第十一話:連合の亀裂、并州への路
虎牢関での激闘から一夜明けた。夜通し続いた負傷者の呻き声も、今は少しだけ和らいでいる。しかし、反董卓連合軍の広大な陣営には、勝利の熱気はなく、重苦しい疲労と、先の見えない不安の空気が色濃く漂っていた。多くの死傷者を出し、天下無双と謳われた虎牢関の堅牢さと、董卓軍の底力を、諸侯たちは改めて思い知らされたのだ。
呂布もまた、自陣の幕舎で、複雑な思いを抱えていた。昨日の戦いで受けた鎧の傷跡が生々しく痛む。それ以上に、彼の心を苛んでいたのは、黒沙という未知の強敵との死闘の記憶、そして、関羽・張飛という予期せぬ者たちに助けられたという屈辱にも似た事実であった。己の慢心、そして限界。武人としてのプライドと、それを打ち砕かれた悔しさ。そして、それでもなお、魂の奥底から湧き上がってくる、更なる強さへの激しい渇望。
(俺は、まだまだだ…)
赤兎の首筋を撫でながら、彼は静かに己に言い聞かせていた。(この馬と共に、もっと強くならねば…親父殿のためにも、并州のためにも、そして…あの子たちのためにも…)遠く并州に残してきた三人の娘たちの顔が、彼の脳裏をよぎった。
そんな中、再び軍議が開かれた。議題は、今後の虎牢関攻略についてである。
「昨日の一戦で、敵も大きな痛手を負ったはず。今こそ好機! 一気に攻め落とすべきだ!」血気にはやる将が叫ぶ。
「いや、待て。我が軍の損害も甚大だ。それに兵糧も心許ない。ここは兵を休ませ、体勢を立て直すのが先決ではないか?」慎重論を唱える者もいる。
「しかし、時間をかければ董卓に長安からの援軍を送る隙を与えてしまうぞ!」
「そもそも、あの黒沙という化け物をどうするのだ? 呂布将軍でさえ、討ち取れなかったではないか…」
諸侯たちの意見はまとまらず、議論は空転を繰り返すばかりであった。特に、盟主である袁紹と、功を焦る従弟の袁術の間では、互いの面子をかけた言い争いが始まり、険悪な雰囲気が漂っている。
丁原は、その有様を苦々しい表情で見つめていた。彼は内心で(名門気取りの若造どもが…口先ばかりで、真に国を憂う心などありはしないわ)と毒づきながらも、大義のために今は耐えていた。彼は傍らに控える陳宮に、そっと視線を送った。
陳宮は、冷静に諸侯たちの議論を聞きながら、丁原にだけ聞こえるように囁いた。
「…ふむ。予想通りの醜態ですな。所詮は名利のための寄り合い。大きな目的(打倒董卓)は同じでも、それぞれの腹の内が異なれば、一枚岩とはなりませぬ。このままでは、虎牢関攻略は夢物語でしょう。むしろ…」
陳宮は地図を広げ、并州や、袁紹と対立する公孫瓚の領地あたりを指し示した。
「…今は機を見るべきかと。董卓が西へ目を向けている間に、我らは并州にて力を蓄え、来るべき時に備える。あるいは、北方の雄、公孫瓚と連携を図るという手も…」
丁原は、陳宮の深謀遠慮に静かに頷いた。彼もまた、この連合軍の行く末に、もはや大きな期待は抱いていなかった。
その時、血相を変えた伝令が軍議の場へと駆け込んできた。
「も、申し上げます! 緊急の報せにございます! 董卓軍に大異変! 洛陽の都に火を放ち、帝と百官を奉じて長安へ遷都する模様とのことにございます!」
「な、なんだと!?」
「洛陽に火を放っただと!? なんという暴挙!」
「長安へ遷都…? 奴め、我らの追撃を恐れて、西へ逃げるというのか!」
陣営は、一瞬にして大騒ぎとなった。董卓が、漢王朝の栄華を誇った都を自らの手で焼き払い、西の辺境へと逃亡するというのだ。その報は、諸侯たちに衝撃と、そして新たな混乱をもたらした。
「今こそ追撃の好機だ!」
「いや、まずは洛陽の火を消し、民を救うのが先決であろう!」
「長安まで追うのは危険すぎる! それよりも、空になった洛陽を誰が制するか…」
