止まる砂浜と女神の像
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会場中の埋まる席から鳴り止まない拍手喝采とフラッシュライトの豪雨が、ステージの上で静止する私へと降り注いだ。
踊り終えてポーズを解いてもまだ、私の心では余韻のようにめらめらと炎が燃えている。
やりきったという感慨が、二十歳そこらで天才と称される私に優勝の二文字をちらつかせた。
私のダンスを後世に残すべきだ。
今はビデオカメラがある。私の股のキレまで克明に撮られた映像が、永田町の重役からいつか地球に舞い降りる宇宙人にまであまねく見られればいい。
燃焼する炎とは裏腹に、ステージからバックに戻った私の体は汗が気化して今にも凍え死にしそうだった。水分が足りないと思考する前に手はスポーツ飲料に伸ばされ、それを飲み干してからようやく腰を落ち着ける。
吐く息が熱い。喉に直接唐辛子を塗り込まれたみたいだ。体のラインが栄える服を着るために昨日から何も食べていない。吐く心配もないから思いのままにえづける。
カメラなんてどうだっていい。
私の原動力となるこの轟轟とうなる炎は、そんなことのために燃えているわけじゃない。
バックは疲弊したダンサーたちが放り込まれる場所だ。名の馳せたこの大会のバックルームには名の知れた顔が勢ぞろいしている。
世界一の頂きに立つに相応しいダイヤモンド級選手ばかりだ。
タオルを頭に被る者。自分の踊りを後悔して足を放り投げている者。雑談で気を紛らわす集団もいる。祈るように備え付けのモニターを眺めている者。踊った後も念入りにストレッチを続けているのは四年連続のチャンピオン様だ。
拳を強く握る。余力が残っていた。全力を出したはずなのに、同じ土俵に立った敵を見るとどうしてか力が沸いてくる。えづいているのに、まだ踊れるような気さえした。
スピーカーにノイズが走る。結果発表の合図だ。バックに緊張が走り、モニターに顔を向けていなかったダンサーの全員が耳を澄ました。誰かの汗が垂れ落ちる音だけが鮮明に聞こえる。
会場の特等席に鎮座していた審査員たちが、トリも含めた踊り手の全員に対して、スポーツマンシップに則った公正なジャッジを下す。
一枚の紙にまとめられた順位表が、滑舌のいい話者に手渡されるのが悠長にモニターに映し出されている。ああ、じれったい!
スピーカーから聞こえる無機質な女性の声が、上位五名を下から読み上げていく。
バックルームは悲喜交々とする。
名前が呼び上げられたたった一握りが心底から雄叫びをあげ、上位を諦めた者たちから声にならない呻きが漏れる。
『第二位の発表です。第二位は――』
この場において諦めていなかった者は二通りだ。一位はチャンプに譲っていて初めから二位を狙っていた者と、もう一つは一位を虎視眈々と狙っている、私だ。
だから、チャンピオンが二位だと決定したとき、前者は総じて崩れ落ち、後者は満月に吠える狼のように口を限界まで引き裂いて笑った。
獲れた!
『第一位の発表です。今年度、ダンス競技世界チャンピオンに選ばれましたのは』
心の中のプロミネンスが強く激しく、猛り狂ったように燃え上がる。あつい。あつい。
名のあるダンサーたちがチャンプを打ち負かした心当たりのある者にそれぞれ視線を向ける。あのチャンプを打ち負かしたのは誰だ。誰なら勝てるっていうんだ。そんな奴は一人しかいない。
優勝にも等しい羨望がこもった視線の収束先は、
『第一位は――ナコ・オリベ!』
私だった。
私だ。私が世界一位だ!
