第九ノ二話:獣の牙、鬼神の戟
第九ノ二話:獣の牙、鬼神の戟
「面白い! 三人まとめて、この黒沙様の骨朶の餌食にしてくれるわ!」
体勢を立て直した黒沙は、狂気に満ちた笑みを浮かべ、再び襲いかかってきた。だが、今度の彼の動きは、先程までの力押しとは明らかに違っていた。
彼は、呂布を直接狙うのではなく、傍らにいる張飛の巨体を狙い、鉄蒺藜骨朶を地面に叩きつけた。ゴッという鈍い音と共に、土と小石が爆ぜ、張飛の馬の目を狙う。
「うおっ! こざかしい真似を!」
張飛の馬が怯んで一瞬動きが止まる。その刹那、黒沙は呂布ではなく、関羽へと突進した。彼の狙いは、三人の連携を分断し、最も厄介な関羽の動きを封じることにあった。
「させるか!」
呂布は即座に黒沙の意図を読み、赤兎を駆けさせ、間に割り込もうとする。しかし、黒沙は呂布が動くことすら計算に入れていた。彼は関羽に肉薄する寸前、馬の腹を強く蹴り、不自然な角度で急停止すると、その勢いを利用して、体ごと回転させながら鉄蒺藜骨朶を呂布の死角である背後から薙ぎ払ってきたのだ!
それは、定石など存在しない、獣の戦い方だった。予測不能な動きと、戦場の全てを利用する狡猾さ。
(こいつ…!)
呂布の背筋に、冷たい汗が流れた。もはや戟で受けるには間に合わない。彼は、鐙から両足を外し、馬の背に半ば寝そべるようにして、その凶悪な一撃を髪の毛一本の間合いで回避した。鉄塊が、彼の兜の飾りを掠め、嫌な音を立てて砕け散る。
「ほう…避けるか。面白い」
黒沙は、舌なめずりをしながら、再び距離を取った。彼は戦いを楽しんでいる。獲物をじわじわと追い詰め、その心身が消耗し、絶望した瞬間に喉笛を食いちぎる、狼のように。
「兄者! 大丈夫か!」
「呂布殿! 無茶はするな!」
関羽と張飛が、呂布を庇うように左右に陣形を組む。三人が並び立つ姿は、まさに鉄壁。しかし、黒沙は笑みを崩さない。
彼は、戦場のあちこちに転がる、折れた槍や、兵士の亡骸、そして馬の死体といった「障害物」を巧みに利用し始めた。馬を駆けさせ、障害物の影に一瞬隠れたかと思うと、全く予期せぬ方向から攻撃を仕掛けてくる。時には、地面に落ちていた盾を蹴り上げ、三人の視界を塞ぎ、その隙に致命的な一撃を狙う。
「くそっ! ちょこまかと動き回りやがって!」
張飛の苛立ちが募る。彼の豪快な蛇矛は、このような狡猾な相手とは相性が悪い。
「落ち着け、三弟! 敵の狙いは我らを焦らせ、陣形を崩すことにある!」
関羽は冷静に状況を分析し、呂布に目で合図を送る。(呂布殿、貴公の速さで奴を追い詰め、我ら二人が挟撃する。それでどうだ?)
しかし、呂布は首を横に振った。
(いや、それでは奴の思う壺だ。俺が突出した瞬間を、奴は待っている)
三人の間に、一瞬の、しかし致命的な迷いが生じた。互いの実力は認めつつも、その戦い方、呼吸が全く合わない。
(これだ…これこそが奴の本当の狙いか!)
呂布は、黒沙の戦術の奥にある、真の狙いを悟った。彼は、三人の英雄が持つ、それぞれの「誇り」と「戦い方」の違いそのものを突き、彼らが自滅するのを待っているのだ。
「…どけ」
呂布は、関羽と張飛に、低く、しかし有無を言わせぬ声で命じた。
「俺がやる。お前たちは手を出すな」
「しかし!」
「これは、俺と奴との戦いだ。武人の意地を汚すな」
呂布は、静かに方天画戟を構え直した。その瞳から、焦りの色は消えていた。代わりに宿っていたのは、氷のように冷たく、研ぎ澄まされた集中力。彼は、もはや黒沙の動きを追うことをやめた。地形、風の流れ、土の匂い、敵の呼吸、その全てを感じ取り、次の一手を「読む」。
黒沙が、再び障害物の影から飛び出してきた。狙いは、呂布の左側面。
だが、呂布は既にそちらに戟の穂先を向けていた。まるで、黒沙がそこから現れることを、初めから知っていたかのように。
「なっ…!?」
初めて、黒沙の顔に驚愕の色が浮かんだ。
呂布の戟は、もはや武器ではなかった。彼の五感と一体となった、神経そのものだった。黒沙が骨朶を振るうより早く、戟の月牙が、黒沙の馬の脚を正確に、そして深く切り裂いた。
馬が悲鳴を上げて崩れ落ち、黒沙は体勢を崩しながらも地面に着地する。
その瞬間を、呂布は見逃さなかった。赤兎が地を蹴り、一瞬で間合いを詰める。
「終わりだ」
馬上から振り下ろされる、冷徹な一撃。
しかし、その時だった。董卓軍の本隊が、鬨の声を上げて連合軍へと殺到してきたのは。戦場の空気が一変し、呂布の必殺の戟は、押し寄せてきた董卓軍の兵士によって阻まれた。
「ちぃっ!」
呂布は舌打ちし、後退を余儀なくされる。黒沙は、その混乱に乗じて、いつの間にか人波の中へと姿を消していた。
勝負は、またしてもつかなかった。だが、呂布の心には、先程までとは違う、確かな手応えが残っていた。それは、ただの武勇ではない。戦場の全てを読み、相手の心理すらも支配する、新たな戦いの領域。彼は、この獣の牙との死闘の中で、鬼神から、一人の冷徹な「戦術家」へと、脱皮しかけていたのかもしれない。




