第十三話:巨星、堕つ
第十三話:巨星、堕つ
「親父殿が…病に…!?」
老将・張譲から告げられた凶報に、呂布は一瞬、全身の血が凍るような衝撃を受けた。あの厳格で、常に泰然自若としていた丁原が、病に倒れた? 先ほどまで、今後の并州について語り合っていたではないか。にわかには信じられない、悪夢のような報せだった。
「案内しろ! 親父殿の元へ!」
呂布は、先の戦いの疲れも、心の空しさも忘れ、赤兎から飛び下りると、蒼白な顔の張譲を促し、丁原の私室へと嵐のように駆け込んだ。
部屋の中には、既に陳宮や、并州の主だった重臣たちが集まっており、息詰まるような重苦しい空気が支配していた。そして、牀榻に力なく横たわる丁原の姿を目の当たりにし、呂布は呼吸を忘れた。
数日前に力強く自分を諭してくれた、あの威厳に満ちた姿はどこにもなかった。顔色は土気色で生気がなく、呼吸は糸のように細く、浅い。目は固く閉じられ、何度呼びかけても反応はない。傍らでは、晋陽で名医と評判の者たちが懸命に鍼を打ち、薬湯を勧めているが、その表情は絶望的に暗く、ただ無言で首を横に振るばかりであった。
「親父殿…! 親父殿、しっかりしてください! 目を開けてください!」
呂布は牀榻に駆け寄り、すがるように丁原の肩を揺さぶった。しかし、その手は虚しく、何の反応も返ってこない。まるで、魂が既に肉体を離れ、遠い場所へ旅立ってしまったかのようだった。
「奉先様、お気を確かに…」張譲が、老いた目に涙を溜めながら呂布の肩に手を置いた。「昨夜、軍議の後、自室に戻られて間もなく、突然倒れられ…それからずっと、この状態で…」
「なぜだ…なぜ、親父殿がこんな…!」呂布の声は、怒りと悲しみで震えていた。連合軍での心労か、長年の無理が祟ったのか。それとも…。呂布の脳裏に、連合軍で見た諸侯たちの裏切りや、乱世の非情さがよぎった。(まさか…誰かが親父殿を…毒でも盛ったのでは…?)疑念が鎌首をもたげる。
しかし、その考えを打ち消すように、陳宮が静かに、しかし重い口調で言った。
「…医者の見立てでは、おそらくは中風(※脳卒中に類する当時の表現)、あるいは長年の心労と過労が重なったことによる、内臓の急な衰えかと。残念ながら、毒の痕跡は見られず…もはや、我々にできることは、ない、と…」
陳宮の冷静な、しかし絶望的な言葉が、呂布を打ちのめした。毒ではない。だが、それはつまり、丁原の命が、人の力ではどうすることもできない、風前の灯火であることを意味していた。
「そん…な…」
呂布は、崩れ落ちるように牀榻の傍らに膝をついた。天が落ちてくるとは、このことか。育ての親であり、武の師であり、そして唯一、この天涯孤独の自分を理解し、導いてくれた存在。その丁原が、今、目の前で、静かに消え去ろうとしている。込み上げてくるのは、底なしの悲しみと、どうしようもない絶望感。彼はただ唇を強く噛みしめ、溢れ出る涙を堪えることしかできなかった。
その時だった。
「…奉…先…」
まるで風が囁くような、か細い声が聞こえた。呂布はハッと顔を上げた。固く閉じられていた丁原の瞼が、僅かに開き、その掠れた瞳が、確かに呂布を捉えていたのだ。奇跡的に、一瞬だけ意識を取り戻したようだった。
「親父殿! 気が付かれたのですね! 親父殿!」呂布は必死に呼びかけた。
「…ああ…少しだけな…」丁原の声は弱々しかったが、その瞳の奥には、消えゆく蝋燭の最後の輝きのようなものが宿っていた。「…皆…いるか…陳宮…張遼…高順…そして、張譲…」
「はっ、ここにおりまする!」傍らに控えていた張遼と高順も、涙ながらに進み出た。丁原の意識が戻ったことに、僅かな希望を見出そうとしていた。
丁原は、ゆっくりと視線を巡らせ、信頼する者たちの顔を一人一人確認すると、再び呂布に視線を戻した。
「奉先…よく、聞け…」
「はい…! 聞いております!」
