第一話 さがしびと④
あくる日のよく晴れた正午、探偵の唯野生太はある場所に来ていた。
ステンレス製の防護柵で仕切られた先に流れる用水路は、今日も穏やかに流れている。山を隔てた隣町から来る緑色に濁った水には、水路に沿って植えられた桜並木から落ちた花びらがまばらに散らされている。
例年通りであれば、市街から離れた山裾であるここにも行楽に訪れる観光客がいるのだが、今年は事情が違っている。一部を囲い込むように置かれた赤い三角コーンと、そこへ張り巡らされた黄色いテープに黒字で書かれた「立入禁止」が、その理由を物語る。
――ここが、猿川邦彦さんが見つかった現場か。
猿川邦彦の死亡時刻は不明。しかし五日前の三月二十八日夜、花見に来た数人が水路脇に浮かんでいた遺体を発見したことは間違いない。
その後、連日に渡って警察が現場検証を行ったものの、事件解決の鍵となりえる証拠は見つかっていない。監視カメラによる犯人の特定も行われたものの、山間の人気の少ない地域にそんなものがあるはずもなく、依然として捜査は難航しているそうだ。
現場で死亡確認をして、病院への移送を終えて検死を行おうとしたところ、少し目を離した隙に遺体が消えた。それも、自分で歩き出すというあり得ざる方法で。
もっとも、唯野はその現象に心当たりがあった。
今回は依頼解決となるものを事件現場まで探しに来た次第だったのだが、すでに時間が経過していることもあって、近辺に目ぼしいものはまったく見当たらない。
――試しに、ここらにいるやつらに話を聞いてみるか……?
警察は人間への聞き込みを終えただろうが、おそらくその目に見えない存在には何も尋ねてはいないはず。
そう考えて、いざ実行に移そうとした唯野であったが、ふいに背後から人の気配を感じた。石ころ混じりの砂利を踏みしめて、だんだんと足音が近づいてくる。
振り返ってみると、やって来たのは薄緑色の作業服を着た男性だった。年は二十代後半くらいで、片手には小さな花束を持っている。
男性は唯野のそばを通り過ぎると、事件現場の脇にある簡素な献花台の前で立ち止まった。その場で膝をついて、持ってきた花束を供えてから手を合わせる。
その背中にプリントされた黒い文字に、唯野は思わず目がいった。
――「詩留部モータース」……? ということは、この人は――。
「あの……何か、御用でしょうか?」
あまりにまじまじと見ていたためか、作業服の男性は振り返ると、唯野に声をかけてきた。しまったと思いながらも、唯野は軽く頭を下げる。
「申し訳ありません。見覚えのあるメーカーの名前だったので、つい」
「は、はあ……」
「自分は、以前にそちらの猿川さんにお世話になったことがありましてね。もしかして、あなたは猿川さんの?」
「ええ。猿川さんは、僕の上司でした。僕は整備員なので部門は違いましたが、メカニックにも詳しい人だったからよく相談にも乗ってくれて、何度も助けて頂きました。ですが、まさかこんなことになるなんて……」
そう口にした作業服の男性の顔には、悲しみの色が強く見て取れた。猿川邦彦という人は、よほど強く慕われていたらしい。
少しばかり気が引けるところではあったものの、唯野は男性に尋ねてみた。
「失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「僕は、加山です。そういうあなたは?」
「自分は、この事件について調べている唯野という者です。ちょうど現場を洗い直したり、聞き込みをしているところでして」
「ああ、報道関係の人でしたか」
「……まあ、そんなところです」
制服を着ていたり、手帳を見せたりしなかったので、さすがに警察官だとは思われなかったようだ。
とはいえ、詳しく事情を話す訳にはいかないので、唯野は返事を濁しながら話を続けた。
「よろしかったら、猿川さんのことを教えて頂けませんか? 例えば、事件当日の足取りなんかとか」
「いいですけど……もうニュースになっているとおりですよ?」
「構いません。改めて当事者に近しい方から話をお聞きしたいので」
