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G友

作者: 星野区

 この曲、なんか聴いたことある。

 咄嗟に口をついて出た、苦し紛れの呟きだった。2人だけの空気に耐えられなかったのだ。

 苦し紛れだけに終わらせず、その場限りでの呟きに済ませまいとあれこれ努力した。向こうも私も必死だった。友達がトイレに席を立ってから帰ってくるまでの間、せめてもの時間稼ぎだ。私も、そして向こうも、お互いにどんな人間なのかわからないので、共通の話題が思い浮かばない。普段は意識しない店内BGMにこの時だけは感謝した。

「ただいま。なんの話してた?」

 友達が帰ってきた。私達の苦心も知らずに微笑んでいる。せいぜい3分程度の苦心だったが。

「曲の話をしてた」

「曲?」

 向こうが、左手を上げて上を指差した。空気を指差している。

「ああ、このBGMのこと。なんか聴いたことあるね」

「そう、聴いたことがあるって話をしてたんだよ」

「いろんなドラマとか映画で聴いたことがある」

 2人きりの時、この曲が使われていたいろんなドラマや映画を思い出し、果てはアニメやゲームにまで至り、ひたすらタイトルを羅列した。私達が行ったのはそれだけだ。

「で、なんの曲なの?」

「わかんない」

 そのこと自体はどうでもいい。会話を終わらせてはならない。私は大げさに肩をすくめて、外国人がよくやるポーズを取った。

「わかんないけど、クラシックだね。さっきの曲はすごいアレンジされてて、全然クラシックっぽくなくなってた」

 私はさっき、という言葉を使った。話題の曲は流れ終わって、別の曲に移っていたからだ。

「クラシック」

 向こうの人が私の言った言葉を復唱した。「そういえば、ゴッホっぽいかも」

 言い終わると、ちゅう、とアイスティーをストローで吸った。

 私と友達は何も言わなかった。正しくは、何かを言おうとして、何も言えないことに気付き、そして間が空いた。突然の『ゴッホ』に、何を結びつければいいかわからなかったのだ。店内BGMの話をしていた。ドラマや映画の話もした。が、絵画や美術の話はしていない。何故、ここに画家の名前が出てくるのか。何が『ゴッホ』っぽいのか。

 向こうは、その間を察知し、「間違えた! バッハだ、バッハ」と言って、しきりにバッハの名を繰り返した。

 友達は、向こうの様子をからかう方向に転じた。さっきの間をもネタにした。

 向こうは、「どうでもいいよ、そんなの。私、飲みもの取ってくる」と飲み終わったコップを片手にドリンクバーに席を立った。今度は私と友達の2人きりになったが、空気には困らなかった。


 友達は突然、別の友達を連れてくるタイプだった。2人だけの約束だったのに、いつのまにか知らない誰かが紛れ込んでいることがよくあった。向こうにしても私と同じ感覚だったようで、顔を見るなり戸惑った。

 友達は、大体の場合は私の引っ込み癖を埋めてくれるような人を連れてきてくれたが、今回は違った。不運なことに、私も向こうも引っ込み癖があるタイプだった。

 とても困った事態になりそうだと気付いたのは、3人で帰り道を歩いている時だ。私は○○方面の電車に乗るけど2人は逆だね、と友達は無邪気に笑った。

 そして今、2人きりで電車を待っている。向こうの名前はユカ。私はリエと名乗った。

「あの人、最初は2人だけだって約束だったのに。びっくりした」

 ユカは冗談めかして言った。それはこっちの台詞だと思った。が、そのまま言葉にせずぼかして返した。

「本当に。私も2人だけだって約束だったんだよ。事前連絡も無しに、よく……」

 言ったら失礼になる言葉を言いそうになり、言い方を少々変えた。「よく、こういうことをやっちゃう人、みたいだね」

「うん。ああ、ということは、私もリエも似たような目に遭ってるんだ」

「そうだね。結構振り回されてる」

 振り回されている自覚があるのに誘いに乗っている。何度も何度も。今回もそうだ。

「私、もうあの人と付き合うのやめよっかな」

 ユカが言うと、丁度よく電車が来た。会話をしながら、どこの駅で降りようか思案していた。いっそ一駅で降りてしまうのもいいかもしれない。と思ったが、ユカの一言で、やはりいつも降りている駅で降りようと決めた。あの友達と縁を切るということは、ユカとはこれきりだということを意味している。

