第一話 さがしびと⑤
茉莉が名前を尋ねたきり、またも男の子との間に気まずい沈黙が流れていたのだが、後からやって来た美那子の弟が間に入ってくれたことでなんとか事なきを得たのだった。
「あの、輪太郎くん、なんだけどさ」
滑り台で遊ぶ幼児二人を一緒に見守っていると、ふいに美那子が口を開いた。
「わたしも母さんから聞いたんだけど、あの子のお父さん、最近亡くなったんだって」
「――うん、知ってる。わたしもニュースで見たから」
昨日の見聞きしたことを伏せながらも、茉莉は話を続けた。
「でも輪太郎くんは、お父さんを待ってる、って……」
「あの子のお母さんが、まだ話してないらしいの。しばらくは隠しておいてくれって、園の保育士さんにも頼み込んでたって、うちの母さんから聞いた。何日か前からは、保育園も休ませてるみたい」
だとしたら、いま公園にいる輪太郎くんは家を抜け出してきたのだろうか? それとも輪太郎くんのお母さんが許可してのことなのだろうか?
いろいろ事情が複雑で推し量ることは難しいけれど、この状況では後者だとは思えない。
一時間ほどして、子供たちの遊びがひと段落したところで、茉莉は輪太郎くんに話かけてみた。
「ねえ、輪太郎くん。どうして、あの木の下にいたの?」
訊くまいか迷った質問であったが、輪太郎くんはすんなりと答えてくれた。
「おとうさんが、木登りの仕方を教えてくれるって言ってたの。ぼく、五歳になったから、少しだったら登ってもいい、って」
たしかに、さっきの木は低いところに太めの枝が広がっていたので、コツさえ教われば小さい子供でも少しくらいは登れることだろう。
とはいえ、猿川さんは安全面を考慮して、理由をつけて引き留めていたのだろう。それが撤廃されたことは、輪太郎くんにとって、自分が成長したという証左であったのかもしれない。
「でも、おとうさん帰ってこなかった。お仕事、忙しいのかな……」
約束が果たされない理由を、輪太郎くんは幼いなりに考えているようだった。いくらかの裏側を知ってしまっている茉莉にとっては、非常に胸が締め付けられる。
だがしかし――ここでこの子に話すわけにはいかない。
「……今日は、もう帰ろっか? お母さんも心配してるかもしれないし」
まだ午後三時を過ぎたくらいであったものの、茉莉は美那子に話をしてから、輪太郎くんを家まで送っていくことにした。家は公園のすぐ近くだったので、十分ほどで辿り着くことが出来た。
「輪太郎! あんた、どこに行ってたの!」
猿川家のインターホンを鳴らすと、輪太郎くんの母が飛び出してきた。その人は、やはり昨日に探偵事務所で見た女性に違いなかった。女性のほうも、茉莉のことをうっすらと覚えていたらしい。
「あら……? もしかして、あなたは探偵さんのところの……?」
「あ、いえ。わたしは――」
多くの偶然が重なっていたので話すには難儀したものの、どうにか茉莉の説明は、輪太郎くんの母にも伝わったようだった。
「そうだったの……。ごめんなさいなさいね、いろいろ迷惑かけちゃって」
「気にしないでください。わたしは、特に何も――」
そこまで言いかけたところで、年長者たちの話に退屈して一人遊びをしていた輪太郎くんが戻ってきた。
そうして、いくらか明るさを取り戻した声で、茉莉に尋ねてきた。
「おねえちゃん、おとうさん、帰ってくるかな?」
茉莉の上着の袖を掴みながら、輪太郎くんは彼女の顔をじっと見上げた。生憎なことにその瞳には、純粋な希望しか映っていない。それを傍から見ていた母親の顔からは、一斉に血の気が引いていく。
「あのね輪太郎……お父さんは――――!」
もう本当のことを話すしかない。そう覚悟を決めた輪太郎くんの母であったが、
「大丈夫だよ! きっと大丈夫!」
その言葉を、茉莉の慌てた声が遮った。
茉莉は懸命に明るい笑みを浮かべながら、輪太郎くんに言った。
「だから輪太郎くんは、お母さんの言うことをちゃんと聞いて、いい子しててね?」
「わかった! いい子にして待ってる!」
しばしその様子を呆然と見ていた輪太郎くんの母が、ここで口を開いた。
「……輪、先に中に入って、手を洗ってきなさい。おやつはテーブルに置いてあるから」
「はーい」と威勢のいい返事をしから、輪太郎くんはそそくさと家の中へと駆けていった。
それを見届けてから、茉莉は深く頭を下げる。
「ごめんなさい! 勝手なことをしてしまって……」
