厳罰をもって臨み、その公正さは民衆からの揺るぎない支持へと繋がっていた。


そんな束の間の平穏な日々の中で、呂布の心を和ませていたのは、三人の娘たちの健やかな成長であった。長女の暁(ぎょう)は、陳宮から熱心に書物や政(まつりごと)を学び、時には大人顔負けの鋭い意見を述べて呂布を驚かせた。次女の飛燕(ひえん)は、父や張遼に憧れ、来る日も来る日も槍と馬術の稽古に明け暮れ、その才能の片鱗を見せ始めていた。三女の華(か)は、その太陽のような明るさで城内の人々を魅了し、彼女が庭で飼い始めた小鳥のさえずりは、殺伐としがちな日々に彩りを与えていた。


しかし、乱世は、この北方の辺境の地に、いつまでも安息の時間を与えてくれるほど甘くはなかった。


その報せは、北からもたらされた。并州と境を接する冀州(きしゅう)方面から。

「申し上げます! 公孫瓚(こうそんさん)軍と袁紹(えんしょう)軍が、界橋(かいきょう)にて雌雄を決する大激突! 白馬義従(はくばぎじゅう)も奮戦しましたが、袁紹軍の兵力と、麹義(きくぎ)なる将の活躍により、袁紹軍が大勝を収めたとの報せにございます!」


斥候からもたらされた詳細な報告に、晋陽の軍議の席は緊張に包まれた。

「界橋で袁紹が勝ったか…!」丁原亡き後、政務の中心を担う陳宮は、地図を睨みながら厳しい表情で呟いた。「これで袁紹は、公孫瓚という最大のライバルを退け、河北四州をほぼ手中に収めたことになります。これは、我らにとっても他人事ではありませぬぞ」


これまで袁紹と公孫瓚が河北の覇権を争っていたおかげで、并州はその狭間で比較的自由に行動できた。しかし、北方の脅威が消えた今、袁紹の目はどこへ向かうか? 答えは明らかだった。


「袁紹め…いよいよ牙を剥(む)くか」呂布は、苦々しい表情で吐き捨てた。連合軍で見た、あの傲慢な男の顔が目に浮かぶ。奴が自分たちを対等に扱うはずがない。


「袁紹は、必ずや并州の豊かな馬資源、そして我らの精強な兵力を欲するでしょう」陳宮が予測を述べた。「おそらくは、まず外交的な圧力をかけてくるはず。場合によっては、軍事的な恫喝(どうかつ)も視野に入れておくべきです」

「奴の狙いは明白。我らを屈服させ、自らの勢力下に組み込もうというのでしょうな」老将・張譲(ちょうじょう)も同意した。


果たして、陳宮の予測通り、数日後、袁紹からの使者が物々しい行列を伴って晋陽にやってきた。使者は、袁紹の腹心の一人であり、丁重な物腰ながらも、その態度の端々には、河北の覇者の代理としての揺るぎない自信と、并州を見下すような傲慢さが滲み出ていた。


謁見(えっけん)の間で、使者は仰々しく口上を述べた。

「我が主、大将軍・袁紹様は、并州刺史・呂布将軍のこれまでのご武功、特に虎牢関でのご奮戦を高く評価しておいででございます。つきましては、今後、漢室の安寧を取り戻すため、共に力を合わせ、国賊(曹操や、僭称した袁術などを指しているのだろう)を討伐したい、と切に願っておられます。まずは、その友好の証として、また辺境の守りに苦労されている将軍への『支援』として、并州産の良馬を千頭、こちらへお送りいただきたい、との温情あるお申し出でございます」


「馬を千頭、だと…? それを『支援』だと申すか!」呂布の顔が怒りに赤く染まった。それは友好の申し出などではない。明らかに、并州を属国扱いし、貢物を要求する最後通牒に近いものであった。

「ふざけるな! 献上だの支援だの、誰が貴様らの指図を受けるか! 我らは袁紹の家臣ではないぞ!」呂布は激昂し、立ち上がりかけた。


「お待ちください、将軍」陳宮が、冷静な声で呂布を制した。彼は使者に向き直り、穏やかな表情を崩さずに尋ねた。

「使者殿、それは袁紹殿の正式なご要求と受け取ってよろしいか? 馬千頭とは、にわかには信じがたい数ですが」

「いかにも。盟主(袁紹は未だに自らを連合軍の盟主と称していた)からの、格別なるご配慮とご理解くだされ」使者は、尊大な態度を隠そうともせず答えた。「もちろん、これは今後の良好な関係への『投資』でもございますぞ。賢明なるご判断を期待しております」その言葉には、要求を呑まねばどうなるか、という遠回しな脅しが含まれていた。


