第一話 さがしびと⑪
その頃、猿川邦彦の息子である輪太郎は夢を見ていた。
彼がいま立っているのは、よく遊びに行く近所の公園にある大きな樫の木の下だった。曇りがちな空は薄明るくて、湿った草や土の匂いが立ち込めている。いつも目にしている光景とは、どこか雰囲気が違う気がする。
そこに誰かがやってきた。ゆっくりとした足取りで、芝生を踏みしめて近づいてくる。
スーツ姿のその人を、輪太郎は見間違えるはずがなかった。
「おとうさん!」
息子からの呼びかけに、おとうさんはかすかに笑った。いい子にして待ってて、と言われたけれど、まさかもう会えるだなんて。あのおねえさんの言ったことは本当だったのだと、輪太郎は心の底から喜んだ。
――でも、どうして家じゃなくて、ここなんだろう?
いささかの疑問を感じながらも、輪太郎は父のもとへと駆け寄った。
すると、おとうさんはどこからか取り出した四角い箱を、輪太郎へと手渡した。輪太郎でも両手で抱えられるくらいの箱。少し重たいけれど、いったい中には何が入っているのだろうか?
それを尋ねようとすると、おとうさんは輪太郎の頭に手を置いた。ゴツゴツした大きな手で、輪太郎の頭を強く撫でる。
「痛いよ、おとうさん」
そう言ったものの、輪太郎は心の中では嬉しかった。良いことをしたときはいつもこうしてくれる。明日からも、きっとこうしてもらえるのだろう。
ようやく安心感を得た輪太郎であったのだが…………。
「――――――おとう
さん?」
ひと通り頭を撫で終えたかと思うと、お父さんは後ろ歩きしながら、輪太郎のもとを離れていく。その表情は笑ったままだけど、どこか悲しそうだ。
「待って! どこ行くの?」
輪太郎が質問しても、おとうさんは答えてくれない。だんだんと遠くへ行ってしまう。
「木登り、教えてくれるんじゃないの? おとうさん!」
輪太郎はおとうさんに追いつこうとするけれど、必死に足を動かしても追いつけない。それほど距離は開いていないはずなのに。
いつの間にか公園がなくなっている。空も、地面も灰色になった空間には、輪太郎とおとうさんと、あの樫の木しか残っていない。
「待ってよ! 置いていかないで!」
一緒に家に帰ろう。大声でそう叫ぼうとするけれど、声が出ない。輪太郎の声は、おとうさんには届かない。
だけど、おとうさんからの声は、たしかに届いていた。
――ありがとう。
すると、今度は足下にあったはずの地面がなくなった。輪太郎は、真っ逆さまに落ちていく。真っ暗闇に落ちていく。
輪太郎にその一言だけを残したおとうさんは、やっぱりまだ笑っていた――。
◇◇◇◇◇
そんな不思議な夢を見た後、輪太郎は目を覚ました。
いまいる場所は、公園ではなく自分の部屋。ベッドの上から見える窓の外は、だんだんと明るくなってきているけれど、まだ太陽は出ていないようだった。こんな時間に起きるのは、物心がついてから初めてのことだ。
寝ぼけまなこを手で擦ろうとした輪太郎だったが、自分の右手に何か握っているものがあることに気がついた。
見ると、それはネクタイだった。おそらくはおとうさんのものだろう。泥だらけですっかり汚れているけれど、この青いチェック柄には見覚えがあった。
他にも、枕元に置かれているものがある。緑色の包装紙でラッピングされた四角い箱。砂や泥にまみれているようだが、寝る前にはこんなものはなかったはず。いつの間に置かれていたのだろう?
でも――これもどこかで見たことあるような気がする。
もやのかかった記憶と、予感めいたものに背中を押されながら、輪太郎はラッピングを外してみた。自分の手が汚れることも厭わず、テープを剝がして開けていく。
そうして中に入っていたのは、車の模型だった。ミニカーよりも二回りほど大きいサイズで、化粧箱の窓越しに見えているのは、真っ赤に光るスポーツカー。前におとうさんと一緒に図鑑を見ていたときに、輪太郎が見とれていたものと同じ形だ。
その裏には、手書きのメッセージカードが貼られていた。水に濡れた形跡のあるその紙には、輪太郎にも読める言葉が書いてある。
『5さいのおたんじょうび、おめでとう おとうさんより』
まるで夢のようだったけれど、どうやら夢ではないようだった。
同じ頃、輪太郎の母も目を覚ましていた。どこか胸騒ぎがして落ち着かない。妙な夢を見た気がするものの、その内容が思い出せない。
たしか――あの人が出てきて、何かを私に言おうとして……。
そこまで思い出したところで、ふと枕元に目がいった。置いた覚えはないけれど、見たことはある。いつかの誕生日の日に、彼女が彼にプレゼントしたもの。以来、ずっと大切に使い続けてくれていたもの。
何より……絶対にここにあるはずのないもの。
すっかり汚れたそれを手にしながら、輪太郎の母は寝室を飛び出した。階段を駆け下りて、慌てて玄関扉を開く。
直感に導かれた先に待っていたのは、思いもよらない人物だった。
「あれ? あなた……」
門扉の向こうで背を向けて立っていたのは、以前出会ったときに高校生だと言っていた少女――花咲茉莉だった。輪太郎の母にとっては、これで会うのは三回目である。
とはいえ、早朝からこんなところにいるのはおかしい。
それに、どこか暗い面持ちで、目元はすっかり泣きはらしているようだ。
いったい何がどうしたのか。そう尋ねようと、門の外に出てみると――。
「…………あ」
思いがけない再会に、輪太郎の母の口から声が漏れた。
そこには、もう一人の姿があった。コンクリート塀にもたれかかりながら、アスファルトに足を伸ばして座っている。
その手には、家の鍵が握られているようだった。
「すいません……。間に合いません、でした……!」
むせび泣く声から聞き取れた茉莉の言葉で、輪太郎の母はすべてを察した。
「――――お帰りなさい、邦彦くん」
ようやく会うことの出来た家族に、彼女は優しく声をかけた。
時刻は、午前五時過ぎ。太陽が東から顔を見せる。
「……お届け物、完了っと。これで一件落着、かねえ?」
猿川邦彦からの最後の頼みごとを茉莉とともにやり遂げたオベベは、塀の上からその様子を眺めていたのだった。