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第一話 さがしびと⑨

 唯野が仰向けに倒れ込んで、腹部から血を流しながらあの世とこの世の境界をさまよっている間も、目の前にある状況はけして好転してはいなかった。


「こっちこないでよ! 怪物! バケモノ!」


 石ころを拾っては投げて、せめてもの抵抗をしている茉莉であったが、残念ながらそれが通用する相手ではなかった。もはや人間であることを捨てたハエの化け物は宙を漂いながらも、じりじりと距離を詰めている。


『そういうわけにはいかないなあ。ここにいる人たちは、みーんなキレイに片付けないと』

「だったら僕からやれよ、早田。この子たちは関係ない。お前の目的は僕だけのはずだろう?」

『……お前に言われるのは癪だけど、たしかにその通りだな』


 猿川邦彦の挑発に応じたのか、ハエの化け物はいっそうの羽音を立てながら、改めて狙いを定めなおす。顎の両側にある牙をカチカチと鳴らす。

それを見越して、猿川邦彦は茉莉に耳打ちする。


「君たちは、あの人を連れて逃げるんだ。いいね?」

「そんな! 輪太郎くんとの約束はどうするんです? それに、奥さんだって――」

「……残念だけど、しょうがないんだ。それに、本来なら僕は、もういない人間だからね」


 自分に言い聞かせるように、自嘲気味な笑みを浮かべながら、猿川邦彦はそう言った。その顔から伺える血色は、始めに見たときよりも悪くなっている気がする。もう身体に限界が迫っているのかもしれない。


 ――でも、猿川さんがこうなったのは……。


 茉莉は考えを巡らせた。亡くなったのは早田のせいで間違いないが、こうした形で蘇ったのは、きっと家族に対してやり残したこと、伝えたいことがあったからだろう。

 だったら、このまま化け物に差し出すわけにはいかない。茉莉が依頼を受けたわけではないが、家族がどんな思いで待っているのかは知っている。叶うならば、その思いに応えたい。


 茉莉が急いで辺りを見回すと、目に入ったのは黄色い紐で閉じられたお札の束だった。唯野が持ってきていた、由緒があるらしい除霊の護符。これを使えば、逃げる時間くらいは稼げるかもしれない。

 そんな策を思いついている間に、ハエの化け物は猿川邦彦の間近に迫っていた。このままでは、間違いなく牙で嚙みつかれてしまう。


「それは、駄目!」


 たまたま近くに転がっていた金属製のゴミ箱を両手で持つと、茉莉は飛んできたハエの化け物へ目がけて振り回した。口の大きな網目状のゴミ箱に、化け物の頭がすっぽりと詰まる。


『部外者が! 邪魔するな!』


 暴れて抵抗するハエの化け物を懸命に押さえながら、茉莉は声を上げた。


「オベベさん、あのお祓いの札、取ってきて!」

「え? アタシも妖怪なんですけど⁉」

「紐のところなら大丈夫でしょ!」


 なんとも投げやりな指示に面食らったものの、オベベは茉莉に言われたとおり、目当ての品まで一目散に駆け出した。


「そら、放り投げるよ!」


 オベベは上手に紐だけを咥えて、全身と首で遠心力を加えて、お札の束を山なりにパスする。見事なパスと幸運に恵まれた茉莉は、どうにかキャッチすると、紐から残った護符を全て引きちぎった。


「これなら……どうだ!」


 とっさに距離を取りながら、茉莉はちぎり取った護符を頭にゴミ箱を被ったままのハエの化け物に向けてばらまいた。さながら紙吹雪のようになりながらも、全ての護符は網目状のゴミ箱の全体に貼りついて、一枚のときよりもさらに強力な稲光が発生する。

 これならば、さすがの化け物でもひとたまりもないはず。

 この場で出来る最善の方法を実行し、次に逃げる算段を立てようとしていた茉莉であったが――。


『調子に乗るなよ……この部外者があっ!』


 ひとたび吠えたハエの化け物は、怒りの力をもってしてゴミ箱を破壊した。金属製のゴミ箱はたやすく内側から破られて、貼りついていた全ての護符は輝きを失って、灰となって散っていく。


『まあいい。そんなに僕の邪魔をするなら、君から先に始末してあげるよ』


 万事休す。いまの茉莉には、もう抵抗する手立ては残されていない。

 宙を舞い、羽を広げ、ハエの化け物は丸腰の茉莉に向かってくる。


 ――出来ることは、全部やったよね……?


 この化け物を倒すことはかなわなくても、時間稼ぎは出来たはず。あとのことは、もう運に任せるしかない。

 そうして、諦めて目をつぶろうしたときだった。誰かが茉莉の前に割って入り、ハエの化け物との間に立ちはだかった。

 その人物は、手にしていた金属製の警棒を頭上に掲げると、勢いに任せて振り下ろした。


『ぶべえ⁉』


 振り下ろされた一撃は、見事にハエの化け物の頭部に命中して叩き落すとともに、飛び出していた片眼の望遠レンズを砕いてみせたのであった。

 そして――それを放った人物を見て、思わず茉莉は目を疑った。


「た、唯野さん⁉」


 肩で息をしているものの、そこに立っているのは唯野生太に違いなかった。ハエの化け物の攻撃で深手を負ったせいで、さっきまで意識もなかったはずなのに、いつの間にか息を吹き返して動いているのである。


「傷は、傷は大丈夫なんですか? あんなに血も出てたのに」

「ああ……。それなら塞がってた」

「塞がってた⁉」

「まあまあ、茉莉ちゃん。病み上がりの人に、あれこれ訊いたりしないの。いまはそれどこじゃあないでしょ?」


 訳知り顔のオベベが諫めたことで言葉は止んだものの、茉莉の心配は収まっていなかった。

腹部に刺されていたナイフは引き抜かれており、赤黒く染まった砂利の上に捨て置かれている。本人の言ったとおり、傷口から血を垂れ流している様子もない。

 いったい何が起こったのか? どんな力が働いたのか?