我慢しきれずにガッツポーズを取る。肘が後ろの壁にぶつかって物々しい音を出したが気にならない。
体の内側で猛る炎はプロミネンスを越えて、もう私の火を消せるのはブラックホールしかない。
本日二度目の拍手を浴びる。バックルームのダンサーたちがお祝いしてくれていた。ライバルなのに、敵への賞賛も忘れない。誇りを持つダンサーとはかくも美しい。
私は立ち上がり、丁寧にお辞儀をする。元チャンプに握手を求められたので、快く返した。
三度目の拍手に出迎えられながら、ステージに舞い戻った。
表彰台の上で私は金色のメダルを首で受け取り、ついでにマイクで宣言した。
「来年も、私は再びチャンピオンとして、この場に立ってみせます!」
強いフラッシュライトが二十歳女のマグレ優勝を揶揄しているものだとは考えもしなかった。
誇大な妄言だとは思わない。だって今のチャンピオンは私だ。私の努力は報われた。
私は無敵なんだ。
現に、その通りだった。
この後、私は世界中のダンス大会のありとあらゆる金賞を総取り。
元チャンプですら達成しえなかった五年連続の世界チャンプの称号を受け取った。
いつしか私の炎は、消えていた。
――――1
カモメが鳴いているのを始めて聞いた。本当に想像通りの声で鳴くから新鮮だった。
空を飛ぶカモメが揺れているのか、船に乗る私が揺れているのか。どっちも揺れているのかもしれなかったけど、正直そんなことどうでもよかった。
船尾にいた私に、活気ある声がかかる。
「家出少女―。暇なら船の操縦するかー」
船長が船室から出てきた。煙草を手にしているからどうやら一服するらしい。
「少女って、私もう二十六ですよ。おじさんからしたら若く見えるかもしれないですけど」
「二十六なんてまだまだ青臭いガキだ。それがどうして家出なんてなあ」
「二十六で家出なんてしませんよ。旅行って言ってください」
扇ぐように船長さんは真昼の空を見上げた。カモメが風に揺れている。向きからして行き先は私と同じ離島だろう。春だから過ごしやすい場所を探してしまうのは動物の本能らしい。
船はよく揺れた。船長さんは一服を中々に終えない。
「……船長さんが今ここにいるって、じゃあ今誰が操縦してるんですか?」
「俺もお前さんもここにいるんだからあ。誰もしてないに決まってろう。わっはっは」
「豪快に笑ってる場合ですか!」
急いで操縦室に向かう。けれどダンス一筋の私は時代に取り残され、悲しいことに機械音痴だ。携帯ですら壊すのだから、こんな大きな船を扱えるわけがなかった。
「は、ハンドル。それならわかる。回すだけだし。えっと、スクリューと連動してるんだよね。じゃあエンジンかな。回転させればいいよね。海賊もよくやってるし」
ど真ん中のハンドルを数回転させたら船が大きく傾いた。船長さんが服を焦がしながら船室に飛び込んできた。
「ばっきゃろ! 何しとんでー!」
ハンドルを私から奪った船長さんは、横柄な態度に似合わず菓子職人のような繊細な手つきで機械のボタンやレバーを弄った。
私はやることがなくなってしまい、再び船尾からカモメを見上げる。忘れていたので、携帯を海に投げ捨てた。マネージャーとかテレビ局とか教え子とか、そういう鬱陶しいもの全部を断ち切れる。
私がこれから向かう先に余計なものは持っていけない。そんな精神的な余裕はない。
「割れた風船のゴムは魚が食べて喉を詰まらせる。今度からは山にでも埋めろ」
ばっちり船長さんに見られていた。また一服ふかしている辺り、転覆の危機は去ったみたい。
「……山に衣服を埋めたら筍の芽が出ないからやめろってどやされました」
「ゴミはゴミ捨て場ってことだ家出少女。かっかっか。ほら、着いたぞ」