そうして加山から聞き出した話は、彼の言ったとおり、目ぼしい情報は特になかった。
死亡した当日の猿川邦彦は、午後六時過ぎに職場を後にして、そこから車で三十分ほどの距離にある自宅には帰らず、一旦そこで足跡が途絶えている。
そこから三時間経過した午後九時半ごろ、猿川邦彦の遺体が用水路脇に漂着し、飲み屋街から歩いてきた花見客数名に発見される。猿川邦彦の乗っていた車もまた、その周辺に乗り捨てられていたという。
新聞記事で見たところによると、彼らは自分たち以外には他に誰も見当たらなかったと証言しているらしい。車からは指紋の採取が行われているものの、まだ判然としない点も多く、警察は犯人の特定に時間を要している。
「あと、もう一つお伺いしたいことが。不謹慎なことかもしれませんが、ここ最近で猿川さんが誰かとトラブルになったりしたことはなかったですか?」
「トラブルなんて。そんなもの、特には……」
そこまで言いかけたところで、加山は口をつぐんだ。どうやら、思う当たる節がないわけではないらしい。
「何か、小さなことでもいいんです。お心当たりありませんか?」
「ありません。それに、僕の思い違いで誰かに疑いがかかるようなことがあったらいけないし、言えませんよ」
そう答えた加山は、唯野から視線を逸らしていた。どこか後ろめたさを抱えているようで、このままでは背を向けて帰ってしまいかねない。
――仕方ない。こうなったら……。
意を決して、唯野は口を開いた。
「実は――自分は報道記者などではないんです」
「……え?」
「自分は、探偵です。依頼を受けて、今回の事件のことを追っていました」
「だったら、どうしてそのことを隠していたんです? それに、いったい誰からそんな依頼を?」
「依頼主については、守秘義務ですので申し上げることは出来ません。可能な限りそのことを伏せておくために、自分は素性を偽っていました。ですが……」
疑いの目を向ける加山に、唯野は正面から向かい合った。
「ですが、今回の事件のことで、依頼主の方は深く傷ついている。不可解な点が多く、だからこそ自分のような探偵に頼らざるをえなかった。なので加山さん、どうかお願いです。どんなことでもいいんです。教えてください」
加山の目をしっかりと見ながらそう言った唯野は、腰を折って深々と頭を下げた。こちらには嘘も偽りもない。そのことを、精神誠意伝えようとした。
何より、唯野は悩み苦しんでいる人から依頼を受けている。それを真っ当に取り除くためには、まっすぐな想いを胸に立ち向かうしかない。これもまた、師匠でもある所長から教わったことなのだ。
「……わかりました。お話しします」
その思いは、全てというわけではないが、どうやら加山にも伝わったらしい。ようやくもらえた返答に、唯野は頭を上げる。
「本当ですか? ありがとうございます」
「ですが、さっきも言ったとおり、これは僕の思い違いかもしれない。そのことだけは覚えておいてください」
そう前置きをした上で、整備員の加山はようやく重い口を開いた。
「あれは、事件の起こる前の日でした。夕方ぐらいに、僕が車庫から事務所へ書類を取りに行ったときなんですが、そこに一人でいた猿川さんが、携帯で誰かと電話をしてました。ですが――その様子が、どうもおかしかったんです」
「おかしかった?」
「はい……。声は静かなのに、口調はとても怒っているようで、表情からもそのことがわかりました。それから、僕がいることに気がつくと、猿川さんは慌てて電話を切ったんです」
流れる用水路の水音が聞こえる中、唯野は加山の言葉を胸ポケットから取り出したメモに書き留めていく。聞き漏らすことは許されない。
「気になったので、どうしたんですかって、猿川さんに訊いてみたんです。そしたら、気にするようなことじゃないよ、って笑いながら言ったんです」
「どんなふうに笑っていたのか、覚えていますか?」
唯野からの問いに、加山は声を細くしながらも答える。
「――何かを隠しているような、そんな気がしました。あと、電話をしていたとき、猿川さんがある人の名前を呼んでいたんです」
