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夏のホラー2020

慈愛

 波打つ人混みが、真っ二つに別れる。呆気に取られた様子の人々たちは、鬼気迫る表情で駆け抜ける青年を交互に見送る。


「待って、誰かそいつを捕まえて」


 ホームから叫び声があがる。


「おら、どけよ、お前ら!」


 青年は周囲の制止を振り切り、改札を飛び越え、地上への階段へまっしぐらだ。


 半時計回りに、一段飛ばし。猛進する青年が、階段の角を曲がったそのとき、


「きゃあ」


 肩に鈍痛が巡った青年は、咄嗟に振り向いた。白いカーディガンを着た若い女性が、下方の踊り場で蹲ったまま動かない。彼女はお腹をおさえて苦しそうにしていた。


 青年は、眼下に広がる光景が、どこか遠い異国の地で起きている出来事のように感じられた。


「大丈夫ですか!」


 追手の駅員が、転落した女性に気をとられている間に、青年はビルの建ち並ぶ街へと消えた。そこかしこに鳴り響くサイレンも、ついには彼を探り当てることができなかった。


 一週間後の正午、奪った金を使い果たした青年は、パチンコ店から出ると、近くのラーメン屋へと向かった。


 タバコを吸おうと、ポケットに手を入れようとして、青年は顔をしかめた。


「くそっ、まだ痛えなあ。畜生あのやろうふざけやがって」


 階段の角で女性とぶつかった肩が、時折痺れを伴うことがある。


 もっとも安価な塩ラーメンの食券をカウンターに放り投げ、セルフサービスの水を浴びるほど飲んだ。


 テーブルに置かれた新聞は、数日前のもので、ある記事に青年は釘付けになった。


「会社員の女性が地下鉄の階段を転落し、重体。お腹の胎児にも影響が」


 卓上に頼んだ塩ラーメンが届くや否や、新聞を丸め、何事もなかったかのように、青年は勢いよく啜り始めた。


「あー、うめえ」


 青年は懲りずに地下鉄へと足を運んだ。警戒心のない外国人観光客が狙いだったが、先日は金持ちそうな外見に目が眩んで、獲物の選択を誤ってしまった。


 結果として、警備が一時的に強化されたものの、しばらくすると、元のように手薄になってきた。


 地下道を闊歩しても、誰にも咎められることはなく、恐ろしいほど穏やかな日常に戻っていた。


「あんた、またよからぬことを企んでるのかい」


 消え入るような、それでいて低く通る嗄れ声が、青年の足を止めた。周囲に人影はなく、空耳だったのだろうかと訝る。


「ひっひっひ。お前さん、ワシはここだよ」


 地下通路の壁面に、ぴったりと背中を寄せた老婆が、あぐらをかいている。老婆の正面に広がった風呂敷と、水晶や数珠はいかにも怪しげだった。


「何のようだ、ババア」


「少し恵んでくれんか」


 老婆は錆びた汚い皿を突き出してきた。


「くれてやるものなんかねえよ」


「どうせ人から盗んだ金だろうに」


 にやつく老婆は青年が先日の窃盗犯であることを知っているらしかった。


「警察にチクったら、ババアでも容赦しねえぞ」


「おお怖い。心配しなくとも喋ったりはせん。もしも恵んでくれるなら、いいことを教えてやろうか」


「いいこと?何だ、早く教えろ」


 青年が詰め寄るが、老婆は微塵も怯まない。

 直に電車が到着する。


「構ってる暇はねえんだ、じゃあなババア、とっとと失せろ」


 ホームに出ると、ベンチに腰かけた人々を物色する。

 財布がポケットから落ちそうな、ジャージ姿の男がいた。


 ジャージの男が、列車に乗り込むと、青年も同様に扉の内側へ入った。ほどなくして、ジャージの男は隣席で居眠りを始めた。


 財布をくすねた青年は、次の駅で降り、そのままコンビニでタバコを購入し、タクシーで家まで帰った。


