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第十二話:故郷の風、忍び寄る影

第十二話:故郷の風、忍び寄る影


反董卓はんとうたく連合軍の喧騒けんそうと熱狂は、曠野こうや砂塵さじんと共に、幻であったかのように過ぎ去った。丁原ていげん呂布りょふは、多くの犠牲と、そして乱世の厳しい現実を胸に刻み、并州へいしゅうの精鋭を率いて故郷への帰路を急いでいた。兵士たちの顔には、長い遠征の疲労と、董卓を討てなかった無念さが色濃く浮かんでいたが、故郷の土を踏む日が近づくにつれ、安堵の色もまた広がっていた。


陳宮ちんきゅう殿、并州の様子は変わりないか?」道中、馬上から丁原は傍らの陳宮に尋ねた。その声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。連合軍での心労は大きかったのだろう。

「はっ。出発前に手配しておいた斥候からの報告によりますと、幸い、今のところ大きな異変はない模様にございます。異民族もおとなしくしており、袁紹えんしょう公孫瓚こうそんさんも、互いを牽制し合っている状況かと」陳宮は淀みなく答えた。彼の存在は、既にこの軍にとって欠かせないものとなっていた。

「そうか、それは何よりだ…」丁原は深く息をついた。


「しかし」陳宮は、手綱を引き締めながら続けた。「油断は禁物です。我らが董卓とほこを交え、虎牢関ころうかんで奮戦したというしらせ、そして連合軍が瓦解がかいしたという事実は、いずれ諸侯の耳にも届きましょう。特に袁紹は、今回の連合で盟主となり、その野心をさらに増長させているはず。并州の豊かな馬資源や、戦略的な位置は、彼にとって垂涎すいぜんの的。いずれ、何らかの形で我らに干渉してくる可能性は高いと見るべきです」

「うむ…奴の動きには、常に警戒を怠れんな」丁原は険しい表情で頷いた。彼の視線は、遠く東の空、袁紹がいるであろう冀州きしゅうの方角へと向けられていた。


呂布は、二人の会話を黙って聞いていた。袁紹…あの名門気取りの男か。虎牢関での醜態しゅうたいを思い出し、彼は内心で舌打ちした。政治的な駆け引きは好まぬが、親父殿である丁原の敵は、すなわち己の敵だ。


数日後、一行はようやく并州の地を踏んだ。乾いた、しかし懐かしい故郷の風が、彼らの汗と土埃にまみれた頬を優しく撫でた。長い旅路の終わり。兵士たちからは、自然と安堵の声が漏れた。


丁原と呂布が本拠地である晋陽しんようの城門をくぐると、そこには彼らの帰還を待ちわびていた将兵、役人、そして多くの民衆の姿があった。

「丁原様、呂布将軍、ご無事のお帰り、誠に慶賀の至りにございます!」

「虎牢関でのご武勇、聞き及んでおりますぞ! まさに并州の誇り!」

「これで并州も安泰ですな!」


民衆からの熱狂的な声援に、呂布は戸惑いながらも、胸の奥が熱くなるのを感じていた。(そうだ、俺には守るべき故郷と、俺を信じてくれる人々がいるのだ…)連合軍での失望感が、少しだけ癒される思いだった。


そして、城の奥の私室では、父の帰りを一日千秋の思いで待っていた三人の娘たちが、呂布の姿を見るや、弾けるように駆け寄ってきた。

「父上!」一番に飛びついてきたのは、三女のだ。太陽のような笑顔で父の胸に顔をうずめる。

「お帰りなさいませ、父上。お怪我はございませんか?」冷静な口調ながらも、その瞳には心配の色を隠せない長女のぎょう

「ふん、父上が怪我なんかするわけないでしょ! それより父上、虎牢関ってすごかったの!?」勝気な次女の飛燕ひえんは、目を輝かせて父の武勇伝をせがむ。


呂布は、普段の厳しい「飛将」の顔をしばし忘れ、父親の顔に戻っていた。彼は娘たちの頭を順番に撫でると、「ああ、無事だ。お前たちも息災であったか」と、不器用ながらも優しい声で応じた。娘たちの無邪気な笑顔と温もりが、戦いの疲れと心のささくれを、何よりも効果的に癒やしてくれた。


(この子たちのためにも…この并州を、平和な地にしなければならん)呂布は、改めて強く心に誓った。


帰還後の数日間は、しばしの休息と共に、遠征の報告、論功行賞、そして今後の体制を整えるための慌ただしい日々が続いた。陳宮は、早速その辣腕らつわんを振るい始めた。軍規の再整備、兵站ルートの見直しと確保、そして周辺勢力の情報を収集するための新たな諜報網の構築。彼の加入は、明らかに呂布軍に組織としての規律と戦略性をもたらし始めていた。


