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瑠璃の図書館、彼女は一人。

作者: 明渡雅夢

 だれも、どこにそれがあるのか知らない。

 むしろ、存在そのものを知っているかわからない。

 そんな、図書館が在った。



 下も上も、そして地平の彼方まで、そこは不思議な瑠璃の色だった。

 いくつもの透き通った蒼が、青が、藍が重なって波立っている。地面が無い、まあるいその場所を、知識を持った人ならば神秘的な海の底にいるようだ、と表現しただろう。


 ◆


 その中に、それはいた。

 足は木の枝、髪は長く絡んだ黒い刺繍糸。目はぎょろりと魚の目、すかすかの体にはぼろきれが巻かれていた。見ただけでは男とも女ともつかなかった。

 図書館に在る何か。それは自分を司書だと思っていた。

 司書の仕事をしていたわけでは無いが、図書館にずっといるならそうなのだろうと思っていた。


 ただ増え続ける本を読み続けるだけの日々。

 それに記憶は何もなかったが、文字だけは何故か読み取れたので読み続けていた。文字を読む奇怪のようだった。

 いつしかそれは、自分を手に入れて「彼女」になった。


 ◆


 鏡は無い。時計は無い。ドアも無い。窓もない。

 ただ「自分」を手に入れてしまった彼女は永遠のような時を本の山の中で過ごしていた。

 苦では無かった。彼女にとってはそれが当たり前だった。

 増え続けていく図書館の本。あまりに広く広く広いその中で、彼女は自分が一人だと思っていた。



 だが、ある日突然人間が来た。

 彼女は驚いたが、「声」を出すということを知らなかったのでただ驚きだけをもって見ていた。

 一人の人間はよたよたと歩いていく。枝に生白い皮を纏わりつかせたような足で、どこかを目指す。

 彼女はじっと見ていた。本を読むことしか知らなかった彼女は、初めて見つめるということをしていた。

 人間は、一寸の迷いなくある棚の元へ向かった。そして迷いなく棚の中の一冊抜きとると、たいそう大切そうに抱えて歩いていく。そしてふらりとその人は図書館を去った。


 彼女は呆然と見ていた。


 入る。初めて理解した。

 出ていく。初めて理解した。


 そして心を乱された。



 ――『出たい』



 彼女は初めて本にも目もくれず駆け回った。どこかに消えていく本。それを上回るスピードで生まれてくる本。全てすべてが意識の外。

 あの人は、どこから来た。あの人は、どこへ行った。ただそれが知りたい。きっと本には載っていない。探さなければならないのだ!


 駆けずり回った。走った。転げまわった。

 枝の足はぱきぱきと悲鳴を上げた。刺繍糸の髪は伸びに伸びてマントのように垂れた。

 時折彼女は人間と遭遇した。今まで気が付かなかったが、彼らはいつもこの図書館を訪れていた。ただあまりに広くて今まで遭遇できなかったのだ。

 彼女は一心に本を見つけては去っていく彼らを追った。その人間が消えてはまた他の人間を探し、追った。

 そうして無限の図書館をひたすら巡り、廻り、回りにめぐり――彼女は、理解した。


 自分には入る場所も出る場所も無いのだと。


 足を動かさせていた燃料が重りになった。

 体を動かしていた歯車が、軋み割れそうだった。


 それを理解した時、胸を襲った激情。

 掻きむしりたくなるような、腐った果実酒に押し込められているような、ああ――苦しい!苦しい苦しい苦しい!

 それが「絶望」なのだと彼女は知らず、溺れ続けた。


 ◆


 人が一生を終えるほどの時間、彼女はそれを感じることに費やした。

 更にその倍の時間、彼女は自分がその感情しか持っていないことを嘆いた。


 そして心が感情を吐き出し切って、ふと気がついた。

 入る場所を、出ていく場所を、探していた時のあの気持ちは?

