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第一話:北方の若獅子

第一話:北方の若獅子

并州、五原郡の北境に近い曠野こうやは、その日、骨まで凍みるような北風が吹きすさんでいた。空は厚く垂れ込めた鉛色の雲に覆われ、遥か南には、かんが築いた長城の巨大な影が、この地の厳しさを象徴するようにぼんやりと霞んでいる。風は砂塵と共に、遠い草原の乾いた草の匂いと、微かな獣の匂いを運んできた。この凍てつく風だけが、己の存在を確かめさせてくれる唯一の友のようだった。


そして、地平線の彼方から、それは現れた。黒い、うごめく点の群れ。瞬く間に数を増し、大地を覆い尽くさんばかりの巨大な波となって押し寄せてくる。匈奴きょうどの騎馬兵団だ。独特の意匠が施された狼の旗印が風にはためき、毛皮や骨で飾られた武具が鈍い光を放つ。大地を揺るがすひづめの音と、天をくような蛮声は、彼らが飢え、奪うために、必死の覚悟でこの境界線を越えてきたことを物語っていた。


「……来たか」


その声は、風の音にも、敵のときの声にもかき消されることなく、岩場に凛として響いた。声の主は、風を真正面から受けるように、小高い岩の上に一人、仁王立ちになっていた。まだ若いが、その立ち姿には揺るぎない威厳と、同時に嵐の前の静けさのような張り詰めた気配が漂う。二十歳はたちを少し過ぎたばかりであろうか。すらりと伸びた長身は、しかし、戦袍せんぽうの下に、鍛え抜かれた鋼のような強靭きょうじんな筋肉を秘めていることを窺わせた。燃えるような深紅の戦袍は、まるで彼の内に秘めた激しい闘志が形になったかのように、風に翻っている。腰には武骨ながらも業物わざものと分かる剣。そして、その両の手には、異様なまでの存在感を放つ長大なほこが握られていた。複雑な形状を持つ月牙げつがと呼ばれる刃が左右に付き、その穂先は鈍い銀色の光を放って、見る者を射すくめる。まさしく、方天画戟ほうてんがげき。使い手を選ぶと言われるこの難解な武器を、彼はまるで己の腕の一部であるかのように、自然に構えている。


彼の名は、呂布。字は奉先。その武勇は既に并州の内に轟き渡り、北方の異民族からは、畏敬と恐怖を込めて「飛将」――天翔ける将軍、と呼ばれていた。だが、彼が何のためにその武を振るうのか、その真意を知る者は、育ての親である丁原をおいて他にはいなかった。


「奉先様!敵の数、およそ五千!我が方の手勢は僅か三百!敵の先鋒には、あの『黒狼』の旗印も見えます!ここは一旦退き、丁原様のご本隊と合流すべきかと存じます!」


岩の下から、顔に深い皺を刻んだ老将・張譲ちょうじょうが、必死の形相で声を張り上げた。彼は丁原が最も信頼する副将であり、呂布の武才を認めつつも、その若さと危うさを常に案じている男だった。三百対五千。しかも相手は精強で知られる匈奴の一部族。常識で考えれば、撤退以外の選択肢はありえなかった。周囲の兵士たちの顔にも、歴戦の勇士でさえ、隠しきれない恐怖の色が浮かんでいた。


岩上の若武者は、動じなかった。たかのように鋭い双眸そうぼうは、眼前に迫る黒い波――匈奴の騎馬兵団を、冷静に、しかし燃えるような光を宿して見据えている。その瞳の奥には、若さゆえの激しい闘争心だけでなく、己の信念に対する揺るぎない確信と、どこか常人には計り知れない孤独の影のようなものも感じられた。


「退く、か…」


呂布は、低く呟いた。その声には、一瞬の、しかし確かな迷いの色が滲んでいた。それも一手かもしれんな。だが…。脳裏に、育ての親である丁原の、厳しくも温かい眼差しが浮かぶ。そして、晋陽の屋敷で父の帰りを待つ、三人の幼い娘たちの顔も。


(あの子たちに、臆病な父の姿は見せられん。そして、この并州の地が蹂躙されれば、あの子たちの未来もない…)


