第一話 さがしびと⑥
時刻は少し遡り、午後三時過ぎのこと。茉莉が猿川家を訪ねていたとき、探偵の唯野生太は詩留部モータースの本社を尋ねていた。
ここは主に中古の自動車やバイクを取り扱う企業で、詩留部市を拠点に小規模ながらも事業を展開している。「修理から車検までお手頃価格で!」を謳い文句としており、地域の人々からも長年親しまれている。
もっとも、唯野は買い物をするために来たわけではない。
「場所は……ここであってるよな」
乗ってきた緑色の軽自動車を駐車場に止めて、野外の展示スペースを通り抜けて、販売店舗の横に建てられた三階建てのビルに入る。事務員に二階の応接室へと案内される途中で見かけた内装は、外見に違わずくすんでいる。
「いやあ、お待たせしてすみませんね」
唯野がパイプ椅子に座りながら待っていると、扉を開けて早田が入ってきた。ボーっと窓の外を眺めていた唯野は、慌てて居ずまいを直してから一礼する。
「こちらこそ、お忙しい時間に申し訳ありません。どうしてもお伺いしたいことがあったので」
「訊きたいこと、ですか。でしたら、電話でもよかったのに」
「いえ、たまたま近くを通りがかったものですから。どうせなら直接、と思いましてね」
とりとめもない話という雰囲気の中、向かい側に腰掛けた早田に、唯野は一気に本題を切り出す。
「早田さん、五日前の夕方のことは覚えておられますか?」
「五日前、ですか?」
「ええ――猿川さんが亡くなった日、三月二十八日のことです」
急な話題に身を固くした早川に、唯野はそのまま話を続ける。
「その日、猿川さんはあなたに電話をしていたそうですね。たまたまそれを聞いていた人から、そのことを教えて頂きました」
「ああ、そうでしたか。ですが、それはただ世間話をしていただけで――」
「いえ。それが、聞いていた人によれば、電話をしていた猿川さんは険しい表情をなさっていて、語
気も強かったとか。まるで誰かに怒っているようだった、と」
唯野の言葉に、早田は沈黙したままだった。眼鏡の中にある目が宙を泳いでいる。
「もしかしたら、その話の内容が猿川さんの行方を知る鍵になるかもしれません。だからお願いです、早田さん。どのようなことを猿川さんとお話しになられたのか、教えて下さい」
まっすぐに向かい合う唯野に対して、さまよっていた早田の視線は、とうとう外へと向いていた。アルミサッシに囲われた窓の向こうでは、夕暮れ時の幹線道路にブレーキランプを点けた車たちが列をなしている。
しばらくして、ようやく早田が口を開いた。
「――プライベートのことですので、お話し出来ません。あと、これから急な会議があるので、失礼してもよろしいですか?」
「わかりました。では、調査が進み次第、また来ます」
そう言って立ち上がると、唯野は挨拶を済ませて、そそくさと応接室を後にした。
――さて……収穫は上々。あとは、オベベのやつからの連絡待ちか。
ビルから出ると、唯野はポケットからスマホを取り出した。
見てみると、メールが何件か届いている。送り主は、唯野がオベベに持たせた二台目のスマホからだ。
『例の家の調査報告。写真送ります』
その文面を確認した唯野は、密かにほくそ笑んだ。どうやらオベベのほうも上手くいったらしい。あの小動物然とした体躯の妖怪が、どう文字を打っているのかは気にしない。
殺害事件の犯人の目星はついた。
あとは、消えた猿川邦彦の行方を探すだけだが……。
「あ! 危ないっ!」
唯野が駐車場を歩いてると、どこかで誰かが大声で叫んだ。
声のした方向へ目を向けようとすると、オイルの入った一斗缶が、猛烈な勢いで唯野のほうへ飛んできたのであった。
さながら狙って投げられたかのような一斗缶は、見事に唯野の頭部に命中した。
……はずだったのだが、その直前でさらに奇怪なことが起こった。一斗缶は空中で破裂したかと思うと、轟音とともに別の方向へ飛んでいったのだ。
「だ、大丈夫です…………か?」
何が起こったのかまるでわからず、とにかく無事を確かめるため、荷降ろし中のトラックから作業員の男性が駆け寄ってきたのだが――そこに立っていたのは、頭からオイルまみれになったまま直立する唯野であった。
それから、別の方向へと飛んでいった一斗缶は見事に緑色の軽自動車に命中。バンパーが大きく凹み、フロントガラスが砕けたそれは、まさしく唯野の愛車だった。
「…………すいません、修理に保険って使えますか?」
後日、唯野の車はここで無償修理されることになるのだが、それはまた別のお話。
また、被害はあれども無傷だった唯野の姿を、どこからか眺める者がいた。
――憎らしい……。嗚呼、憎らしい……!
