第一話 さがしびと⑦
「猿川さーん。猿川邦彦さーん」
茉莉が大声で呼びかけてみたものの、霧に煙る街並みからは誰の返事もなかった。
「それにしても……ここ、どこ? こんなところあったっけ?」
改めて周囲を見回してみた茉莉であったが、やはり思い当たるようなものはない。この地域までは電車を使って来たとはいえ、父の運転する車で通りがかったり、遠足なんかで何度か歩いたりしたこともあったのだが、あの細道から先は未知の道なのだ。
せめて見知った店や名所があればよかったのだが、それらもまるで見当たらない。建物はどれもシャッターやベニヤ板で厳重に閉じられているし、看板は虫の這った跡みたいな文字で書かれていて読めない。
「せめて、地図が使えたらなあ……」
圏外のままのスマホを握りしめて、時刻を見れば午後六時前。思わず天をを仰いでみると、霧の中でも茜色の空がはっきりと見える。
すっかり途方に暮れながらも、茉莉は道なりに歩き続ける。愛と勇気がなんとやら。それだけを頼りにすることにした。
「さーるーかーわーさーん。いらっしゃいますかー」
口元に片手を添えながら、気の抜けた大声で叫んでいた茉莉であったが、どこからか水の流れる音が耳に届いた。緩やかな坂道を早足で登っていくと、そこには大きな川があった。
――あれ? ここって……。
それを見た茉莉は、思わず首を傾げていた。おそらく、ここはあの用水路だ。あの延々と続くステンレス製の防護柵も、それに沿うように植えられた桜並木も、どれもこれもに見覚えがある。
そのはずなのだが――向きが真逆になっている。
茉莉が見知った光景とは異なっていて、全てが鏡映しのようになっているのだ。用水路を流れる水の方向も反対になっているから、なおさらそれが目についてくる。
あまりの違和感に混乱していた茉莉であったが、今度は目の前に人影があることに気がついた。ちょうど広場になったところの真ん中に、誰かがこちらに背を向けて立っている。距離が近いからか、今度は服装もはっきりと見える。
その人は背広姿で、小太りな体型で……。
「あっ! あなたは!」
茉莉の驚く声に振り返ったのは、まさしく猿川邦彦当人であった。すっかり土ぼこりにまみれたビジネスバッグと、ボロボロになった白いビニール袋をそれぞれ手に持っている。
しかし、昨日写真で見たその顔は、どこか血色が悪いように見えた。それどころか、全身が血の気の引いたように真っ白になっている。服装も含めて、全身が水に濡れて湿ったままだ。
「あの……猿川邦彦さん、ですか?」
怯えた茉莉がおずおずとした声で尋ねると、血色の悪い男性は頷いた。
それから、真っ青な唇を力なく動かした。
「……ここは、どこですか?」
「それが、わたしにもわからないんです。猿川さんこそ、どうしてこんなところに?」
茉莉がそう尋ねたものの、猿川邦彦は答えなかった。焦点の合っていない両目で、ゆっくりと辺りを見回す。
「うちに、帰らないと……」
「――え?」
「早く、うちに帰らないと……。家族が、待ってるんです……」
どこか要領を得ない返事をしたかと思うと、猿川邦彦はまた足を動かした。その先にあるのは、多くの水量が悠々と流れる用水路。いくら防護柵があるとはいえ、このまままっすぐに行けば間違いなく落下する。
「ちょ、ちょっと猿川さん! 待ってください!」
茉莉はそう呼びかけたものの、猿川邦彦は止まらない。正面に回り込んで押さえつけてみたけれど、茉莉の力では食い止めることは出来ず、ゆっくりと前に進んでいく。
「待ってくださいって! 輪太郎くんとの約束はどうするんですか⁉」
茉莉の踵が防護柵に当たったところでようやく懸命な叫びが届いたのか、猿川邦彦は真っ黒な川面を目前にして足を止めた。
その姿勢のまま、震える声で小さく呟く。
「…………約束?」
「そうですよ、約束です! 誕生日になったら、輪太郎くんに木登り教えてあげるんでしょ? あの公園で!」
「輪太郎、誕生日、約束……。ああ、そうだ……僕は――――!」
両目に生気を取り戻し、何かを思い出した猿川邦彦であったが、そこへ茉莉たち以外にもう一人が近づいてきた。砂利を踏みしめる音に気がついて、茉莉は慌てて振り返る。
「探したよ、猿川! 心配したんだぞ!」
そこにいた人物は、依頼人の早田であった。すらりとした長身に、眼鏡をかけたスーツ姿で片手にバッグを下げている。昨日に茉莉が見たときと同じような服装だ。
だがしかし――どこか声が浮ついているように聞こえる。
「早田さん……?」
どこか違和感を覚えながらも話しかけた茉莉に、早田は微笑みながら答える。
「おや? 君は誰かな? 見たことのない顔だと思うけど」
「あ、いえ、話せば長くなるんですけど……」