「ワシは…もう長くはもたんようだ…だが、思い残すことは…何もない。お前という…立派な息子を得て…この并州のために…力を尽くせたのだからな…」
「親父殿…何を仰せられるか! まだまだ…!」
「聞け…奉先…」丁原は、呂布の言葉を遮るように、最後の力を振り絞って続けた。「ワシの跡は…お前が継ぐのだ…この并州を…この地に生きる民を…お前が、守るのだ…」
「俺が…? しかし、俺のような未熟者に、親父殿の代わりなど…!」呂布は戸惑いを隠せなかった。自分に、この重責が担えるはずがない。
「…できる…お前なら、できる…」丁原は、弱々しくも確信に満ちた声で言った。まるで、未来が見えているかのように。「お前には…天賦の武がある…そして…ワシが教えた…人を裏切らぬ『義』の心があるはずだ…」
丁原は、震える手で、呂布の手を弱々しく握った。その手は、驚くほど冷たくなっていた。
「…だがな、奉先…忘れるな…力だけでは…人はついてこん…陳宮の知恵を借りよ…張遼、高順、そして張譲ら、忠臣の声に…耳を傾けるのだ…決して…独りよがりになっては、ならんぞ…」
「はい…! 分かりました、親父殿…! 必ずや…!」呂布は、溢れる涙で視界を滲ませながら、力強く頷いた。
丁原は、その返事を聞いて、満足げに、そして安らかな微笑みを浮かべた。最後に、彼の視線は、部屋の隅で心配そうに見つめているであろう、三人の孫娘(呂布の娘たち)の幻影を探すかのように宙を彷徨い、そして、かき消えそうな声で呟いた。
「…達者で…な…奉先…ワシの…誇り…」
それが、并州の巨星、丁原義父の、最後の言葉となった。彼の瞳から光が永遠に失われ、握っていた呂布の手が、力なく、だらりと落ちた。
「おやじどのーーーーーーーーっ!!」
呂布の慟哭が、部屋を、城を、そして并州の空を震わせた。彼を支えてきた巨大な柱が、音を立てて崩れ落ちた瞬間であった。それは、彼の人生における、最も深く、最も大きな喪失であった。
丁原の死は、瞬く間に并州全土に伝えられ、深い悲しみと共に、大きな動揺と不安が広がった。偉大な指導者を失い、これから并州はどうなるのか? 誰がこの乱世から我々を守ってくれるのか? 人々の心は揺れていた。
そんな中、いち早く動いたのは陳宮であった。彼は自らの悲しみを押し殺し、張譲ら重臣たちと直ちに協議の場を持った。「丁原様の遺言は明確であった。後継者は呂布将軍以外にありえぬ。今、我らが動揺すれば、それこそ内外の敵に付け入る隙を与えることになる。直ちに呂布将軍を新たな主君として擁立し、内外に宣言すべきである!」
一部には、呂布の若さや激しい気性を懸念する声も上がったが、陳宮の断固たる態度と論理的な説得、そして丁原の遺言という大義名分の前に、異論は封じられた。張譲も、「奉先様は、確かにまだお若いが、その器は大きい。我らが支えれば、必ずや丁原様を超える将になられよう」と、重臣たちをまとめ上げた。張遼、高順も、改めて呂布への忠誠を誓い、異論を挟む余地はなかった。
こうして、丁原の死から間もなく、呂布を新たな并州の主として擁立することが決定された。しかし、当の呂布自身は、丁原を失った衝撃と悲しみから、未だ立ち直ることができずにいた。彼は、亡き父の私室に閉じこもり、酒に溺れ、時には赤兎に跨って当てもなく荒野を駆け巡り、その胸を引き裂くような悲しみを紛らわせようとしていた。赤兎だけが、主の深い悲しみを理解するかのように、黙ってその傍らに寄り添っていた。
(親父殿がいないなら、俺が戦う意味などない…! 俺が跡を継ぐだと…? 馬鹿な…!)
そんな自暴自棄な思いが、彼を支配し、前へ進むことを拒んでいた。
果たして、呂布はこの深い悲しみの淵から這い上がり、丁原の遺志と、託された并州の未来を、その双肩に担うことができるのか? そして、指導者を失った并州に、乱世の嵐は容赦なく吹き荒れようとしていた…。