その人物は、まるで何かにとり憑かれたかのように、窓ガラス越しの光景を見ながら強く歯嚙みしていたのだった。
「おや見習いさん、遅かったね」
自家用車が破損し、詩留部モータースの作業員に車で事務所まで送って貰った唯野を出迎えたのは、ソファで悠々とくつろいでいるオベベだった。テーブルの上には飲みかけの麦茶が入ったガラスコップと、皿に盛られた黒角砂糖が置かれている。
「どうしたんだい、その恰好。ずいぶんとラフというか、薄汚れているというか……」
いまの唯野の服装は、オイルまみれのコートとカッターシャツを小脇に抱えながら、真っ白な半袖のシャツ一枚という有様だった。下に履いたスラックスには多少汚れが跳ねただけで済んだのは不幸中の幸いだろう。
「うるさい。こっちはいろいろあったんだ」
唯野は足早に事務所奥の洗面所へ向かうと、汚れた薄茶色のコートをバケツに放り込み、漂白剤をなみなみ注いだ水の中に付け込んだ。対処法がこれで正しいのかはわからないが、少しは綺麗になるだろう。
おしゃかになったカッターシャツをゴミ箱に捨てて、同じくオイルまみれの頭や顔を石鹸で洗い流して、ようやっと清潔感を得た唯野は洗面所から戻ると、オベベに事の経緯を話した。
「あれまあ、物騒なことがあるもんだねえ。安全管理は徹底しないと」
コップを両手で抱えて麦茶をチビチビ飲みながら、オベベはそんな能天気な言葉を返したのだった。
「いや、明らかにそういう問題じゃないだろ。そもそも普通の人間が、おおよそ二十キロの重さがある一斗缶を勢い良く遠投出来るか? しかも、ピンポイントで頭を狙って」
「出来たんじゃないの? たまたま超人がいたとかさ」
「話の腰を折るな、化けイタチ。これは、明らかにお前の同類の仕業だろうが」
「同類ねえ……。ここらに残った妖怪に、そんな血気盛んなやつがいたかな? 間接的な手段で悪さをするやつなら、わんさかいるけど」
たしかに、これはオベベの言うとおりだった。オベベのように人里に隠れて暮らす妖怪は目立つことを嫌うため、人の道理に紛れて悪さをする。物を失くした、道に迷った、いつの間にか切り傷が出来た、機械の調子がおかしくなったといったことなどがまさにそれだ。
今回のケースを考えると、どうにも紛れているとは思えない。落ちそうなものを落とすやつはいるが、あの一斗缶は高所から落とされたのではなく、停車していたトラックに平積みされていたものが宙に浮かんで飛んできた。明らかに道理を越えている。
「じゃあ、他のパターンだな。呪いか祟り、あるいは心霊現象か?」
「見習いさん、アンタどっかで誰かの恨みでも買ったんじゃないかい? それか、罰当たりなことでもしたとかさ」
「そんなの、心当たりがありすぎてわからん。さっきも買ってきたところだ」
「おー、怖い怖い。若気の至りって、ホントやんなっちゃうねえ」
「そんなことより、さっきの件だ。写真だけじゃなくて、説明が欲しい」
そう言いながら唯野は、オベベの向かいに座ると、先ほどスマホに届いた画像を開いた。テーブルの上に乗っかりながら、オベベはそれを覗き込む。
「見習いさんに言われたとおり、あの早田さんって人の家に忍び込んできたよ。お住まいは市街外れの賃貸アパート。監視カメラはなかったね」
依頼人から名前と連絡先を聞くことはあっても、よほどのことがない限り住所までは聞けない。唯野は警察に伝手があるものの、さすがに個人情報までは聞き出せない。
今回の件は、その伝手から嫌疑のある人物の顔と名前は教えてもらえたことと、幸運にも当人が来訪してくれたことでスムーズに調査が進んだのだった。
「昨日ここに来たときから半日つきまとってたけど、久々に骨の折れる仕事だったねえ。せめて、窓の鍵が開いてるとか、どこかに穴が開いてたら楽だったのに」
いかに妖怪だといえど、全部が壁を通り抜けることが出来るわけではない。オベベのように家に招かれるとか、抜け道を探すなどしないと入り込めない者だっている。オカルトの存在だって万能ではないのだ。
「手当は別で払ってやる。それで、まずこの写真だが――これはなんだ?」
唯野がまず確認をしたのは、一見すると小綺麗な部屋の写真だった。
しかし――整理の行き届いているように見えたその片隅には、どういうわけだか指定の半透明のゴミ袋が数個置きっぱなしになっていた。口が閉じられておらず、入っていたと思しき空き缶や弁当の容器がいくつか床に転がっている。
「それはリビングだよ。しっかりしてそうに見えたけど、けっこうズボラな生活送ってたみたいだね、あの眼鏡の人」
「他には誰も住んでなかったのか?」
「ああ。一人暮らしで、同居人や家族もなしだよ」
「なんでこんなにゴミがあるんだ? なんか泥だらけのやつまであるぞ」
「地域清掃に参加してたんじゃないの? あるいは著名なゴミコレクターとか」
「百歩譲ってそうだとしても、居住スペースに放置するかね、普通」
まとまりのあるその空間において、それだけが異彩を放っている。その他にも錆びついた釘や、どこのものとも知れないボロ看板まで写っている。さながら本来ならば無かったはずのものが、別の誰かに放り込まれたかのようだ。
あるいは、何か特別な理由があるのか……?