たしかにお互い初対面であることを思い出して、どう説明したものかと考えた茉莉であったが、一方の早田は意に介していないふうだった。
「――まあいい。目的は果たせたからな」
吐き捨てるようにそう言ったかと思うと、早田はスーツのポケットから折りたたみナイフを取り出して広げた。
その小刻みに震えた切っ先は、まっすぐに猿川邦彦へ向けられる。茉莉には何がなんだかわからない。
「早田さん⁉ なんですか、それ!」
「部外者は静かにしててくれよ……。僕はこれから、猿川を殺さなきゃいけないんだ」
「…………殺す?」
「そうだとも! そのために僕は――必死にこいつを探していたんだからなあっ!」
早田はバッグを放り投げ、声を上げるとともに、ナイフを構えて走り出す。茉莉は猿川邦彦の手を引いて逃げようとするものの、思うように早く動けない。
もう駄目だ――。茉莉が目をつぶって、半ば諦めかけたところで、またも誰かが割って入ってきた。走る勢いそのままに、横から早田にタックルする。
「やあ、お嬢ちゃん。昨日ぶりだね」
「オベベさん⁉ ってことは、さっきの人は――」
「お察しのとおり、俺だよ」
白い毛並みのイタチ妖怪から目を上げると、そこには探偵の唯野がいた。思いがけない方向から唯野の体当たりを受けた早田は、強い衝撃を受けたことも相まってか、砂利道の上に転がったままでいる。
「なんで君がここにいる? この件には関わるなって言ったよな?」
「そうですけど――そのままじゃいられなかったんです。たまたま猿川さんの家族に会って、話を聞いて、それで……」
うつむいた茉莉の口から、ポツリポツリとこぼれた言葉を聞いた唯野は、所在なさそうに頭を掻いた。
「……なんとなく事情はわかった。詳しい話は後で聞く。だが、その前に――あっちからだ」
唯野が振り返ると、先ほどまで倒れていた早田がようやく立ち上がったところだった。その足取りに力はなく、たまにふらついている。
「酷いじゃないですかぁ、唯野さん。僕はただ、友人を探しに来ただけなのにぃ」
どこか危うさを感じさせる口ぶりのままで早田は言った。耳にしただけで誰もが違和感を覚えるような声音だ。
一方、そんな人物を相手に、唯野は真っ当に受け答えする。
「人探しするのに、そのナイフは必要ないでしょう」
「いりますよう。だって、これがなかったら、猿川を殺せないじゃないですか。そいつは、ちゃんと殺さないといけないんだから!」
もはや異常さしか感じない発言に怯えながらも、茉莉は両者に尋ねた。
「いったいどういうことなんですか? 猿川さんと早田さんは友達で、それに、猿川さんはもう……」
自分のすぐ横に当事者が立っていることもあって、茉莉は思わず言い淀んだ。当の猿川邦彦も、先ほどから早田を見据えたまま沈黙を貫いている。
「――わかった。じゃあ、答え合わせだ」
これ以上の混乱を押さえるためにも、唯野は茉莉に事の次第を話し始めた。
「まず、猿川さんを殺害したのは――目の前にいる早田だ」
「そんな! どうして……」
「早田は勤め先の顧客情報を、無断で保険会社の知り合いに横流ししていた。そうすることで自分は見返りを貰いつつ、知り合いが保険のノルマを達成するための手助けをしてたんだろう」
「え、えーっと……?」
「まあ、とりあえず悪いことをしてたってことだ」
まだ高校生の茉莉を相手に話を端折りつつ、唯野は続けた。
「そんでもって、たまたまそのことに気がついた猿川さんは、三月二十八日に仕事が終わると、早田の自宅まで赴いた。おそらく説得をしに行ったんだろうが、その際に殺害されてしまった。使われた凶器は――――」
「これかい? 見習いさん」
姿が見えなくなっていたオベベが、いつの間にか唯野の足元まで戻ってきていた。その手に抱えられているのは、おそらく早田が投げ出したバッグだ。
「はい、ご苦労さん。そんでもって、たぶんこの中に……」
「こらあ! 勝手に人のものを開けるなあっ!」
声を荒げた早田が跳びかかってきたものの、唯野はバッグを小脇に抱えつつ、こなれた動作で早田へ右足による蹴りをお見舞いした。それは見事にみぞおちへ命中し、またも早田が地面を転がる。
「えーっと……たぶん、これだ」
うずくまっている早田を放置して、唯野がバッグから取り出したのは、白いビニール袋に入れられた新聞紙だった。
大きさは唯野の手のひらより一回り大きいくらいで、中には何かが包まれているようだ。まとめて破いて剝がしてやると、淵が赤黒く染まった凶器が露わになった。
それは、透明なアクリルで覆われた表彰盾。中央に挟まれた白紙には、太い黒字で「二〇一九年度接客コンテスト 最優秀賞」と記されている。
「やっぱり持ち歩いてたか。頃合いを見て、どこかに捨てるつもりだったんだろうけどな」
