第一話 さがしびと⑩
「戻って、きた?」
ついさっきまで、この世のものとは思えぬ光景ばかり目の当たりにしてきた茉莉であったが、彼女にとってはこの瞬間がもっとも信じられないことだった。
「時間は――午前四時⁉ ウソ、そんなに経ってたの?」
「騒ぐな、近所迷惑だ。とりあえず落ち着いてくれ」
スマホに表示された時刻に驚愕を隠せない茉莉を、唯野は静かに諫めた。
「それに……まだ終わっちゃいない」
唯野の言葉で我に返った茉莉は、すぐさま周囲を見回した。
そうして、無事に連れ帰ってきた猿川邦彦の姿を見つけたのだが……。
「さ、猿川さん……?」
見ると、猿川邦彦の全身から、うっすらと煙のようなものが立ち昇っていた。それは身体から抜け出ているようで、時を追うごとに少しずつ激しくなっている。
「――そうか。やっぱり、僕は……」
猿川邦彦は、自らの肉体からもうもうと出る白煙を見て、はっきりとではないが何かを悟ったようだった。
動揺する茉莉を落ち着かせるためにも、唯野は状況を説明する。
「過去にも同様のことがあった。古代中国では、戦死したはず兵士が故郷まで自力で帰ってきた。近代のイギリスでは、殺害されたはずの女性が墓から抜け出したことがあった。それぞれ、キョンシー、リビングデッドと呼ばれている」
いずれも、茉莉はどこかで見聞きしたことがあるものだった。実際にあった出来事かはさておき、映画や漫画なんかで扱われていたので知っている。
では――実際に起こっていたならば、彼らはどういう結末を迎えたのか?
「日本では『起き上がり』とも呼ばれるこの現象だが、いずれの人物も蘇ってから数日で事切れている。死後も生きながらえたという記録は確認されていない。死人はどうあがいても生きられない――絶対に」
唯野は俯いていて表情が見て取れないが、その声からは苦々しさと悔しさが滲み出ていた。
そんな中で、猿川邦彦は唯野たちに尋ねた。
「あなたがたは……探偵、でしたよね? どうして、僕を探していたんですか?」
その質問に、唯野が答える。
「あなたのご家族から、依頼を受けました。奥さんと、息子さんから」
「そうでしたか……。あの二人が、僕を……」
猿川邦彦のすっかり血の気が引いたその顔には、どうやら笑みが浮かんでいるようだった。
「これで――思い残すことは、ないな」
そう言った彼は感慨に浸りながら、どこか満足しているように見えた。
だからこそ、茉莉はあることを思い至った。
「猿川さん、行きましょう」
「え……?」
「猿川さんの家まで。二人とも、きっとあなたのことを待ってます!」
「おい、ちょっと待て。こんな状態なのに、これ以上、この人に無茶させるわけには――」
「ここからだったら十分で着けます! いまから行けば、きっと、一目くらいは……」
引き止めようとする唯野に、必死に食い下がる茉莉。本来なら他人事のはずなのに、諦めようとするそぶりをまるで見せない。
その様子を目の当たりにして、瞼を閉じて考えを巡らせた後、猿川邦彦の心は決まったようだった。
「――行きましょうか、うちまで。渡したいものが、あるんです」
アスファルトの上に置かれていた紙袋を、猿川邦彦は拾い上げた。ホコリと水気でボロボロになっているが、中には包装紙でラッピングされた箱が入っているらしい。
あれこれリスクはあるものの、もはや唯野には止める理由はなかった。
「わかった。じゃあ、君が送り届けてこい。俺には、やるべきことがあるからな」
そう言うと唯野は、親指で背後を指さした。そこには、意識を失ったままの早田が横たわっていた。一連の事件を引き起こした以上、警察に身柄を渡さなければならない。
「オベベ、お前はあの子について行ってくれ」
「いいけど、アタシに出来ることなんかあるかねえ?」
「万が一のときの保険だ。あるいは監督役」
そこで何かを言い返そうとしたオベベであったが、唯野の様子を一目見て、すんでのところでその言葉を吞んだ。
「……あいよ。見習いさんのほうこそ、無理しないようにね」
それだけ言い残して、オベベは走り去っていった。すでに先に歩き始めていた茉莉たちへ追いつくために、短い四本の脚で駆けていく。
「さて……あとはいつもどおり、連絡を――――」
一人残った唯野が、真っ先に知り合いの刑事へと電話しようとしたときだった。コール音を鳴らしたところで、急に視界がぐらついたのである。
そのまま足下から体勢が崩れて、アスファルトの上に前のめりに倒れ込む。立ち上がるような余力もないまま、唯野の意識が遠のいていく。
放り出されたスマホのスピーカーからは、通話相手からの呼び声だけが聞こえていたのであった。
一方、猿川邦彦の自宅へ向かっていた茉莉であったが、こちらも危機を迎えていた。
「猿川さん、頑張ってください……!」
まっすぐ行けばもうすぐというところで、猿川邦彦の状態が悪化した。いまでは自力で進むことも困難になり、茉莉の肩を借りて歩くのが精いっぱいだ。
「ほら、家に着くまで、もうちょっとですよ。朝も早いから、二人ともまだ寝てるかもしれないけど……」
話しかけてはみるものの、猿川邦彦から返事はない。瞳孔が広がりつつあるある目と、だんだんとこわばりつつある顔で、わずかに笑みを浮かべるばかりだ。
「……茉莉ちゃん。その人は、もう――」
「まだ――まだこの人は生きてる! だから、ここで諦めるわけには……!」
オベベの言葉も振り切って、それでも前に行こうとした茉莉であったが、とうとうその歩みもままならなくなった。猿川邦彦の足が、ついに動かなくなってしまったのである。
猿川邦彦の身体から白煙がいっそう強く噴き出す。全身から生気が抜けていく。
「もう、すぐそこなのに……見えてるのに……!」
茉莉の脳裏には“諦め”の二文字浮かんできていた。懸命に歯を食いしばっているものの、限界はすでに近づいている。
――わたしが、無責任なこと言ったから。
だから、猿川さんを余計に苦しめることになった。こんなこと、するべきじゃなかった。
そんな思いに負けそうになったときだった。
「………………え?」
猿川邦彦が掠れた声で茉莉に託したのは、彼の生涯最後の頼み事だった。