幕間 ただの始まりの思い出
あれは唯野生太が小学三年生のころ、八月半ばくらいのことだった。
「よう、加減はどうだい?」
唯野が目を開けると、そこは知らない部屋の中だった。クーラーがよく効いていて、薬品の香りが鼻孔をくすぐる。どこか馴染みのある気のする場所だ。
声のしたほうを見ると、土色の和服を着たぼさぼさ頭の男がベッド脇から顔を覗き込んできていた。初対面の人に言うのは失礼なことだが、懐手をしたその姿は、どこか時代錯誤のようにも感じられる。
「あの……どちらさまですか?」
「俺かい? 俺は、探偵の志賀内だ。今日は君の叔父さんに頼まれてここにきた」
「ここは、どこですか?」
「病院だよ。近くの森で意識を失っていた君は、救急車でここに運び込まれたそうだ」
どうにか半身を起こそうとしたものの、痺れたような感覚がして上手く動かせない。右頬に突き刺されたような痛みが走ったので触れてみると、そこにはいつの間にか大きな絆創膏が貼り付けられていた。
そうだ――たしか、宙に浮いた大きな鎌に襲われたような……。
「ほら、無理しなさんな。怪我人は安静にしてないと」
そう言うなり志賀内は、ゆっくりと唯野をベッドに寝かせ直した。そば殻の枕と真っ白いシーツからは、仄かに汗の臭いがする。
だからこそ、とても嫌な予感がしていた。
「……ぼくの友達は? ねえ、どうなったの?」
志賀内は、そう尋ねた唯野の切羽詰まった様子に少し驚いたものの、さっきと変わらない調子で答えた。
「ああ、みんな無事だよ。こことは違う部屋で寝てる」
「でも……みんな、ぼくよりも酷い怪我なんでしょ?」
唯野からの問いかけに、志賀内は黙り込んだままだった。ということは、どの程度の具合かはわからないけれど、けして間違いではないらしい。
「――やっぱり、そうなんだ。また(、、、)こうなったんだ」
消えそうな声でそう呟くと、唯野は薄手の掛け布団を頭まで被った。
同じようなことが起こったのは、これで四度目だった。季節や時期に違いはあれど、毎回誰かを巻き込んだ騒ぎになって、その中で唯野だけがいつも助かる。
唯野生太は、生まれたときから一人だった。母は唯野を出産したときに亡くなり、父はとっくに行方が知れなくなっていた。
赤ん坊のときから親戚中をたらい回しにされて、その先々で災難が起こる。
一度目は四歳のとき。友達と川で遊んでいたら、みんな揃って流されてしまった。唯野は運よく川岸に打ち上げられていたが、他の友達は下流まで流されたので救出が遅れた。命に別状はなかったが、長い間意識を取り戻さなかった子供もいた。
二度目は五歳のとき。保育園の行事で山登りをしていたら、頭上から崩れた土砂が降って来た。登山道を並んで歩いていた多くの園児と保育士が巻き込まれたものの、落下地点より手前で何かにつまずいて転んだ唯野は、間一髪で難を逃れた。
三度目は七歳のとき。今度は遠縁の親戚一家と一緒に車でドライブに行ったら、対抗車線から居眠り運転のトラックが突っ込んできた。親戚一家はすぐに病院に搬送されて奇跡的に一命を取り留めたのだが、唯野だけはなぜか無傷だった。
その結果、唯野生太という少年は、世間からは「極めて幸運な人」として扱われた。三度も事故や災害から生還したことを聞きつけた新聞やテレビの記者たちが、取材のために押しかけてきたこともあった。
だがしかし――親戚からの扱いは、けしてそういったものではなかった。
あの子が近くにいたら、私たちが不幸になる。いつ怪我をさせられるかもわからないし、命がいくつあっても足りない。だから近づかせないで欲しい。
三度目の事故の後、遠縁の親戚一家の叔母さんが叔父さんにそう漏らしていたことを、唯野ははっきりと覚えている。
そうして回りまわって、母の家族だった人たち――母にとってのお母さんとお兄さんに引き取られてから、今回がその四度目となったわけだ。
「ぼくが悪いんだ……。ぼくが、みんなと遊んだりしたから……酷い目にあわせるかもしれないのに、ぼくが、誰かと一緒にいたから……!」
唯野生太は自分を責め続けた。いままでのことは、全部ぼくのせいで起こったことだ。ぼくがいたから、みんなが傷ついて不幸になったんだ。
「だから――ぼくはいらないやつなんだ。生きてちゃいけない人間なんだ」