船頭から見える島が停止するエンジン音と反比例して大きくなる。建物と森が交差するそれなりに大きい島の外縁は黄色い砂が覆っている。
離島の名前は『短辿島』。旅行会社の人に「砂浜がある離島に行きたいスキューバはしないし魚が見たいわけじゃない。砂浜だけ頂戴」と言ったら勧められた島だった。驚くことに学校が一つしかなく、観光事業もないらしい。そんなので島民は生きていけるのか不思議だったが、私が気を揉むようなことではない。永住するわけじゃないのだから。
私が来たのは私の踊りのためだ。もしくは――。
船が浜辺の近くで停止する。
「桟橋は?」
まるでここで降りろとでも言わんばかりに船長さんが私を見下ろしていた。しかしここはまだ海の上だ。どこの陸地とも繋がっていない。
「船底が砂利に当たっちまう。こんくらいの距離は歩いていけえ」
「いやいや。膝くらいありますよ、水位。あんたは囚人を海に投げる看守か」
「パンツは濡れねえから安心しろ。ほんら、早く行って養生してこい家出少女ー」
失礼な上に鈍った語調で私を呼び続けた船長さんとは海上でお別れし、私はズボンの半分を濡らしながら陸地に上がった。言うまでもなくびしょ濡れになった。スニーカーに砂利が入り込んで靴下の網目を埋めるみたいに砂が押し入ってくる。
こんなことで足を怪我したら笑い話にもならない。靴も靴下も脱ぎ捨てて、持ってきたバッグからタオルと靴下とダンス用のシューズを取り出す。
靴紐を結んでから立ち上がる。砂浜は地盤がしっかりしているらしく、立つには不便がなかった。流石プロの旅行会社。私の望むものをきっちり提供してくれた。
見渡せば砂浜が続く。野球は無理でも、サッカーのPKならできるスペース。私が踊るには十分過ぎる広さだ。
砂浜から島の内陸へ上がるためには、私の背丈よりも高いコンクリートの壁に立てかけてあるかのような急斜面の階段を使わなければならない。少々面倒くさいが、それくらいの不便は許容範囲内だ。許容できない問題は別にあった。
見渡した砂浜の見える部分は、白い。見えない部分はゴミが我が物顔で居座っていた。
漂流した流木や家庭用ゴミが散乱して浜辺の足場を隠している。ここは今から私の練習場だ。練習場がこんな汚かったら集中できない。それに周りの人に迷惑だ。もし誰かが踏んで怪我をすれば大会に出られないかもしれない。そうしたら私と張り合ってくれない。……ここで踊るのは私だけだから、そんな心配は必要ないか。
兎角、汚い場所で練習はできない。
こんなこともあろうかと予め用意してきた軍手を取り出してから、リュックサックを壁に立て掛ける。軍手を嵌めながら頭の中でゴミの区分分けをする。流木は焚き火にも使える。ビンや缶や粗大ゴミは全て一か所に集めてからゴミ袋に放り込もう。流石にゴミ袋は持って来ていないから、島のどこかで調達しよう。宿探しは夜やって、明日ゴミ袋を買おう。
引越しなら業者を使えるけれど、こんな離島じゃ助けは呼べない。細かいこと考えずに手を動かせ、だ。
あっちへこっちへえっちらほっちらと働いた。ズボンが直射日光で乾いた後、また私の汗が滲み始めた頃合に、釣竿持ったおっちゃんが壁の上のガードレールから私を覗き込んだ。
「あんれえ、あんたあ、見たことねえなあ。どおこの子おだい」
使い古した下着のゴムみたいな間延びした声に、持っていた扇子かかりんとうかわからない何かを落としそうになった。おそらく島民のお方だろう。
「しばらくお世話になります織部茄子です。浜辺を使わせて頂きたいのですが、役所はどこでしょうか」
「役所? ああ、堺さんなら島の反対だあ。よしよし、どんせえ今日集まるかんらあおいらが言っとこう。この浜使いたいんかあ?」