「それがどなたか、教えて頂けませんか?」
慎重に、そう尋ねた唯野に対して、加山はいっそう声を潜めながら言った。
「その人の、名前は――――」
少しばかり肌寒い風が、昼間の水辺に吹き込んだ。
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
一方、午前授業を終えてから自宅で手早く昼食を済ませた花巻茉莉は、友人の小野田美那子に誘われて、通っている高校近くの公園まで足を運んでいた。荷物は普段使いのリュックだけで、財布とスマホくらいしか持ってきていない。
花壇に刺さされた鉄製のポールの先端を見上げると、時計は午後二時を示していて、まだ陽も高い。
「ごめんね茉莉。一緒に買い物行くはずが、こんなことになっちゃって」
「気にしないでよ。美那子が大変なの知ってるし、わたしもちょうど公園で遊びたかったし」
「……公園で遊びたい高校生って、どうなの?」
「まあ、細かいことは気にしない! 弟くんも、今日は外で遊びたいよね?」
「うん! 公園だいすき!」
まだ四歳だという美那子の弟は、威勢のいい声でそう答えた。今日も両親の仕事が忙しく、美那子が面倒を見ることになっていたのだ。
「じゃあ、さっそく遊びに行こう! 手始めに、雲梯とかいっちゃう?」
「なんでうちの弟より、アンタのほうがはしゃいでんの?」
美那子からのごもっともな指摘にも、茉莉は笑ってごまかした。
しかし、その胸中には昨日の一件が引っかかっていた。行方不明なった男性の遺体。それを探して欲しいという二人の依頼人。殺人事件だったから、ということもあるけれど、被害にあった人の家族や友人を目の当たりにしたからこそ、どうにも心が曇っていた。
とはいえ、あの探偵の人が言っていたとおり、自分に出来ることはない。悲しいけれど、そのことは否定できない。
だからこそ、そのことを忘れるために、茉莉は明るく振る舞いたかったのだった。
そのつもりだったのだが……。
「あれ? リンくんがいる!」
「……リンくん?」
「ほら、あそこあそこ!」
美那子の弟は、相変わらずの元気な声でそう言いながら、公園の片隅を指さした。茉莉が目を向けると、そこに植えられた背の高い樫の木の根元に、野球帽を被った男の子が膝を抱えて座っていた。
だがしかし――気になったのは、その子がどうも暗い面持ちだという点だった。公園にいる他の同年代の子供たちは、みんな笑ったり、騒いだりしているものの、リンくんとやらの周りだけ黒雲でも立ち込めているのかと思うほど重苦しい空気が漂っている。
「あの子って、いつもあんなに暗いの?」
茉莉がそう尋ねると、美那子の弟は首を振った。
「ううん。いつもは一緒に遊んでるけど、ちょっと前からあんなふうなの」
「ちょっと前?」
「うん。おとうさんが帰ってこない、って言ってた」
それを聞いた茉莉の表情はこわばっていた。お父さんが帰ってこない。そのフレーズがどうにも引っかかっている。
胸騒ぎを覚えた茉莉は、樫の木の下まで小走りで向かうと、そのリンくんという男の子に声をかけてみた。腰を下げて、その子と視線を合わせてみる。
「……ねえ、わたしたちと一緒に、遊ばない?」
どう話しかけたものか悩んだ挙句、とりあえず誘ってみた茉莉であったが、リンくんはうつむいたままで首を横に振った。
「――おかあさんに、知らない人についていっちゃダメって言われてるから……」
ごもっともな言葉であるが、これには茉莉も困り果てた。とりつく島がないどころか、この子からすれば自分は見知らぬ不審者なのだ。
「まあ、そりゃそうだよね……」
「それに――おとうさんを待ってるから」
成す術もなく引き下がろうとした茉莉であったが、この言葉に引き止められた。胸騒ぎがいっそう強くなる。
「よかったらさ、名前、訊いてもいいかな?」
茉莉がしゃがみこんで、懸命に目を見て話してみると、それに応じてくれたのか、リンくんは口をもごもごと動かした。
「――猿川、輪太郎」
その苗字は、たしかに聞いたことのあるものだった。