『――痛いなあ、探偵さん。人の眼を叩くなんて、あまりにも酷すぎないかい?』

「あんたはもう人じゃないだろ? なんなら、今度は外科でも紹介しようか?」


 茉莉の頭の整理がつかない間にも、ハエの化け物は動き出していた。左眼に当たる部分が壊れていても、動作に支障はないということらしい。

 軽口を叩きながらも、唯野はまたも化け物の前に立ちふさがる。


「それに、俺はもうあんたには負けないさ。なんせ、俺は死ねないからな」

『なんだい、それ。格好つけてるつもりかい?』

「言ってろ、化け物。お前のご希望どおり、さっさと片付けてやる」

『……何様のつもりでぇ!』


唯野のキザな挑発に乗ったハエの化け物は、全身に怒りを漲らせながら急上昇した。ボロボロの羽を広げて力を溜めて、またも周囲のゴミたちを浮かび上がらせる。


『人の言葉を、勝手に借りるなあっ!』


 大小様々なゴミたちは、唯野や茉莉たちを包囲するように放たれる。コンクリートブロックや鉄パイプ、錆びついた釘に血染めのナイフ、どれも当たればひとたまりもない。

 立ちすくんでいた茉莉を、今度は猿川邦彦が庇うように身体で覆う。茉莉がその冷たさを感じている間にも、唯野はハエの化け物を見据えていた。


 ――俺を助けてくれてたのが、どこの誰かは知らないけど……。


 胸の内で強く祈りながら、唯野は目をそっと閉じた。


 ――だったら、今度も助けてくれよ。俺が、誰かを助けるために!


 それから目を開くとともに、心の中に秘められていた何かを、思いとともに解き放つ。唯野の身体を中心にして、まばゆい光が広がっていく。

 同時に、ハエの化け物の発射したゴミたちが次々と着弾した。鈍い音、甲高い音、重たい音がそれぞれ鳴り響く。


『大層なこと言ったくせに、もうおしまいか。あっけないね』


 自慢げに胴体の錆びたドラム缶を叩き鳴らしたハエの化け物であったが、その後に現れたものを目にして動きを止めた。

 白く光が晴れていく。防がれた無数のゴミたちが砂利の上に落下する。

 そうして唯野たちを身の丈ほどもある巨大な刃と片腕で守ってみせたのは――黒一色の羽織を深く被った骸骨の幽霊であった。額からは二本の角が生えていて、真っ白い着物をまとった様は、まさしく故人であることを示しているかのようだ。

 だけど――白く透き通ったその姿は、どこか神々しく、優しいものに思えた。


『な――なんだお前は……?』


 想像すらつかなかった存在が現れたことで、ハエの化け物は動揺する。その大きな隙を、唯野はけして見逃さない。


「俺だって――知らねえよっ!」


 唯野が念じながら動作を取ると、骸骨の幽霊もそれに合わせて動き出す。口を大きく開いて灰色の炎を吐き出すと、それはハエの化け物にまとわりついた。


『身体が、動かな……!』


 空中で身動きの取れなくなったハエの化け物を見据えながら、骸骨の幽霊は右腕を頭上に掲げる。手にした鉈か菜切り包丁を思わせる得物に力を溜めて、刃渡りが数倍の大きさへと変貌する。


「これで――終わりだ」


 骸骨の幽霊に振り下ろされた刃は命中すると、見た目に違わぬ威力を発揮し、ハエの化け物を見事に両断してしまった。

 露わになった切り口からは、どす黒い何かが漏れ出してくる。


 ――ああ恨めしい……。恨め――――。


 呪詛の言葉が途切れたかと思うと、どす黒い何かは浄化されたかのように霧散し、風に吹かれて消えていったのであった。

 あれもこれもと起こった後に取り残されたのは、唯野と茉莉たちのみ。唯野の背後に現れていた骸骨の幽霊も、事は済んだと言わんばかりに消えていく。


「ちょっと待てよ! お前はいったい誰なんだ? 名前は?」


 この機会を逃すまいと、とっさにそう尋ねた唯野であったが、骸骨の幽霊はそのまま姿を消してしまった。

 その間際に、かすかに聞こえた声があった。


「――カバネモジン」


 やっと知ることが出来たその名前を、けして忘れないよう心に刻みながら、唯野は小さく呟いたのだった。

 そうして、ようやく騒動がひと段落したかと思われたときだった。春一番か木枯らしを思わせる勢いの風が、急に唯野たちのもとへ吹いてきたのである。

 あまりの強さに全員が手や腕で目を覆う中、茉莉は指の隙間からその変化を垣間見たのだった。


「……あれ? なんか、霧が――」


 辺り一帯を覆っていた一斉に霧が晴れていく。不気味な茜空が去っていく。

 やがて気がついたときには、唯野たちはいつの間にか住宅街の真ん中に立っていた。看板の文字も、街並みも鏡映しではなくなっている。先ほどまでそこにあったはずの景色は、覚めた悪夢のように消えていた。

 夜空はほんのりと青みがかり、山間では名の知れない鳥がさえずっていたのだった。

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