頷く。下を向いたら持ってるゴミの腐臭を嗅いでしまった。即席の集積場に投げ入れる。
「ついでにゴミ捨て場も教えていただけますか?」
「ここだあ」
おっちゃんは私が立つ浜を指差した。・・・・・・まあ、見ないようにしてたけど冷蔵庫とかあるしな。こんなもの流れないわな普通。
「ゴミはゴミ箱に!」
「はいらね」
ゴミ問題は深刻だ。内陸と砂浜の境となるコンクリートの壁にガードレールを立てたのは、ゴミ捨て場を仕切るためなのかもしれない。先人は偉大だ。皮肉だけど。
「では役所の方にはゴミ問題の解決もお早めにと伝えてください」
「あんいよ。ああ、宿はあんのかあ。なかったらこの先に尾瀬つう民宿があっからあ、そこに頼めばいんい。どうせ空いてっからさあ」
ガニ股でおっちゃんは歩き去っていった。
何事もなく過ぎたことに私は安堵した。私の名前を教えることで何かしらの反応があるか賭けてみたのだが、見事に触れなかった。私が世界的に有名なダンサーであることなど微塵も知らないに違いない。
おっちゃんを見送ってから、私はひたすらにゴミの掃除を続けた。流木は片っ端から火にくべて、家庭用ゴミは一箇所に集め、ときにアダルト雑誌を紐でくくった。
流れた汗を袖で拭い去る。袖はさっきまでと比べるまでもない程に、汗で真っ黒になっていた。ダンス以外で汗を掻いたのなんていつぶりだろうか。ダンス教室を観覧してた親に告白されて冷や汗を掻いたの以来だ。私を見てないで自分の子どもの踊りの機微を見とけって話だ。
「ん? なんだこれ。……像?」
ゴミの山を嵩張らせていた元凶を発見した。横たわる女性の銅像は所々が磨きぬかれたように輝いていた。よく見たら一緒に流れ着いた食べ物の油でぎとぎとになっているだけだった。小学生の背丈ぐらいはありそうな台座にはネームプレートが埋め込まれていて、『女神』とだけ書かれていた。
「美大生の卒業制作かな。にしても、ポーズが気持ち悪いなあ。こんな姿勢を人体が取れるわけないし、とっても美しくないだろうに。男の妄想は怖いね」
銅像の女性は涅槃図を縦にしたみたいな奇妙なポースだった。こんな姿勢で立つためにはつま先をセメントにして体に針金を通さない限り無理だ。
でももしかしたら、このポースで演技を終えたら新天地を見つけられるかも。
私は横たわるその銅像の腰に紐をくくりつける。滑車に見立てたガードレールに紐を通して、井戸からバケツを汲むような要領で女性の銅像を砂浜に屹立させた。
とんでもなく重かった。中に金でも隠されてるんじゃないか。だからゴミの下に隠してあったのかも。
金には興味ないので立たせた対面の女性のポーズを真似る。トウで立った状態を維持しながら空気の壁にしなだれかけるように重心を動かす。砂利が擦れ合う音がして、私はすっ転んだ。
私の炎は消えていた。
それが消えたのが具体的にいつだったのかは判然としない。ただ、五年連続で世界チャンピオンという称号を受け取ったときに気付いた。惰性で受け取った五度目の金メダルに写った私の顔は、真っ白いだけの能面のような顔をしていた。
輝いていない。
輝いていないのは自分なのか、それともダンスという私が入れ込んできたそのものに対してなのかはわからなかったけれど、私のノンストップに駆け抜けてきた足を止めるには十分過ぎる鎖だった。
大会を終えて日本に帰ってから、私は失った熱量を探さなければならないと自分を急かした。探すものがどこにあるのか、何を探そうとしているのかわからないまま、私は踊りに日々を費やした。
