ゼロ収束を楽しむ
誰しも後悔はあるものだ。
学生になって勉強をやり直したい・・・・・・。
過去に戻ってやり直したい・・・・・・。
いずれも、やり直しがきくものがあれば、できないものが存在する。
たとえば、学生に戻って勉強をやり直したいことを考えてみる。
年齢を戻すことはできないし、小学校からやり直すわけにもいかない。
お金があれば教科書を買って学び直しができるが、同時に時間も使うことになる。
このように、やり直すことができることとできない事がある。
それから、学び直しをするということはお金や時間が、学生時代より倍かかってしまう。
結局、やり直すという行為は大変なことなのだ。
次に後悔しないための方法を考えてみる。
もう一度、学生について考えてみる。
ある学生は、勉強熱心なため学業で優秀な成績だった。
一見すると、なんの問題がないようにみえる。
しかし、この学生は社交的でなく、学校内のイベントも「ただ参加するだけ」だった。
ポイントなるのは「ただ参加する」ということである。
主体的に参加するのと、受け身で参加するのは気持ちの持ちようが全く異なる。
主体的な意味とは、周りと協力してイベントをやっていこうという前向きなあり方だ。
しかし、受け身の意味とは、大多数がやっていくことに着いていくだけという考え方だ。
主体的に参加するか否かは、この学生の自由ではある。
しかし、後悔が生まれる原因はこれにあるのだ。
いかにして、いちイベントに対して楽しんで取り組めたかということなのだ。
主体的に参加すれば、イベント後は達成感や自己の成長につながるかもしれない。
受け身ならば、イベント後は終わっただけと思うかもしれない。
そのように感じらるのは、大多数の行動に対して合わせて動いたためだ。
人は後悔して、はじめて過去の過ちに気がつく。
前にも述べた通り、後戻りしてやり直すことができること、できないことがある。
そうした後悔しないためには、主体的に行動しなければならない。
大学受験・・・・・・。
就職活動・・・・・・。
よくある例として、結果が思わしくないとき、他者のせいや環境のせいにする。
間違いではないが「受け身」すなわち、大多数にあわせて行動していなかっただろうか?
大多数がいっていること、行動していることは正しいようにみえる。
しかし、「自分の人生は自分のもの」であって他者のものではない。
これは他者から侵害されるものであってはならない。
誰かを巻き沿いに考えてはならない。
自分で主体的に行動して考えなければならない。
そのためにも、毎日のように変わらない生活・・・・・・。
ゼロ収束・・・・・・。
これは、つまらないかもしれないが、かけがえない時間である。
後戻りできない、かけがえのない時間・・・・・・。
だから、毎日、一生懸命に生きなければならない。