 強く押すように自分を走らせた気持ち。

 あれは「絶望」のように重くはなかった。


 彼女は気がついた。それでも知らない。

 彼女は知らない。それが「焦り」であったことを。

 彼女は知らない。「焦り」の先にあったのは「希望」であることを。


 絶望を抱えていた彼女は、座っていた。

 もう本は読まない。そんなものに意味はないから。

 そこに、欲しいものは無いから。


 ある日、彼女は気がついた。


「本が、減っている」


 ◆


 本が消えることはあった。常に消えていた。だが、今まではそれを圧倒的に上回る勢いで本が増えていたのだ。減るより先に増えていたからこそこの図書館は無限だった。


 彼女は、再び走った。



 人がいた。たくさんの人が。

 そんなことは初めてだった。

 各々に本を持ちかえっている。数え切れないほどの人が数え切れない数の本を持って去っていく。

 だから本は減っていたのだ。


 四足で進む赤ん坊が薄い絵本を。

 女性が鍵の付いた本を。

 杖持つ老人は厚い本を。

 皆が皆が持っていく。


 ひっきりなしの人の波は延々続くように延々続いて――

 終わった。



 ◆



 毛皮を纏った、枝のような人間が一人歩いて本を取る。

 目につく限り、それは最後の一冊。

 あんなに広かった無限の図書館は今やどこへ。

 無限にあると思われた本の、最後の一冊。

 それをもって、最後の人は最後の一冊を持って去っていく。

 じいと見つめる彼女には目もくれず、大切そうに本を抱えて消えていく。


 空っぽの図書館に、彼女は一人残された。



 空っぽ。


 空っぽ。


 からっぽ。


 ◇


 とてもさびしかった。

 あんなにあったのに、騒がしいくらいだったのに。他のものが欲しいと思っていた位だったのに。


 本が無いここは寂しい。


 さびしい。


 さびしい



 自然と、ぽとりと浮かんで落ちた。

 ぽとりぽとりと落ちていく。

 枯れ木の首が、それを追って音を出す。

 彼女は本以外の物が生まれるところを初めて見た。

 ぽとりぽとりとぽたぽたた。流れは止まない。


 そして彼女は気がついた。

 本以外の物だってここにはあったことに。

 ここに何があることに。生み出せる誰かがいることに。


 枝、糸、布、目――そこにはあった。


 彼女は髪を抜いた。並べる。しかしそれでは運べない。

 彼女は布を脱いだ。そこに、体を折って手に入れた枝で糸を縫いつける。布に文字が縫い付けられた。

 文字が現れた感動に、彼女は夢中になって描き続けた。糸はたくさんある。布もたくさんある。枝だって折れたらまた体から抜いて作ればいい。

 夢中で、ここに並べる本を作った。


 ◆


 するり。

 頭に触れて、彼女は気がついた。

 もうない。

 布も、

 もうない。

 そのショックに力を込めすぎて、最後の枝がぽきりと折れた。


 目玉だけになってしまった彼女は、動けないままそこにいた。


 ◆




 どのくらい経ったのだろう。

 一冊の本と目玉しかない図書館。

 彼女はずっとそこにいた。


 床しか見えない。

 自分で作った本も見れない。


 見えるのは、どこまでも透き通る青いビードロでできたような床だけ。何層にもわかれた幻想的な床の下の風景を、彼女は見惚れることなく見続けた。

 とある拍子に彼女はごろりと転がった。視界がわずかに動いて、彼女はそれに気がついた。



 少し離れた場所に、小さな小さな生き物。砂粒よりも小さく、きっと虹よりは此処にいた。

 その小さな生き物は床を必死に這っている。こうして床に転がっていなければきっと見つけられなかった。

 どれが目でどれが口でどれが足かわからない、一つで出来た生き物。


 その生き物はせっせと動いて、そこに落ちていたしずくを一つ掬って還って行った。



 一周したのか。

 すとんと腑に落ちる。そう、図書館の外の世界は既に、既に。




 今一番頭の良い命がやってくる場所。それがこの知の図書館。

 今、地上で最も頭の良い生き物がこの図書館にやってきたのだ。この図書館に預けていたものを最期の土産に取りに来たのだ。

 それは、遺伝子よりももっともっと深い何かに刻み込まれている行為。

 最後にそれをして、命は還ることができる。



 文字を持たない彼らにとって、本は水だった。

 見逃してしまいそうなほど、小さな命。


 一冊の本しかないこの狭くなった図書館だからこそ、出会えた――


 彼女はようやく気がついた。

 絶望や、悲しみや、焦りの裏にあった輝き、


 即ち「希望」に。


 ◆



 きっとここに、これからたくさん本が並んでいくのだろう。

 また人が来るまで時間はかかる。

 でもきっとまた数え切れないくらいの本が並ぶようになる。

 本が増えて増えて増えて増えて、自分がどこにいるのかわからなくなってしまうほど、きっとここはまた広くなる。そしていつかまたこんな風に狭くなるのだ。

 それを、私たちは繰り返している。


 目が、渇いていく。


 私も出る時が来たんだ。

 焦る必要なんてどこにもなかったのに。私は何て馬鹿なことをしていたのだろう。



 無い腕で、それを取る。

 己が命をかけて綴った本を。

 迷いなんてあるわけがない。違えるはずなどない。だって「それしかない」のだから。


 まばゆい光に世界が消えていく。

 彼女にはたったひとつ、本があった。


 たったひとつ。たった一つの、それはあなただけの――



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