「…承知いたしました」陳宮は、内心の怒りを抑え、あくまで平静を装って答えた。「しかし、千頭もの良馬を一度に供出するのは、先の戦乱で疲弊した現在の并州の状況では、物理的に困難でございます。少しばかり、お時間をいただけませんでしょうか。主君とよく相談の上、誠意をもって改めてご返答差し上げたく存じます」

「ふむ…よかろう。なれど、あまり時間はかけられませぬぞ。盟主はお忙しいお方ゆえ」使者は、尊大に頷くと、満足げに退出していった。


使者が去った後、呂布は堪(たま)らず怒りを爆発させた。

「陳宮殿! なぜあのような無礼千万な要求を、はっきりと突っねなかったのだ! 今すぐあの使者の首を刎(は)ね、袁紹に送りつけてくれるわ!」

「将軍、お気持ちは痛いほど分かります。しかし、短慮は禁物」陳宮は冷静に諭した。「今の我らに、河北を制した袁紹と正面から事を構える力はございません。兵力も、兵糧も、あまりにも差がありすぎる。ここで要求を完全に拒絶すれば、袁紹に侵攻の絶好の口実を与えるだけです」

「では、あの傲慢な男の言いなりになれと申すか! それでは親父殿に顔向けできん!」

「そうではありませぬ」陳宮は首を振った。「要求を鵜呑みにする必要はありません。しかし、今は時間稼ぎをしつつ、我らが取りうる最善の策を練るべきです。例えば…」


陳宮は、いくつかの対応策を提示した。要求された数の十分の一程度の馬を「友好の贈り物」として送り、誠意を見せつつ時間稼ぎをする。あるいは、袁紹と対立する公孫瓚の残党や、北方の異民族(劉豹など)と連携し、袁紹の背後を脅かす。さらには、思い切って中原の曹操と一時的に手を結び、袁紹を牽制するという、危険な選択肢も…。


「曹操だと…?」呂布は眉をひそめた。あの男もまた、いずれは敵となるであろう存在だ。

「あくまで可能性の一つです。曹操殿も袁紹殿の勢力拡大は望んでおりますまい。敵の敵は味方、ということもあり得ます。いずれにせよ、今は耐え忍び、外交的な駆け引きで時間を稼ぎ、その間に国力を充実させることが肝要かと」


呂布は、陳宮の言葉を聞きながらも、心の奥底で燃え盛る怒りと、屈辱感を抑えきれずにいた。なぜ、これほどまでに強大な武力を持ちながら、このような小細工を弄(ろう)さねばならないのか。己の力で、袁紹軍など蹴散らしてしまえば済むことではないのか。そんな思いが、彼の心をよぎる。


(親父殿なら、どうされただろうか…? きっと、媚びることはなかったはずだ。だが、無謀な戦もされなかった…『智勇』と『義』…俺にはまだ、その両方が足りぬというのか…)


彼は、庭で無邪気に槍の稽古に励む次女・飛燕の姿を、窓越しに見た。そして、書物に熱心に目を通す長女・暁、小鳥と戯れる三女・華の顔を思い浮かべた。(この子たちのためにも、今は耐えねばならんのだ…)


「…分かった。陳宮殿、貴公に任せる」呂布は、深く息を吐き出し、苦渋の表情で言った。「ただし、条件がある。袁紹に、この呂布が屈したと思われるような真似だけは、断じて許さんぞ」

「御意。将軍の名誉は、必ずやお守りいたします」陳宮は、呂布の成長と、その決断の重さを感じ取り、静かに頭を下げた。


こうして、并州は袁紹との間に、一触即発の緊張関係を抱えることとなった。外交という、呂布が最も不得手とする戦いが始まったのだ。


そして、その影で、中原の覇者への道を突き進む、もう一人の男――曹操孟徳の影が、確実に、この北方の地に伸びてきていることを、呂布たちはまだ、本当の意味では認識していなかったのである。真の嵐は、すぐそこまで迫っていた。

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