第1話
初投稿です。至らない点があるかもしれませんがよろしくお願いします。
夏の炎天下を歩いていると、思い出すことがある。子供の頃の逃避行のことを。
私には二卵性双生児の妹がいる。両親は私たちをよく殴る人だった。何か気に入らないことがあれば殴られ、暴言を吐かれ、ご飯も食べさせてもらえないことがあった。
逃げ出した夜、その日も私たちは殴られていた。部屋にゴキブリが出て、ゴキブリを退治しろと私たちは言われた。私は怖がってひるんでしまい、早くしろ!とどつかれ殴られ、チラシを丸めて叩こうとした妹の真美はゴキブリを逃がしてしまい私より酷く殴られ蹴り飛ばされた。ゴキブリがいなくなったところで両親は遊びに出掛けていき、私たちは部屋のなかに取り残され、黙って座っていた。
私はぼんやりと玄関を眺めていた。晩御飯も食べていなかった。雑然としたまま停止した部屋の中で、何かが動いた。さっき逃したゴキブリだった。驚く気力も何もなく、そのまま私はゴキブリの動きを目で追っていた。玄関のドアに、外へ半分転がり出したサンダルがはさまっていた。狭い所に沢山の靴が雑然と放り出してあったから、両親が外に出るとき転げ出したのたろう。ドアが少し開いていた。ゴキブリは玄関の方へ行き、乱雑な靴の山や谷をいくつか乗り越えたあと、ドアの隙間から外へ出ていった。
その光景を見て、私の中で何かが閃いた。何であんな考えが浮かんだのか、今でもわからない。
「…真美、私たちも、ここから出たらいいんだよ」
「恵美ちゃん?なにいってるの?早く寝ようよ」
真美は呆れたような顔で言った。
「父さんも母さんも明日の夕方まで帰ってこないよ、だから、そのうちに逃げようよ!」
私は必死だった。この機会を逃してはならないと思った。
「無理だよ、寝るところもご飯食べるとこもないよ?」
そう言われて怯んだ私は、どこか自分たちでも頼れるところがないか、知恵を巡らせた。ひとつ、幼い頃の記憶のなかで頼みの綱を見つけ出した。
「ねえ、おばあちゃんちにいけばいいよ!前、おばあちゃんちに行ったとき、困ったときはいつでも言いなさいって、言ってたよ!」
「だめだよ、子供二人じゃ無理だよ」
「ゴキブリでもこの部屋出れるんだよ!真美も見たでしょ!?私行くよ!」
「恵美ちゃん!言うこと聞きなよ!」
真美が声を荒げた。私も負けじと怒鳴り返した。
「真美は嫌じゃないの!?ずっと殴られるの!」
「私たちがもっといい子にしたら、きっと殴らなくなるよ…」
真美が弱々しく言った。
「どうせ私いい子になんて出来ないんだもん!真美は私よりいい子だからここにいたらいいよ!私はおばあちゃんちに行く、おばあちゃんちの子になる!」
私は真美を振り切り玄関から走りでて、辺りに人がいないことを確認し、階段を下りた。
私は、両親が現れるんじゃないか、大人に怒られるんじゃないかと辺りを見渡し酷く警戒しながら暗い道を歩いた。
しばらくすると手提げを持った真美走って追いかけてきた。暗闇のなかでも、真美の顔が強張っているのがわかった。
そこから、私たちの逃避行は始まった。
すごく暑い日だった。暑くて暑くて、日差しが強くて、私は何度も道にへたりこんだ。捕まらないうちにと夜通し歩いて隣町まで来ていた。一晩中移動し続けた疲れに加え、強い日差しに体力を奪われて、私はへとへとだった。
「少しだけ、少しだけ、座らせて」
「恵美ちゃん、だめ、もう少し」
私は駄々をこねてしゃがみこみ、真美はそんな私の手を引いて引きずるようにして私を立ち上がらせた。そんなことを繰り返していくうちに、公園についた。
「さあ、恵美ちゃん、ここで休もうよ」
私がベンチの上に崩れ落ちると、真美はどこかへいってしまった。ベンチは木陰にあって、涼しくて少し暗くてなんだかほっとする。汗で体はベタベタだけど、道で歩いているときよりはずっとよかった。頭がぼうっとして何も考えられない。私はうとうとと眠りにつこうとした。
「恵美ちゃん!起きて、あっちに水のみ場があるよ」
私はゆっくり起き上がり、ふらふらしながら水のみ場まで歩こうとした。真美が私を支えてくれようとしたが、汗でべとついた暑い体がまとわりつくのが嫌で真美を払いのけた。
蛇口を全開にして水をごくごく飲んだ。蝉の声、水道の唸る高い音、自分の喉が鳴る音。そんな音をぼんやり聴きながら水をむさぼり飲んでいると、意識がはっきりしてきた。さっき真美を突き飛ばしてしまった。真美は私を支えようとしてくれていたのに。真美に声をかけようとしていたとき、真美が小銭を差し出して言った。
「恵美ちゃん、先にお金持っといて。電車乗るから」
「うん…」
私は言葉を飲み込んでしまった。双子の姉妹なのに、私の方が姉なのに、真美は私よりしっかりしていた。おばあちゃんちに行くと言い出したのは私だったけど、家を出てから舵取りをしていたのは真美だった。そんなことを考えていると、どうしようもなく苛々してきて、私は無愛想に小銭をひったくった。
「恵美ちゃん、どうしたの?」
「真美も水飲みなよ」
私はまたベンチに座り込んだ。真美は心配そうに、気遣わしげにこちらを見ていたが、控えめに水を飲んでいた。遠慮がちに、でも長いこと飲み続けていた。
水を飲みおわった真美はベンチに座って、唯一持ってきた手提げ袋のなかを整理していた。お金を持ってきたらしい。
しばらく休んだあと、また私たちは歩き出した。最初は大通りを歩いていたが、学校のある時間帯に子供が二人歩いているのは不自然だったらしく、じろじろ見られた。私たちは人気のない道に入った。
黒々と繁った街路樹が並ぶ薄暗い道を、二人で黙って歩いた。比較的涼しくて歩くのが楽だった。蝉の声と私たちの足音だけが聞こえていた。このまま歩けば、きっとおばあちゃんちにつく。あの辛い生活から開放される。何もかもうまく行くんだ。私はそんな期待を胸のなかに膨らませていた。
「あっ」
そんなことで頭をいっぱいにしていたら、何かを踏んづけた。蝉の死骸だった。少し崩れていた。相変わらず周りでは、蝉がうるさいほどに鳴いていた。
「何立ち止まってるの。行くよ」
真美から言われて我に返った。街路樹の繁る道から抜けて、道路沿いの細い道に出た。
車が通るんじゃないかと、私たちは何度も神経質に道路を振り返りながら歩いたが、車は走ってこなかった。不気味なほどしんとした道だった。
太陽は容赦なく照ってきて、あんなに水を飲んだのに、あっという間に喉が渇いてしまった。アスファルトと靴の擦れるの乾いた音が、疲労を加速させた。
「真美、少し休もう」
真美は黙っていた。強い日光のなかで真美の背中が白っぽく光って見えた。
「ねえってば」
苛立って真美の顔を覗き込むと、真美の顔は真っ白で、すっかり息があがっていた。
「ちょっときつい」
真美はそう言ってしゃがみこもうとした。
「ここは暑いから、もうちょっと先行こ」
私は真美を支えながら、アスファルトの道を歩いた。砂漠を歩いているような気持ちだった。木陰のある横道が見えたので、私は真美を抱え、緑の生い茂る道へ入っていった。