「気にしないで。私もまだ、あの子に言おうか迷ってたから」
懸命に謝罪する茉莉を、輪太郎くんの母は責めることはなかった。
だがしかし、その代わりに茉莉へ一つの質問をした。
「――でも、どうしてああ言おうと思ったの?」
突発的で、無遠慮で、適切ではないと取られかねない行動であったが、茉莉は自分なりの答えを口にした。
「もしかしたら、決めつけるにはまだ早いかもしれないって――そう思ったんです」
「決めつける?」
「猿川さんは、自分の足で立って歩いていた。だったら、もしかしたら、また輪太郎くんやあなたに会いにくるかもしれない。そんな考えが、頭に浮かんできて……」
とても拙くて、独りよがりな考え方。
だけど、そんな茉莉の想いは、輪太郎くんの母にもしっかりと伝わったようだった。
「…………そっか」
そう呟いた彼女の声は、ほんの少しだけ暖かく感じた気がした。
猿川家宅を後に後にした茉莉は、どこへともなく歩いていた。リュックから取り出したスマホを見ると、時刻は午後四時半過ぎ。春の陽射しは、すでに西側の山間へと入ろうとしている。
さっきはあんなことを口にしたけれど、茉莉には自信なんてなかった。
猿川邦彦は警察による確認を経て、すでに亡くなった人として扱われている。遺体が動き出したとのことだが、万に一つの奇跡で息を吹き返したのか、はたまた意識のないゾンビのようなものに成り果ててしまったのかは判然としていない。
そもそも、すでに五日が経過しているのに、彼はどこで何をしているのか?
そんな状態に置かれた人物が、家族のもとに帰ってくることはあるのか?
茉莉にはわからないことだらけだし、わかるはずのないことばかりであるけれども……。
「……人探しだったら、わたしにも出来るよね」
重くて引きずりそうだった足に力を込めて、うつむいていた顔を上げて、茉莉は歩き続けることにした。行く当ても目星もまるでついていないけれど、闇雲にでも探してみることにしたのだった。
――もしかしたら、人気のない場所とかにいるのかな?
時間が経っても見つかっていないということは、おそらく人の目を避けて、こっそりと行動しているのだろう。どういう事情があるのかはわからないけれど。
すでに捜索された後だと思われるが、茉莉はその条件に合致しそうなところへ足を向けることにした。
そのつもりだったのだが――茉莉が少しばかり歩いて、まっすぐに伸びた住宅街を道なりに進んでいたところ、ふいに甲高い声が聞こえてきた。
それは、時たま耳にする鹿の鳴き声のようでもあったが、どこか違和感を覚えるものだった。なんというか、さながら鼓膜を切り裂くほど鋭くて、もっとおぞましい何かの声だ。
「…………あれ?」
思いがけず立ち止まっていた茉莉であったが、右側前方に別れ道があることに気がついた。さっき見たときには、こんなものなかったはずなのに。
住宅同士を区切るコンクリート塀の隙間に現れた細い道の先は、真っ白い霧に包まれていた。霧はさながら地面のアスファルトから立ち昇っているようで、夕焼け色の空とわずかに混じり合っている。情緒や風情を感じさせるものの、とてつもなく奇妙な光景だ。
「なんだろう、これ……」
あまりに不自然な光景に目を奪われていた茉莉であったが、その霧の中にうっすら見えるものがあることに気がついた。茉莉よりも背の高い、少し太った人物のシルエット。顔は霧に呑まれていて判然としないけれど、スーツのズボンを履いていることは見て取れる。
――もしかして、この人は!
行方不明になっている猿川邦彦さん、その人ではないか?
見て取れた情報から茉莉がそう判断したときには、霧の中に立っている誰かは踵を返して、細い道の奥へと向かおうとしていた。
「あっ、待って!」
茉莉は呼び止めてみたものの、猿川邦彦と思しき人物には聞こえなかったのか、そのまま背を向けて去っていってしまった。返事の一つもすることはなく、のっそりとした足取りで霧の中へと消えたのだ。
白い闇は依然として立ち込めている。まるで茉莉のことを待っているかのように。
――なんか、すっごい不気味だけど……。
ためらいはあったものの、茉莉は肩に下げたバッグを持ち直して、細い道へと進むことに決めた。一歩、また一歩と距離を詰めるほどに、立ち込める霧が茉莉に触れてくる。それは優しく迎え入れる手のひらなのか、はたまた獲物を呑もうとする舌先なのか。
迷いと疑問と恐怖を胸に抱きながら、茉莉は未知の領域へと踏み込んだのであった。