しかし、その改革は、必ずしも順風満帆ではなかった。古くから丁原に仕える老将・張譲などは、新参者の陳宮が軍の実権を握りつつあることに、内心穏やかではなかった。「陳宮殿のやり方は、確かに合理的かもしれんが、少々冷徹すぎるのではないか…長年、丁原様の下でやってきた我らのやり方というものも…」彼は丁原にそっと懸念を漏らすこともあった。丁原はそれをなだめつつも、陳宮の能力を高く評価しており、改革を支持する姿勢を崩さなかった。呂布もまた、当初は陳宮の細かい指示に反発することもあったが、黒山での経験から彼の知略の重要性を認識しており、以前よりは素直に耳を傾けるようになっていた。


そんな中、并州北部の国境付近で、再び匈奴が略奪行為を開始したという報せが、晋陽にもたらされた。先の戦いで打撃を与えたはずだが、別の部族か、あるいは敗残兵が再集結したのか。


「奉先、お前に任せる」丁原は呂布に命じた。その顔には、遠征の疲れがまだ残っているように見えた。「だが、決して深追いするな。敵の規模、狙いを正確に見極め、慎重に対処せよ。良いな」

「はっ」呂布は力強く頷いた。

陳宮も傍らから助言する。「将軍の武威を示すのは重要ですが、無用な挑発には乗られませぬよう。まずは斥候を十分に放ち、情報を集め、万全の策を練ってからでも遅くはありますまい。現在の我が軍の兵力、そして兵糧備蓄(およそ三ヶ月分)を考えれば、無用な消耗は避けねばなりませぬ」


「分かっております」呂布は、以前の自分なら即座に赤兎を駆って飛び出していたであろう状況で、二人の言葉を冷静に受け止めていた。虎牢関での経験は、確実に彼を変えつつあった。彼は赤兎に跨り、張遼、高順、そして選び抜かれた三千の兵を率いて、北へと出陣した。


国境近くの村は、匈奴によって無残に蹂躙じゅうりんされていた。家々は黒く焼け落ち、畑は荒らされ、食料は根こそぎ奪われていた。抵抗したであろう村人の亡骸が、無残に打ち捨てられている。その惨状を目の当たりにし、呂布の胸に、守るべき民を傷つけられたことへの激しい怒りが込み上げてきた。


「許さん…! この呂布がいる限り、二度とこのような真似はさせんぞ!」


斥候からの報告で、略奪を行った匈奴の一部隊が、さほど遠くない谷間に潜んでいることが判明した。兵力はおよそ五百。先の戦いで敗れた部族の残党のようだった。呂布は、はやる気持ちをぐっと抑え、陳宮の助言通り、まずは慎重に敵情を探った。張遼に別動隊を率いさせ、谷の出口を塞ぐように迂回させる。高順には本陣の守りを固めさせ、退路を確保する。そして、自らは残りの精鋭を率いて、正面からゆっくりと谷へと進んだ。


谷に潜んでいたのは、やはり見覚えのある旗印を持つ匈奴の残党であった。彼らは呂布の姿を見ると、恐怖に顔を引きつらせ、戦わずして逃げ出そうとした。しかし、谷の出口には既に張遼の部隊が待ち構えており、彼らに逃げ場はなかった。


囲まれた匈奴兵たちは、観念したように武器を投げ出した。呂布は、馬上から彼らを冷徹に見下ろしながら、大音声で呼びかけた。

「武器を捨て、投降するならば、命までは取らぬ! 我が并州の法に従い、罪を償うならば、いずれ故郷へ帰ることも許そう! だが、なおも抵抗するならば、容赦はせん!」


彼の言葉には、有無を言わせぬ威厳があった。匈奴兵たちは、互いに顔を見合わせ、やがて次々と馬から下り、地面に膝をついた。中には、最後まで抵抗しようとした者も僅かにいたが、呂布の鋭い一瞥いちべつと、周囲を取り囲む并州兵の槍先に、戦意を喪失した。


呂布は約束通り、投降した彼らの命を取ることはせず、捕虜として武装解除させ、晋陽へ送還するよう命じた。


戦いは、ほとんど血を流すことなく終わった。作戦は見事に成功し、呂布の対応も以前と比べて格段に冷静かつ的確だった。しかし、呂布の心には、達成感よりも、むしろ言いようのないむなしさと、焦燥感しょうそうかんに似たものが広がっていた。


(これで、良かったのか…? こんな小競り合いを繰り返しているだけで、本当に并州を守れるのか? 俺の力は、こんなところでくすぶっていて良いのか…? 中原では、曹操や袁紹が覇を競い、劉備のような男もいるというのに…)


虎牢関で見た、広大な世界。そこで感じた、己の未熟さと、強者たちへの対抗心。それが、今の彼を駆り立てていたのかもしれない。


そんな複雑な思いを抱えながら晋陽へ帰還した呂布を、予想だにしなかった、そして彼の人生を根底から揺るがすことになるであろう、衝撃的な報せが待ち受けていた。


城門で彼を出迎えた張譲の顔は、血の気が引き、蒼白であった。

「奉先様…! 大変なことに…!」

「どうした、騒々しい」呂布は眉をひそめた。

「丁原様が…! 丁原様が、昨夜から急な病に倒れられ…! 意識が…!」


それは、呂布の、そして并州全体の運命が、再び大きく動き出すことを告げる、嵐の前の静けさを破る、凶報であった。

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