どこぞのインタビュアーの質問に答え、宣伝効果を企んだマネージャー陣が私にダンス教室を開かせ、まるで独裁政権を持つ王様みたいに報じられた。私がダンスで就職が決まる時代だとホラ吹けば、世界の仕組みそのものが変わってしまうんじゃないかと真剣に悩んだ。
そんな些事に鬱憤も溜まっていた。
私はそんなことがしたくてダンスをやっていたわけではない。
子供にダンスを教えたいならインストラクターになるし、世界を変えたいなら政治家かテロリストにでも就職する。
私はそれら全てを投げ捨てて、山に行ってみた。奥羽の山脈にヒッチハイクで向かい、道中の「あの、ダンスの、有名な、ほら、なんだっけ」とボケていた運転手のたわ言も繰り抜けて、雑木林にテントを張った。
三日もしない内に、携帯の電波や誰かの視線が私の居場所を露見させた。「有名ダンサー自殺未遂」と新聞のトップに載った。ちゃんちゃらおかしかったけれど、動揺した周りは盲目となって記事を信じた。
その間、私は冷静に考えを働かせた。何が失敗だったのか。
今度は海に逃げてみようと思って、またもやヒッチハイクで離島に向かってみた。
私のことを誰も知らない場所で、私だけが私を知っている場所で、私と向き合うための場所を用意した。
何を求めているのか、知るために。
暴力的な音量に意識が戻ってくる。いつの間にか空は夕焼け色で、海の向こうからは群青色した絨毯がじょじょに侵食していた。時間を忘れて練習をしていた。いつものことだ。
音の正体は島の電柱に取り付けられた有線スピーカーが流す曲だった。夕暮れの合図だろう。子どもは早く家に帰りましょうねみたいな。東京じゃもう聞かない。今どきの子どもならこの時間から塾に通い始めたりするのだろう、子持ちじゃない私は詳しい事情なんて知らないけど。
銅像の女性の姿勢を会得することはついぞできなかった。というより、砂というのは予想していたよりも足場が不安定だった。一つの足場を固定させるのは難しくなかった。だが、二歩目三歩目と動かしてみると、砂を蹴飛ばしてしまってそのまま私の足が滑る。力を弱めればいいのかと何度も試してみたが、それだけではどうにもならない感触ばかりが残った。
この感触は、楽しい。
リュックとガードレールに干していた靴下やらを持って、お昼におっちゃんが言っていた尾瀬という民宿に泊まることに決めた。
砂浜から内陸へ上がる階段の幅は小さかった。踵が飛び出してしまうから上手く踏ん張れない。重い荷物とかどうやって運ぶんだろうか。
ガードレールを辿って島の内陸を進んだ。群青が島の上空を編み上げたころ、ようやく民宿が見つかった。気前のいい女将さんに一室を貸してもらい、夜に押しかけたにも関わらず簡単なおにぎりまで御馳走になった。
……簡単でないおにぎりというのを私は見たことがないけれど。そんなのあるのかな。
私が掃除した砂浜から民宿まで通った道に街灯はなかった。当分の自室から見た島は海に浮かぶ黒いブイみたいで、星明りを反射させる海だけがよく見えた。足元も覚束ない暗闇を歩いたら怪我の元だ。明日もあの曲を目安に予定を立てよう。
まず早朝に起きて、ランニングがてらに島を探索して、午前中は終わっていない浜辺の掃除をしよう。午後は練習に当てて……夜はどうしようか。私は幸福な環境で練習してきた。レッスンルームにはライトがあったし、深夜に踊っても誰に文句も言われない場所を使っていた。そうだな……夜は騒がしくないように筋肉トレーニングをしよう。不便な場所なんだからそれくらいで我慢しないと。
私の練習計画は万全だった。
一日のタイムスケジュールを前日に立て、翌日に実行する。
成功したら忘れないようにノートに書きとめ、失敗すれば反省点を見出すために頭を使う。