「でも唯野さん、どうしてそれが凶器だってわかったんですか?」
「まあ、俺とオベベでいろいろ調べたからな」
「調査方法は企業秘密だけどねえ。いろいろ法に触れてるし、怒られそうだし」
オベベが横から茶化しているものの、まだまだ予断を許すような状況ではない。
「勝手に、人の家に入ったのか……!」
ぜいぜいと息の乱したままの早田が、地面に片膝を付きながら憎々しげに唯野を睨みつける。一方の唯野は、そんなことなど意にも介さないというふうに飄々と答える。
「いんや、知り合いの小動物が粗相をしただけだ。騒ぐようなことじゃないだろ?」
「黙れコソ泥! それに、僕は何も悪くないんだ。悪いことなんかしてないし、ただ運が悪かっただけだ」
「運が悪かった?」
「そうだ! あの日、猿川のやつがうちに押しかけてきた。顧客情報の横流しをやめろと言ってきた。僕が嫌だと答えたら、会社に話すと言ってきた……」
「だから、殺したのか?」
「殺してない! 僕が怒って、それで頭を殴ったら倒れて、不運にもそのままタンスの角にぶつかって、血を出しながら気を失ってただけだ! だから、僕は殺してない!」
そう言ってのけた早田の目は座っていたものの、その瞳は細かく震えていた。罪の意識から目を逸らすことに必死になっているのだろう。
そんな男を前にして、唯野の表情はいっそう険しくなる。
「――じゃあ、どうして猿川さんを用水路へ投げ捨てた?」
「そ、それは、まだ息があったから……」
「沈めて殺そうとしたのか?」
「違う! 僕は、それを隠したかったから――」
「じゃあ、なんでウチに依頼した? まだ猿川さんが生きてるかもしれないと思って怖くなったんだろ? だから、さっきナイフで殺そうとしてたんだろ?」
「そうだ! でも、僕はまだ、そいつを殺してなんか――――!」
「だったらさっさと認めろよ。お前が誰かの命を奪ったって罪は、どうあがいても消えないんだよ!」
唯野の怒気をはらんだ目と声に、早田はとうとう言葉を窮し、心も弱り果てていた。
すでに立ち上がれないほどの恐慌状態になっていた早田であったが――。
「――もうやめよう、早田」
いままで一言も発さなかった猿川邦彦が、穏やかな声音でそう言った。
「僕は、君を恨まない。だから……君は自分の罪を、償ってくれないか?」
その言葉が本心であったのか、その場で聞いていた唯野にも、茉莉にも、オベベにもわからない。
ただ、目の前で心の醜さを露呈し、悶え苦しんでいるかつての友人のことを思いやっていたことだけは、たしかに感じ取れた。
しかし――その言葉を受けた当人は、それを素直に受け取れる状態ではなかった。
「……なんでお前が喋ってるんだよ?」
早田は猿川邦彦へ視線を移しながら、吐き捨てるようにそう言った。片膝をついたその足下から、どす黒い何かが湧いてくる。水たまりのように広がっていく。
「お前は、もう生きていないはずだろ? だったらどうして僕に口出しするんだ? そんなのおかしいじゃないか。ありえないじゃないか!」
わめきちらしながら、早田はゆっくりと立ち上がる。その身体をどす黒い何かが流れる液体のように這い上がり、下半身から絡みついていく。
「見習いさん。あちらさん、なんだか様子が変だよ?」
「わかってる! でも、これはいったい……?」
オベベと唯野が警戒し、注視する間にも、どす黒い何かは早田の足下から絶えず湧き出し、早田の身体を覆っていく。当人は意にも介さず、変わらず妄言を吐き続ける。
「――生きていないなら、もういらないんだ。いらないものは、捨てなきゃいけないんだ。掃除しなきゃ……。ゴミはきちんと捨てなくちゃ……。もっと、もっと――もっともっともっとお!」
天を仰ぎながら声を上げた早田の全身を、どす黒い何かがたちまち包みこんでしまった。そのまま繭のような形状になったかと思うと、ふわり宙に浮きあがる。
「なに、これ……」
現実のものとは思えぬ光景を前に、呆然とせざるを得ない茉莉であったが、そうしている間にどす黒い繭はひび割れて、中から出てくるものがあった。
それは――もはや早田ではなかった。
ボロボロのうちわを彷彿とさせる二対の丸い羽をうごめかせ、鈍い羽音を鳴り響かせながら、そのまま宙を漂っている。六本の脚を錆びたドラム缶のような腹の前で擦り合わせ、鋭い牙の生えた顎を開閉する。
人間でなくなった早田の姿は、さながらいびつなデザインモチーフが組み込まれた、巨大なハエのようであった。
『ゴミはぁ……まとめて処分しなきゃあ!』
上ずった声で叫びながら、頭の両側に付いた望遠レンズのような眼でこの場にいる全員を捉えると、得体の知れないハエの化け物は牙を構え、茉莉たちへ飛びかかってきたのであった。