 予想外の大金が入っていたため、二ヶ月は部屋に籠って過ごした。食べては寝てを繰り返した青年は、気づくとかなりの肥満体型になっていた。


「流石に酷えな」


 鏡の中で、大きく張った下腹をさする青年の姿があった。

 金が尽きたため、久々に地下鉄へと向かった。


 地下道には、怪しげな老婆が、以前と変わらぬ装いで座っていた。


「ようババア、生きてたか」


「とうとう恵んでくれる気になったかね」


 嬉しそうな顔をする老婆が掌を差し出してくる。青年はそれをはね除けて、代わりに唾を吐いた。汚れた水晶を老婆は丁寧に拭っている。


「ボケた頭も唾つけりゃ治るか?」


「あんた、ツイてるよ。わしはこんなことされても怒らんけどな、」


 不敵に笑う老婆は、何か続きを話しかけていたが、青年は無視してホームへと急いだ。


 地下道が長いと思ったことは一度たりともなかったが、青年は息が上がっていた。背中の汗が止まらず、足が重い。


「腹が、痛いな」


 脂肪の詰まった下腹部に、鈍い痛みが走る。階段の手摺で体を支えないと、立っていることすらままならない。


「どうしました?」


 制服の駅員が、心配そうに話しかけてきた。


「ちょっと、気分が悪くて」


「救急車を呼びましょうか」


 どう返事をしたのか定かではないくらいに、意識が朦朧とした青年は、突然現れた真っ白な天井に困惑せざるを得ない。


「ここはどこだ」


 首を捻ると、どうやら病院らしい。


「体調はいかがですか」


 長い黒髪のナースが訪ねてきた。そしておもむろに、青年の横たわるベッドのシーツをめくった。


「うわっ」


 青年のお腹がぱっくりと割れ、真っ赤に染まったどろどろの塊が、沸騰したお湯のように溢れている。


「何だこれは、誰か、止めてくれ!」


 黒髪のナースは、冷たい眼差しで、もがく青年の腹を眺めている。


「どうして何もしてくれないんだ!助けてくれ」


 経験したことのない激痛に悶える青年は、天井やベッドに散らばった血飛沫に成す術がなかった。やがて病室を埋め尽くした大量の鮮血に、青年は溺れてしまった。


 目を覚ますと、地下道に青年はうつ伏せになっていた。腹部に手を当てると、皮膚は繋がっていた。


「大丈夫ですか、救急車、呼びますか」


 駅員の神妙な顔つきに、青年はかぶりを振った。余りの痛みに気絶してしまったようだ。


 青年は立ち上がり、元来た道を戻り始めた。

 よろめく青年の腹部には、真っ赤な赤子が貼りついていた。


「だからツイてるよって言ったのにねえ」


 老婆が呟いたとき、若い女性が足を止めた。


「何のことですか?」


 女性は胸に花束を大事そうに抱えていて、腕や足には包帯を巻き、片手に松葉づえをついている。


「ふふふ、何でもないさ。ところであんた、わしに少しばかり恵んでくれないかい。その代わりにいいことを教えてやろう」


 首を傾げながらも女性は老婆に僅かばかりの硬貨を手渡した。


「有難うよ。約束通り教えてやるさ。もうすぐここに一人の男がやってくる。そいつは腹の膨らんだ汚い男さ」


「その男と私は何の関係があるのですか」


 女性が息を飲んで老婆を見つめる。


「お前さんはすぐに察するだろうよ。そのバッグに忍ばせた包丁が役目を果たすときが来たことを」


 老婆の話を聞き終えた若い女性は、松葉づえを打ち捨てて、奇声をあげて駆け出した。


 はだけた白いカーディガンが真っ赤に染まるのを、老婆は少し離れたところから、微笑んで見つめていた。(了)

後味の悪いホラーを書くのは、正直気が進みませんでした。その代わりに子どもと女性を大切にする風刺の意を同時にこめて

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