毎日は積み重ね。
けれど練習計画には空白があった。
たった一つの不備を埋めることができなかった。
いつまでを決めることができなかった。
終わる見通しが立てられなかったから。
――――2
離島に来てから半年も経った日のことだった。
私がこの離島に来てから一切の連絡を取らずにいたお陰か、私は誰に見つかることもなく、自分探しの鬼ごっこと社会からのかくれんぼを継続させていた。
……前者に関して言えば成功はしていなかった。
未だに、私の炎が消えた理由は思い当たらない。
消去法で選択肢は絞られていった。先ず向上心が消えたわけではない。次にダンスが嫌いになった訳でもない。そして踊りが下手になった訳でもない。
浜辺にはたった一人の観客が私を眺めている。島に着いた初日にゴミの中から起き上がらせた不動の銅像は、勝手に砂浜に場所取りした私の練習場所の目印だ。何も喋らない彼女だけれど、私の踊りを不満だと感じている様子は窺えない。当たり前だけど。
銅像が喋りだしたら私はすぐさま本土の病院へ向かう。
「あんれえまあ、お前さんけえ、砂浜の子おて」
公道脇のガードレールから年配の夫婦が私を見下ろしていた。見覚えがないということは宿の人でもスーパーの人でもないということだ。「砂浜の子」というのは私のことだろう。毎日踊る私を誰かが噂したのかもしれなかった。
ターンをした際に振り返った私を見て、ニコニコとしていた婦人の相貌が崩れた。
「あ! あなた! テレビでニュースされてる! 天才ダンサーの子じゃないのお!」
足元が揺らぐ。砂につま先を滑らせそうになったが、寸前で浮かせていた軸足を地に下ろせた。
「いえいえ。違いますよ。私の名前は矢部加奈子です」
入島してから作った偽名だ。宿の名簿には半年間偽名が載り続けている。ああいうのって誰か調べたりしないんかね。おじいさんが動く役所として機能しているぐらいだから誰も気にしないのか。
その婦人は「テレビで言ってたわ! 顔だって似てるわ!」と何度も連呼した。どうテレビで私は報じられているのだろう。婦人の慌て方を見ていると、まるで自分が指名手配犯なのではと危ぶんでしまう。
「織部さんよね? ダンスだって洒落てたわ。おじいさんも、そう思うでしょ」
ぼんやりとしていた隣のおじいさんは肩を揺すられ、「そおうだなあ。そうかもなあ」と見るからに面倒くさそうに婦人をあしらっていた。
この分だったらあまり騒ぎにもならなそうだと確信して、焦っていた心を深呼吸で落ち着けてから婦人を諭した。
「ご婦人。私は何度も言うようですが矢部です。冬の月から島に居座らせていただいておりますが、決してかの世界チャンピオンとは違います。顔が似ているとはよく言われました。なまじダンスの世界に私も身を投じているものですから、かの有名美人ダンサーを知らないわけではありません。ですが、完全な別人です。縁もゆかりもございません。どうかお騒ぎになさらぬようお願いします」
私の言ったことがどれほど彼女を納得させたかはわからないが、私の意思は伝わったようで、
「ええ、わかったわ。頑張ってね、家出少女さん」
と言っておじいさんと手を握り合って散歩の続きを始めた。
「……家出じゃないんだけどな。というより、情報源は誰だ」
溜め息をついた。思いのほか深い溜め息が自分から出て、それに驚いた。
考え事を振り切ろうと、私はダンスをする。
それは悪い癖で、いつも悪循環に陥る。考え事を消すために踊って無心になろうとしても、脳だけが体から切り離れて考え事をしてしまう。
