Paint It, Black
カフェインの錠剤を四つ、掌に取り出し忌々しく眺めて、口に放り込んで飲み込む。
目を瞑り、心臓の鼓動に耳をすまして、かっと目を開けた。
勉強机の上にある苦手な教科へと神経を集中させる。嫌いな教科として全国の学生にアンケートをとったわけじゃないけども、きっと、学生の中で苦手な教科の一位と二位を争うであろう教科、数学だ。最も公式とかを覚えればいいのだろうが、生憎と、僕は公式を覚えることに関しては才能がないらしい。だからこそ、努力を積む。
母親は、兄の月彦が僕の才能を全てとったのだろう、と子供の頃、笑いながら言ったのを覚えている。
何を意味不明なことを、と僕は今になっても思い出すたびに、憎々しく思う。
だから、毎日、毎晩、カフェイン錠剤に頼ってまで勉強をしているのだ。
時計をちらりと見れば、時刻は午前一時五分。
まだ、まだ、勉強をしなければならない。
「もうひと頑張り」
勉強机の引き出しからカフェイン錠剤が詰まった入れ物を取り出し、机の上に置いた。
ザラザラと軽く、中を回すように振って、四錠、掌に出す。
身体に悪いとは聞いている。だけども、それでも、勉強をしなければならない理由が僕にはある。
ペットボトルに入れた水を飲み干した。わざわざ自室を出て、台所までコップを取りに行ったりするつもりは起きない。
目線をノートへと落とす。
勉強へ取り組む時間が多くなるにつれ、公式がどんどん、頭の中に入ってくるのを感じる。手に持っているペンは僕の指と同化して、インクは血になって、僕の血肉がそのまま、ノートの上を滑っていくように感じられた。心臓の鼓動がやけに早く聞こえ、机の片隅置いてある時計の秒針がやけにゆっくりに聞こえる。
僕の鼓動が四拍打つと一秒進む。
悪くない。時間の分よりも、早く勉強が進んでいる。頭の中に、公式がどんどん入り込んで来る。
時間を見れば、午前4時。
明日のこと、と言っても、今日の事を考えれば、もう切り上げて寝て、明日の旅立ちへと備えなければならない。
しかし、このまま、起きてしまってもいいような気がする。
が、眠ってしまった方がいいと思う。少しでもいいので。
ベッドに横になり、目を瞑る。
心臓の鼓動が早く、早鐘を打つように拍動していた。
「おい、晴喜」
名前を呼ばれ、僕は目を開けた。
部屋の入り口へと目を向ければ、ちょうど、僕がいる。
いや、違う。
双子の兄、月彦だ。
僕よりも少し伸びた背と、髪の毛、整った顔立ち。モデルとしても、ちょっとした俳優としても活動している自慢の、忌々しい兄。成績もよく、地元の進学校への入学が決まっている優秀な兄。そういうのは、ただ似ているよりも不愉快だ。
「もう出発の時間だろ? 朝食、食べないのかよ」
「要らない」
「中学生三年生の成長期に飯食わねーとか損じゃねーか」
「朝に糖質を摂ると太るんだぜ。知らないのか?」
舌打ち。
僕が不愉快なのと同じように、月彦も僕を嫌っている。
理由としては特に思いつかない。細かく原因を探れば、子供の時、親から色々、言われたのが原因ではないかと思うが、事あるごとに僕と月彦を比較する母親だった。今となっては、月彦が圧倒的に優秀になったので、僕と比較することはなくなったのであるが、比較されていたという事実はずっと残る。
「とかく、よそで恥をさらすんじゃねーぞ」
「お前こそな。こっちまで悪評が聞こえたら、笑って手紙送ってやるよ」
扉を閉めようと、中指を立てた月彦が部屋から出ていく。
扉が閉まってから、僕は布団の中から抜け出した。
てきぱきと身支度を整え、机の中のカフェイン錠剤の入れ物を旅行鞄に詰める。もう、この部屋に戻ってくることはないのだ、と思えば、幾分か気持ちがましになる。それと同時に、不安も募る。見知らぬ土地へと向かうのだ。
壁に貼り付けてある封筒を手に取る。
僕の名前宛てで書かれた封筒。
差出人の箇所に、書かれた久田里学園の文字。地方の学園であるが、有名な大学校への進学率の高い隠れた名門校だ。どうして隠れた名門校というのかはわからないが、ネット掲示板でもそう評されているし、有名配信者ひゆろき氏も言っていたので、実際、その評価は間違ってないのだろう。
そうだ。
僕はこれから住み慣れた街を捨て、家を捨てて、そこに移るのだ。
高校受験に関して、母親は反対だった。
わざわざ遠方の学校に僕が通うのが嫌だったのだ。学費と生活費の事もあった。
だが、擁護してくれたのは父親だ。父親は、僕がそうやって独り立ちすることを喜んだのだ。もっと言えば、僕が兄の月彦と、そして、母と距離をとる方が良いと思ったのだ。
また、僕が選んだその学校が、比較的、学費が安かったというのもあるかもしれない。また、進学校というのも父親にとってはある種、擁護しやすい点だったのだろう。
だからこそ、その学校の授業についていけるように勉強をしなければならない。
静かに玄関へと向かう。
見送りは誰もしてくれなかった。父親くらいはしてくれるかと思ったが、仕事らしく、駐車場に車がない。
早朝の冷たい空気の中で、僕は一人歩いて駅へと向かう。
駅前には人はまばらだった。そのまま、電車に乗り、目的地へと向かっていく。
高校生になっての一人暮らしというのは不安がどうしても勝ってしまう。もっとも、全寮制ということもあり、実際の一人暮らしとは全く違うのであるが、それでも、中学校を卒業したばかりの僕にとっては、不安でしょうがないというのは事実なのだ。
どんどん、車窓の風景が田舎じみたものになる。
県境を何度も超えて、地方が変わって、電車を二つ乗り換えて、バスに乗りこむ。この頃になると、同乗しているのは、僕と同じような年齢がちらほら見えるようになった。期待半分、不安半分というような表情なのは僕とまさしく同じだろう。実際、バスの窓ガラスに映る僕の顔と、他の乗客の顔は大して変わらないはずだ。
これからもしかしたら、クラスメイトになるかもしれない五人くらいの生徒を僕はじっと見た。
バスが大きな峠道にさしかかったその時だった。
大きなクラクションの音とともに、激しい衝突音、
天井が床になった。
そして、意識は黒く塗りつぶされた。
週に一回投稿したい。