第八ノ三話:軍師の眼、狙撃者の影
第八ノ三話:軍師の眼、狙撃者の影
虎牢関の前に布陣した連合軍。その先鋒を任された呂布は、血の滾るような興奮を覚えていた。敵の将は、黒沙と名乗る異形の猛将。その全身から放たれる禍々しい気は、呂布の武人としての本能を強く刺激した。
両者は、言葉を交わすのももどかしく、戦場の中央で激突した。方天画戟と鉄蒺藜骨朶が打ち合わされる音は、雷鳴のように響き渡り、両軍の兵士たちは息を飲んでその攻防を見守った。
後方の并州軍本陣で、陳宮は苦々しい表情でその戦況を見つめていた。
「…いかん。将軍が、熱くなりすぎている。あの黒沙という男、ただの蛮族ではない。その戦いぶり、あまりに老獪。何か裏がある…」
彼は、呂布が出陣する前に、丁原にこう進言していた。「将軍は、強敵を前にすると我を忘れる癖がおありです。万が一に備え、手を打っておくべきかと」
丁原もその懸念を認め、陳宮に一任していた。
陳宮は、傍らに控えていた一人の男に、そっと視線を送った。并州随一の弓の名手と謳われる、郝萌である。その男は、派手さはないが、岩のように動じない精神力と、鷹の目を持つと評されていた。
「郝萌。出番かもしれん」
「はっ」
「将軍が最大の危機に陥ったと、お前が判断した時、ただ一度だけ矢を放て。狙うは敵の武器。将軍の戦いを汚すな。だが、しくじるなよ」
「御意」
郝萌は短く答えると、音もなく姿を消し、戦場を見渡せる崖の上へと向かった。
崖の上の茂みに潜み、郝萌は息を殺して呂布と黒沙の戦いを見つめていた。呂布の神業に感嘆しつつも、黒沙の狡猾な動きから目が離せない。彼は、ただひたすらに、陳宮に命じられた「最大の危機」の瞬間を待ち続けた。
そして、その時は来た。数十合の打ち合いの末、焦った呂布が力任せに大技を繰り出し、黒沙がそれを待ってましたとばかりにかわす。がら空きになった胴体へ、鉄蒺藜骨朶が必殺の威力を込めて振り下ろされる。
「――今だ!」
郝萌は、全ての神経を指先に集中させ、渾身の一矢を放った。矢は、ヒュッという鋭い風切り音と共に、寸分の狂いもなく、黒沙の鉄蒺藜骨朶の柄に突き刺さった。
矢の勢いで、骨朶の軌道が僅かに逸れ、呂布の体を掠めるに留まった。後方で見ていた陳宮は「…よし」と安堵の息をつき、丁原もまた、固く握りしめていた拳をわずかに緩めた。
(誰だ…? いや、今はそれよりも…!)呂布は、何が起こったか分からぬまま、目の前の敵に向き直った。
(油断した…! こいつ、ただの蛮族ではない…! 力も技も、そして狡猾さも併せ持っている強敵だ…!)初めて感じる、本物の強敵に対する恐怖。しかし、それ以上に、武人としての血が騒ぎ、魂が震えるのを感じていた。
「面白い…!」呂布の口から、思わず笑みが漏れた。その瞳には、先程までの焦りは消え、代わりに、獲物を見つけた猛獣のような、獰猛な光が宿っていた。「貴様のような奴がいたとはな…! 良いだろう、黒沙とやら! この呂布奉先、本気で相手をしてやる!」
呂布は、誰かの「智」によって救われたことなど知る由もなく、自らの「武」の力だけで、再び死線へと身を投じていった。その姿を、陳宮は複雑な、しかし確かな手応えを感じる眼差しで見守っていた。この荒ぶる神を、正しく導くこと。それこそが、自らに課せられた天命なのかもしれない、と。戦場は、ただの武勇のぶつかり合いだけでは決しない。その裏で張り巡らされる知略の網が、英雄たちの運命を静かに操り始めていた。