あのご婦人はテレビで何を観たんだろう。私を見たと叫んで、でも通報はしなかった。おそらく犯罪に巻き込まれた訳ではないのだろう。加害者としても被害者としても。では特集だろうか。テレビの特集なら有り得なくはない。でも私は半年も本島を空けているし、テレビクルーが嫌いで最後に取材を受けさせられたのは一年ぐらい前だったような……。まさか一年も取材した素材を寝かせておくことはないだろうけど……。あ! そうか。離島だからテレビの放送もそれだけ遅くなるんだ。東京の離島ならいざ知らず、こんな九州からどれだけ南下したかわからないような場所なら放送局もない。島民も少ないから一年前の放送が流れていても不思議ではない……と言ったら嘘だけど、でも、なんとなく納得はできるかも。てことは宿の人たちもこれから気付くかもしれない。あの婦人をもっと言い含めておけばよかったな。
足を止める。少しだけ疲れた。なんだかいつもよりカロリー消費が激しい。少しだけ横になろうかな。ここから宿までの距離を考えたら、持ってきた鞄を枕にして昼寝のスペースを確保したほうがエネルギー効率がいいかな。
私は砂浜に鞄を横向きにして、海を見ながら瞼を閉じた。地平線と太陽の距離は子どものヒールぐらいだった。
昼寝っていうか、もう夕方なんだけど。
薄く開けた口に潮風が入ってきたのを感じる。舌がざらついた感触を捉える。
スピーカーから流れる子守歌が私の意識を拡散させた。
☆☆☆
大きく息を吸いましょう。そうです、私。もっと吸いましょう。大きく、大きく、カバみたいに。
「そんなの女神にだってできませんよ」
セルフツッコミで溜めた息を吐いて、今度はストレッチ。見よう見まねですが、半年も見ていれば、どこを重点的に責め抜くための動きなのかがわかります。それはお手本がそれだけ達者だということなのですが。
「あれら? あれらあれら。どうして砂浜に……寝てしまったのでしょうか」
私の足元にはお手本としている彼女が。名前は……まあ、どうでもいいことですね。なんだか砂浜でいつも踊っている方です。
私は彼女の前に座って、小さく拝みます。
「いつも参考にさせてもらっています。ありがとうございます。女神の感謝ですよ。私に力なんてないですが、恩恵があるといいですね。いえ、女神からの恩恵はないので、もう運頼みなんですが。あ、でもでも、もっと足跡がくっきり残る靴を履いてきてくれたら守護霊になってあげてもいいですよ。成り方、私知らないんですけど」
一人でくつくつと笑った私の声も彼女には聞こえない。
彼女の心臓は現在止まっている。
「さて、それではここからは私の特訓の時間です」
砂浜には無数の足跡がある。一日に何万回と足踏みをする踊り子の足跡。けれど日中の練習を見ていた私は知っています。踊り子さんは練習の最後に通しで一曲踊ります。そしてその前には必ず砂浜を均します。だから最期の踊りの足跡だけが砂浜には残っています。順番は適当ですが、まあ完璧にやる必要もないでしょう。この世界に観客はいないんですから。
そこまで考えて、私はふと振り返りました。そうでした。今日だけは、先生たる踊り子さんが観客さんでした。
「こうですかね。ドレスではなく只のワンピースですみませんねえ」
ワンピースの中腹をつまんだ私はお辞儀して、踊り子さんの足跡を辿り始めました。
「たらっ、たーたらっ、たらららりらっ」
私が動けるこの世界に時間はないから音楽はセルフです。悲しい。私も踊り子さんがかけているようなトランペットぱーぱらりらな曲で踊りたいですねえ。
「ふんっ、ふふふん。ぱー――げほっげほっ。あー、高音きつい」
私はただの女神ですから。私が人魚だったら足も声も欲しいとねだってリンゴを持った魔女さんに蛙にされてしまいそう。……なんか色々混じってる?