いつか誰かに言われたことを思い出して、唯野はすすり泣いた。
もはやどうすることも出来ず、枕と布団を涙で濡らすばかりであったが……。
「まったく。子供の分際で何言ってるんだか」
志賀内は、そんな唯野を茶化すように、陽気な声で話し始めた。
「まだ十年も生きてないのに、大層なことを言うもんじゃないよ。こちとら二百年も生きてきたが、他人様を何度傷つけて、何度ご迷惑をかけてきたことやら」
「に、二百年……? それ、本当?」
ありえない話に驚いた唯野が布団から顔を出してみると、志賀内は自信満々というふうに頷いた。
「本当だとも。ちょんまげ生やしたお侍だって、ちゃあんとこの目で見たことあるさ」
志賀内は得意げに言っているけれど、どうもそうは思えない。見た目は普通のおじさんだし、そもそも二百年も生きていられるはずがない。
けれど、唯野は男の話に自然と耳を傾けていた。
「だからこそ、君に教えといてやる。君が何かに巻き込まれても無事でいられるのは、誰かがそう願ってくれているからだろう」
「誰かの、願い……?」
「そうとも。願いの力は奇跡をも呼び起こす。誰かが誰かを思えば思うほど、より強い力となって守ってくれるのさ。形はそれぞれ違うがね」
「でも、いったい誰がぼくなんかのことを……」
「それは、いまはわからなくてもいつかわかるさ。それを知るためにも、まずはその願いに応えて生きてみたらどうだい?」
志賀内の言葉は、すんなりと受け入れられるものではなかった。目に見えないものを信じろと言われても、信じられるはずがない。
だけど――当時少年だった唯野は信じてみたくなった。
四度も事故に巻き込まれて、そのたびに守ってくれたものがあるなら、いつかそれに出会ってみたい。そう望んでしまったのだ。
「でも、ぼくがいたら、また他の人に迷惑がかかるんじゃ……」
「あ、それなら大丈夫。君の周りで起こった事故は、全部妖怪の仕業だからなあ」
「…………妖怪?」
「君の叔父さんから事情は訊いてる。どういうわけだか知らないが、君は奴らから目を付けられやすいみたいだねえ。ちなみに一度目の事故は質の悪い河童の仕業。二度目のはホオジロオトシで、三度目はたぶんネムリコケの――」
「ちょっと待ってよ。なんだよ妖怪って。そんなのいるはずないでしょ?」
すぐさま頭ごなしに否定した唯野であったが、それに対して志賀内は、にんまりと笑ってみせた。
「いや、たしかにいるとも。君の膝の上を見てごらん。ちょうど両膝の間らへんだ」
唯野はまた身体を起こして、男に言われたとおりのところへ視線を向けた。じっと目を凝らして、何かいないか探してみる。
すると――何かと視線がぶつかったと思った瞬間、掛け布団に覆われた唯野の膝の上には、いつの間にか真っ白い毛並みの小動物の姿があった。
「…………あ、どうも」
その小動物は首にネクタイを巻いており、しかも丁寧にお辞儀しながら、言葉を話してみせたのだった。
「おじさん! これ、何?」
「そいつはマングース……いや、イタチのままでいいか」
何かをぼそぼそ呟いた後で、和服の男は言い直した。
「そいつはイタチの妖怪、イトワケナクシ。急に物がなくなったりするのは、だいたいこいつのせいだ。他にもいろいろな妖怪がいて、それぞれに応じた対処法がある。それを知れば、君はこれからの人生において、危険を避けることが出来るかもしれないな」
「危険を、避ける……」
それは、まさしく唯野が探し求めていたものだった。自分以外の誰かを傷つけない、何かに巻き込まない。もしもそれを叶える術があるのなら、是非ともそれにすがりたい。
「おじさん――ぼくにその方法、教えてください」
まっすぐに目を見ながらそう言ってきた少年に、志賀内は思わず歯を見せた。
「いいとも、教えてやる。だったらお前は、今日から俺の弟子だ」
不幸中の幸い、九死に一生の立て続けの先に待っていた出会い。
自分が生きていることと、生きていくことを見つめ直した日のこと。
唯野は、いまでもそのときのことをはっきりと覚えている。
「しっかりやるんだぞ、見習い探偵」
かくして、唯野生太は「しがない探偵社」で働くことになった。
これが、彼にとっての始まりである。