 座席はほとんど埋まっていた。ユカと並んでつり革に掴まって窓の景色を眺める恰好になった。

 いつも降りている駅で降りる。とは決めたものの、その間に話すことがあるかと言えば特になかった。共通の話題。付き合うのやめよっかな……知らない人を連れてくる友達。でも、悪口や愚痴の類で話が膨らみそうだ。それは嫌だ。ついさっきまで、友達のことを友達扱いせず『こういうことをやっちゃう人』呼ばわりしていた者は誰だったか。

 店内BGMに頼らざるをえない状況になった。しかし、ここは電車の中だ。がたんごとんというつまらない音しかない。聴覚ではない何か。視覚。そうだ、私が見えているものはユカにも見えている筈だ。

「この路線で、右の方に行ったことはあまり無くてね」私は下を指差して言った。「ユカはどこまで行ったことある?」

「右? この路線なら終点まで行ったことあるよ」

「そうなんだ。何か珍しいものある?」

「珍しいもの……あんまり印象に残ってないなあ」

「そっか。例えば夜は星が綺麗とか、そういうのでもいいんだけど」

「えっ、星は左に行った方が綺麗に見えるんじゃない?」

「え? ……あっ」

 私は自分の間違いに気付いた。「間違えた! 左だ、左」右手で目の前を振り払う仕草をして、訂正した。

 ふっとユカは吹き出した。この日初めて見る笑顔だ。お店で一緒に過ごしていた時に見た笑顔とは違う。

「左ね。左の方には、私もあまり行ったことない」吹き出した自分を取り繕うように付け加えた。「でも、リエの言うとおり、夜は星が綺麗だと思う」

 私達の乗っている路線は、右に行くほど都心に近づき、左に向かうほど山奥になる。星が綺麗に見える、という認識を共有出来たことを嬉しく思った。

 世の中には左右盲という言葉があることを、私はまだ知らなかった。自分がそれに当てはまることも知らなかった。

「私が間違えた時、リエは笑わなかったね」

『間違えた時』とは、言うまでもなく、ユカがバッハをゴッホと言った時だ。

「だって、話題が逸れていくのが嫌じゃない。恥ずかしいとかそういうんじゃなくて」

「うん。あんまり頻繁に間違えるから、もう恥ずかしいとか、そういう次元じゃないんだよね」

「笑ってる暇があったら話を戻したい」

「そう、笑ってる暇が惜しい」

「でも、笑ってる方に悪気はないんだよね。ネタにもなるし」

「嫌なら直せって話だけど、これがなかなか難しくて」

「そう、なかなか直せない」

 話の種が尽きる気がしなかった。ユカとはいつまでもお喋り出来そうだ。そんな錯覚に陥った。

 私が降りる駅まであと二駅といったところだ。話したくても、もう時間はそれほど残っていない。

「ゴッホが咳をした、ってやつ、友達が言ってたのをたまたま聞いちゃって。で、その時たまたま音楽の授業で」

「こんがらがったんだ」

「たぶん。画家が咳をした、なら間違わなかったのに」

 ゴッホが咳をした。ゴッホゴッホ……くだらないギャグを披露する小学生を思い浮かべた。ギャグだけでなく、バッハっぽいあの曲も耳に届く。ユカの当時の友達は、今もユカと交流があるのだろうか。自分のせいでバッハのことをゴッホと言ってしまう人間がいることを、考えたことはあるだろうか。