再び議論が紛糾し、諸侯たちの本音が露わになり始める。董卓討伐という大義はどこへやら、ある者は自領の安泰を願い、ある者は洛陽の権益を狙い、もはや連合軍としての体をなさなくなっていた。
そんな中、曹操が立ち上がり、一同を強い口調で諭した。
「諸君! 今こそ好機ではないか! 董卓は我らを恐れ、都を捨てて逃げたのだ! ここで躊躇してどうする! 迅速に追撃し、奴が長安に腰を据える前に討ち取るべきである! これを逃せば、漢室の復興は遠のくばかりぞ!」
しかし、袁紹をはじめとする多くの諸侯は、曹操の熱弁に耳を貸そうとはしなかった。長旅と虎牢関での戦いで軍は疲弊しており、これ以上の危険を冒す気はないのだ。彼らの目は、もはや西の董卓ではなく、空になった洛陽や、自らの領地へと向いていた。
「…分かった。諸君にその気がないのなら、この曹孟徳、単独でも董卓を追う! 我が志に賛同する者は、私に続け!」
曹操は、諸侯たちの事なかれ主義に深い失望の色を浮かべると、自らの手勢を率いて、敢然と董卓追撃へと出発していった。
丁原は、その潔い後ろ姿を、複雑な表情で見送っていた。
「親父殿、我らも曹操殿に加勢すべきでは?」呂布が、やるせない思いで尋ねた。彼の目には、曹操の行動こそが「義」に適っているように見えた。
「…いや、待て、奉先」丁原は静かに首を振った。「曹操殿の気概は天を衝くものがある。だが、単独での追撃はあまりに危険すぎる。それに…」彼は陳宮に視線を送った。
陳宮は静かに頷いた。
「丁原様のお考え、それがしにも分かります。董卓が西へ去った今、この連合軍はもはや瓦解同然。ここで我らが突出しても、他の諸侯からの支援は期待できず、孤立するだけ。むしろ、彼らとの無用な軋轢を生むことになりかねません。ここは兵をまとめ、力を蓄え、次の『機』を待つべきかと存じます」
陳宮の冷静な分析は的確だった。そして、彼の予測通り、曹操が追撃に出て間もなく、酸棗に集結した連合軍は、何の成果も挙げられぬまま、事実上の解散状態となった。諸侯たちは、口々に自領の事情を述べ立て、蜘蛛の子を散らすように、それぞれの領地へと帰還の途につき始めたのだ。打倒董卓という、あれほど高らかに掲げられた大義名分は、諸侯たちの私利私欲の前に、あまりにも脆く崩れ去った。
「これが…連合軍の現実か」呂布は、目の前で繰り広げられる光景に、呆然としながら呟いた。彼の純粋な忠義心や、武人としての誇りとは、あまりにもかけ離れた、醜い現実であった。この経験は、彼の心に深い人間不信の種を蒔いた。
丁原は、そんな呂布の肩を強く叩いた。
「奉先、これが乱世というものだ。人の心は複雑で、理想だけでは渡っていけぬ。だがな、それでも『義』を忘れなければ、必ず道は開ける。誠の心は、必ずや人を繋ぐのだ。…今は、我らも并州へ帰るぞ。故郷を守り、力を蓄え、必ずや再び董卓を、いや、この乱れた世を正す機会を待つのだ」
「…はい、親父殿」
呂布は、胸に渦巻く悔しさと、やり場のない怒りを滲ませながらも、丁原の言葉に従った。
并州への帰路、赤兎の背に揺られながら、呂布の胸には様々な思いが去来していた。虎牢関での激闘。黒沙という強敵。関羽、張飛という好敵手。陳宮という軍師との出会い。連合軍の脆さ、諸侯たちの私欲。そして、何よりも、己の未熟さと、これから進むべき道への重い問い。
(俺は、どうすれば強くなれるのだ…? 親父殿の言う、『智勇』と『義』を兼ね備えた真の武人に…)
彼は、遠く西に沈む夕陽を見つめていた。それは、まるで洛陽と共に燃え落ちていく漢王朝の落日のようにも見えた。彼の本当の戦いは、そして、彼が背負うことになる運命の重さは、これから始まろうとしていた。連合軍という熱狂は終わり、次なる舞台は、故郷・并州。そこで彼を待ち受けるものとは、果たして…。