気になるところはあったものの、唯野は他の写真へと目を移した。
「これは、いったいどこの写真だ?」
浴室、トイレに怪しい点はなくスルーしたが、唯野がいま見ている画像には、整然と並べられた顕彰盾たちが写っていた。数は合わせて四つほど。他にも額縁に入った賞状が見える。
「そこは、あの人の寝室だね。ベッドのそばにあった戸棚の上に飾ってあったんだよ。その写真を撮るのは、タンスに登ったりしてなかなかに苦労した」
「なんか、ホコリが積もってるみたいだな」
「むき出しで置いてあったからね。マメに掃除しなきゃそうなるさ」
それほど大事にされていない、執着していない、ということなのだろうか?
どのような理由で送られたものかを見てみると、顕彰盾には「接客コンテスト最優秀賞」という文字と、それが授与された年数が記されている。その淵は透明なアクリル製で囲まれていて、大きさは それほどでもないが、少しばかり厚みがあるようだった。
どうやら、二〇一六年から二〇二〇年の西暦順で並べられているようだが……。
「――――ん?」
「おや、どうしたんだい見習いさん」
「いや、毎年のように受賞してたみたいなのに、二〇一九年分だけ抜けてるみたいだから気になったんだよ」
「人間、誰しもそんなときがあるさ。敗北を糧にして、一回り大きく成長するってね」
「お前は妖怪だろうが。いや、それにしても……」
どうにも、顕彰盾の置き方もおかしい気がする。合わせて四つ置かれているうちの二つ目と三つ目の間に、もう一つ分のスペースが空いているように見える。
それから――よく見ると、そのスペースだけホコリが積もっていないようだった。
「あと、この部屋の片隅で簀巻きになってるのは何なんだ?」
「それは絨毯だね。もともと部屋に敷いてあったんだろうけど、細くてコンパクトになってるから、さすがに中に人はいないと思うけどねえ」
「古そうには見えないけど、なんで片付けたんだ? 穴が空いたのか、あるいは汚れたから――」
そこまで言ってから、唯野は気がついた。猿川邦彦が殺害された場所、使用されたと思しき凶器、その答えが判然としてきた。
そして、ちょうどそのタイミングで、窓の外から奇妙な声が聞こえてきた。
それは――さながら鹿の鳴き声のようだが、鼓膜を切り裂くばかりに鋭く、どこかおぞましさを感じさせるものだった。
「オベベ! いまの声、聞こえたか?」
「もちろん聞いたとも。えらく怖気のする声だったね」
オベベはひょうきんな調子でそう答えたものの、どこか怯えているように見えた。かくいう唯野も背筋に冷たいものが走っている。
「なんか心当たりはあるか?」
「まったくないね。とにかくおっかないやつ、ってことだけは確かみたいだけど」
「なんだそりゃ」
「あるいは、それなりに名のある神様かもしれないね。さっきの声は、この街一帯を震わせるほどの力を感じた。そんなことを出来るやつは限られてる」
「神様、ね……」
どうしてそんなものが急に吠えたのか、そもそもどこから来たのかは知らないが、オベベの話を聞いている途中で、唯野は気になったことがあった。
「オベベ、さっきの声は誰にでも聞こえるものなのか?」
「聞こえてるとしたら、アタシと同じ魑魅魍魎の類とかかねえ。あるいは、見習いさんみたいに見える(、、、)人たちくらいだと思うけど――それより見習いさん、なんか外の様子がおかしくないかい?」
オベベに言われるがまま、唯野は事務所の外を見た。いつもなら西日が射しこんでくる引違いサッシの窓ガラス四枚の向こうには、あちこちから霧の立ち昇る街並みの景色があった。
「こんなこと、いままであったか?」
「なかったね。うーん、気分はさながら、霧の都ロンドン!」
「言ってる場合か。これはたぶん、あの声に反応して出てきたんだ。その原因から察するに、厄介事が起こる気しかしないぞ」
「ロンドンみたいに?」
「そのネタから離れろ。毛皮剝ぎ取るぞ」
そもそもこの霧に毒性があるのか、霧の中に何かいるのか、はたまた何かを引き寄せるものなのか。
いずれも不明な点ばかりだが、それを明らかにするためにも一度は様子を見に行ったほうがいいと思われる。
同時に、唯野の脳裏にはもう一つの予感があった。
――昨日の女子高生、まさか巻き込まれてないだろうな?
オベベの姿を見ることの出来た、人のよさそうなあの少女が首を突っ込んでいないことを祈りながら、唯野は事務所の外へと飛び出したのだった。