 ふと、妙案が思いついた。

「バッハの方は? ゴッホみたいなくだらないギャグ、聞いたことない?」

 ユカは少し虚空に視線を泳がせて、首を横に振った。

「じゃあさ、咄嗟の時にはバッハの方を思い出したらいいんだよ。よく聞いて。

……音楽家が笑った。バッハッハ」

 出来る限りの無表情を努めた。

 ユカの表情が読み取れない。どんな顔をすればいいかわからないのだろう。自分から言い出したことなのに、私はユカを気の毒に思った。

「どうかな」

「どう? どうっていうのは、その……」

「面白いとかつまらないとかじゃなくて、今のを咄嗟に思い出せるか」

「咄嗟に……」ユカは頭痛に悩むように指先をこめかみに当て、黙った。私も黙って待った。ユカはほんの少しだけ、口角を上げ、「自信、ないな」と答えた。

 私はすぐさま次の手を打った。

「今のギャグ、私が考えたんじゃないの。とある曲の歌詞の一部」

「とある曲って、あの時流れてたバッハっぽいの?」ユカは早合点をした。

「違うけど、でも、歌を覚えておけば思い出しやすいよ」

「その歌を覚えておけば思い出しやすい」ユカは私の言いたいことを早め早めに拾ってくれた。「家に帰ったら、その歌、聴いてみる。なんていうタイトル?」

 家に帰ったら。つまり、ネットで調べてアップされているものを聴く、というつもりだ。

 私は、タイトルを教えてしまえばそれで済んだ。が、わざわざ面倒なことに思いを馳せていた。

「いや、簡単に聴けるものじゃないから難しいかも」商業の音楽がアップされるたびに削除されることを、経験上知っていた。手軽にネットに触れられる時代であるにも係わらず手軽に目当てのものに触れられないという現状は、面倒なことだった。

 お出口は右側です。というアナウンスがあった筈なのだが、聞き逃していたらしい。気付いたら車両はスピードを落としていて、気付いたら私が降りる予定のホームが間近に見えていた。あっと私は声を上げた。

「ここだ、ごめん、今度CD貸すね」

 謝ることなど何もないと思いつつ、咄嗟にそう言って、私はするすると電車から降りていった。

 私と同じ駅で降りる乗客の気配を背後に感じた。振り返ると、全然知らない人だった。ユカはまだ電車の中でつり革に掴まっている。

 私は、ばいばい、と口を動かして、そして手も振った。

 ユカは、掴んでいたつり革を放して、左手で振り返してくれた。

 ドアが閉まる。閉まるタイミングで背を向けた。ユカは電車に乗ったまま、自分の帰路を目指す。私も自分の帰路を進む。

 帰り道、中途半端な約束を取り付けてしまったことを、私はどうしたものかと悩んだ。

 もうあの人と付き合うのやめよっかな。確かにユカはそう言った。今度CD貸すね。確かに私はそう言った。この言葉が交わされるまでの間に、私達はお互いの連絡先を交換していない。

 自分の言ったことを尊重するとなると、相手の言ったことを尊重しないことになる。逆も然り。今一歩踏み切れないジレンマに陥った。何気なく言った一言は、どの程度の意思の強さを持つのか。自分の言った言葉すらも計れなかった。

 見えない糸を掴んでいる。直接ユカには繋がっていない糸だ。何かを介さねばユカにはたどり着けない。ユカも似たようなことを考えているかもしれない。その根拠は、「自分とユカはなんとなく似てる」という点だけだ。かなり主観的だ。

 別に、特別な約束ではない。忘れてしまえばいい。

 どっちの意思がどうの、と揺れている天秤自体をぶち壊すことにして、私は玄関に踏み入った。

 夕飯の席に着いたところで事実は判明した。

 テレビを流しながら食事をとるという習慣がついていた我が家に、バッハっぽいあの曲が流れたのだ。

「この曲は」CMで使われていたためすぐに別の音楽が鳴り始めた。私はデザートのイチゴを食べる手を止め、誰かに尋ねた。「今の、いや、さっきの曲はなんていう曲?」

 答えられる相手ならば誰でもいい。父親が願いを叶えてくれた。

「G線上のアリアだ」

 こんな有名な楽曲を何を今更、というような語気を含んでいた。構わず私は礼を言い、後で友達に伝えようと思った。友達とは他でもない、ユカを連れてきたあの友達だ。

「お父さん、今、『ジー』って言った?」

 妹が鬼の首を取ったかのような物言いで父親に突っかかった。「『ジー』じゃなくて『ゲー』って読むんだよ。文字だとアルファベットのジーだけど」

「わかってるよ、そんなの」わざと妹の年齢に成り下がって、恥ずかしげもなく父親は対抗する。「俺は最初に『ジー』で覚えたんだ。咄嗟に『ジー』って言っちまうんだよ。そもそも『ジー』って読むものを『ゲー』って読めっていう方が無理あんだろ……」

 2人は譲れないこだわりを言い合っていたが、私にとっては重箱の隅の突き合いだ。食卓に置いておいて、早々に自室に戻った。

 スマホを手に友達に事実を伝えた。ジーだのゲーだのはどっちでもいい。文字の上では、アルファベットの『G』はただの『G』だ。

 即、通知が来た。ルーズな友達は返答の中身もルーズであることはよく知っていたので、大した返事は期待していなかった。

 返事は、こうだった。


"同時に同じこと言ってくるからびびった" "2人とも同じもの見てるの?" "ちな、2人ってのはリエとユカ"

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