守るべきものの重みが、彼の肩にずしりとのしかかる。「この北門の守り、お前に任せたぞ、奉先」。丁原の言葉が、改めて胸に響いた。


「…いや、駄目だ」呂布は迷いを振り払うように首を振った。その声には、もう迷いはなかった。「馬鹿を申せ、張譲。貴殿は忘れたか。丁原おやじ殿の顔に、泥は塗れん」


丁原おやじ殿」――その呼び方を口にする時だけ、彼の厳しい表情が僅かに和らぎ、声のトーンがほんの少しだけ温かみを帯びることに、張譲は気づいていた。主君への忠誠を超えた、息子が父に向けるような深く、複雑な情。彼にとって丁原は、命の恩人であり、武の師であり、そして唯一、彼を理解し、導いてくれる存在なのだ。


「退いては、親父殿への義が立たぬ。それに…」呂布は、ふっと口元に獰猛どうもうな笑みを浮かべた。「ここで退けば、并州武士の名がすたるだろう?」


その言葉に、張譲はぐっと息を飲んだ。そして、周囲の兵士たちも。そうだ、我々は并州武士。この北方の地を守る盾なのだ。恐怖に支配されていた兵士たちの目に、再び闘志の光が宿り始めた。


呂布は、傍らに控えていた愛馬に、風のように軽やかに飛び乗った。その馬は、全身が雪のように白い毛で覆われ、気性は荒々しいが、呂布の意のままに動く涼州産の駿馬。名を「飛雪ひせつ」という。呂布はその首筋を一度、力強く、しかし愛情を込めて撫でた。「頼むぞ、相棒。今日もお前の速さが必要だ」。飛雪は応えるかのように、高く、鋭くいなないた。


呂布は、馬上から三百の兵士たちを見渡し、方天画戟を高々と天に突き上げた。その切っ先が、鉛色の空の下で、不気味なほど鋭い光を放つ。


「者ども、聞け! 敵は数こそ多いが、所詮は飢えた狼の群れよ! 恐れることはない!」呂布の声が、今度は雷鳴のように曠野に轟いた。「お前たちの背後には、何があるか! 家族か! 故郷か! それとも、己の誇りか! それぞれ守るべきものがあるはずだ! それを蛮族どもに蹂躙じゅうりんさせてなるものか!」


その問いかけは、兵士たちの心の最も深い場所に突き刺さった。恐怖はまだ残っている。だが、それを守るべきものの価値が、死の恐怖を凌駕し始めた。


「この呂奉先に続け! 奴らに并州の武の恐ろしさ、骨の髄まで教えてくれるわ!」


最後の言葉は、絶対的な自信と、三百の命を預かる将としての覚悟に満ちていた。それはもはや、単なる若武者の虚勢ではない。


「応!」

「奉先様に続け!」

「并州武士の意地を見せてやろうぞ!」


地鳴りのような雄叫びが、三百の声とは思えぬほど大きく曠野に響き渡った。兵士たちの顔には、死地へ赴く者の悲壮感と共に、誇り高い闘志が燃え上がっていた。


呂布は満足げに頷くと、方天画戟を構え直し、飛雪の腹を強く蹴った。白き駿馬は咆哮ほうこうに近い嘶きを上げ、矢よりも速く、敵の大軍へと向かって駆け出した。ただ一騎、五千の敵に向かって。その背後から、三百の兵士たちが、死兵と化して続く。


砂塵の向こう、匈奴の先鋒を率いる「黒狼」の旗を持つ将は、信じられないものを見るように目を見開いた。三百の手勢が、しかもその先頭に立つのは僅か一騎の武者が、五千の大軍に向かって正面から突撃してくる。狂気の沙汰か、それとも…。しかし、その深紅の戦袍を纏い、異様な長戟を構えて疾駆してくる若武者の姿には、人間のものとは思えぬほどの圧倒的な「気」が満ちており、歴戦の匈奴兵たちすら、本能的な恐怖に背筋が凍るのを感じた。その瞳の奥には、敵を屠る興奮と、自らの武を証明したいという焦り、そして、この戦いの後に訪れるであろう虚しさを予感するかのような、深い孤独の影が混じり合っていた。

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