私は何度も踊り続けました。やがて足が石のように(笑うところですよ)なって、汗も水揚げされたばかりのイルカみたいに噴出してきたので、止めることにしました。
それでも気分がよかったので、私は最期のステップを何度も練習し続けました。
挑戦はいいことです。
何度もやったらコツを掴んで、足の運びが自然になった気がします。
「如何ですか、せん――」
「……」
私の心臓が止まる音がしました。
☆☆☆
眼を開けたとき、眩いほどの光が視界に入ってきた。それらは輝かしいけれどスポットライトほどの光量ではないみたいで、優しく視界に収まった。
けれどそんな枠組みの物体よりも印象に残る女性が、舞っていた。
そう、それは舞だった。踊りだ。ダンスだ。
踊る彼女が振り返って私と視線がかち合う。
どこかで轟々と燃える音がした。煙が眼に入ったときのような痛さが胸を襲って、私は一瞬瞼を閉じた。
次に目を開いた時に、一瞬前の世界はなくなっていた。
夜の海からさざ波が聞こえる。さっきまでは聞こえなかったものだ。不自然なまでに無音だったような気もする。
「……夢? いや、違う。あれは絶対に本物だ」
妄想の延長だと言い切るのが正しい形容な気もする。でも違う。現実だと言い切れる。
私は自分の胸に手を当てた。鏡はないが、おそらく今の私は恐ろしく歪んだ表情をしている。
久しくこんな感情は抱いたことがなかった。久しぶりすぎて、簡単なことがわからない。
これはなんだろう。
私の炎を再び燃やした、この感情はなんだろう。
荒くなった鼻息を整えてから海を見た。凪いだ海が荒れて砂浜の足跡を消していく。そこには私の足跡しかなかったはずだ。空も真っ暗で、数えるほどの星と月しか見えない。私は手を握り締める。
「見つけた。私が探していたもの。あの人が持ってる」
瞬きする間際に見えた白い服の彼女を夢想する。残っているイメージは鮮明とは言えなかった。それに不思議なことだらけだ。幽霊だとばっさりしてくれて、私にとり憑いてくれたらいいのに。
「幽霊さん幽霊さん。いえ……踊りの女神様。どうか私の前にもう一度、姿を現してください」
幽霊は夜しか現れない。それは古今東西同じだろう。きっと女神様もそうなんだ。人が寝ている間に人に施しを与える。サンタクロースも女神みたいだと思ったけれど、サンタは男だった。もしもサンタクロースが実は女性で、男装しながら子ども達の部屋を回っているのだとしたら――うん、止めよう。
燎原の火は点火された。
これからの予定を立て直そう。
彼女に会うのが主目的となった。夜型の生活リズムにしよう。半日分、起きている時間をずらせば、夜に砂浜で練習をしながら彼女を待つことが出来る。踊るには暗すぎるから懐中電灯か何かを用意しないといけない。スーパーで売っているか明日、確認しよう。
浜辺でぐっすり寝ていたのに、つっかえていた糸が解れたおかげか、いつもは聞こえる虫の鳴き声も気にならずにその日の私は眠りについた。
私の体内時計は意図的に狂った。
太陽が地平線から見えたら羊を数えて、太陽が沈んでからむっくりした顔を洗った。この生活にしてみたところ、恩恵はない。当初の目的を未だ達成できていないこともあるが、それ以前に実生活が不便すぎる。
宿泊する宿の玄関の引き戸はガラガラと音を立てるため、早朝に宿へ戻ると家の人が起きてしまう。ご飯の時間も合わないせいで、練習の合間のカロリー摂取が多くなった。まさか太るほど自分の健康管理を怠ることはないが、昼夜逆転したことで今まで以上に曜日や時間の感覚が私の中から消えていった。
けれど私はその感覚を心地よく感じていた。
あの日以来、寝ぼけ眼で見た世界を想起しては補間せずに描写している。
青白い夜空に浮かぶ星々。クレヨンで描いた三日月。そして音のしない波。
そのときはそう感じたが、後になって思う。波の音は聞こえなかったのではなく、存在しなかったんじゃないかと。
海を見てから心の中で一秒唱えて眼を閉じる。また一秒唱えて眼を開く。
私は砂浜で何度も実験してみたが、海は機械仕掛けのように動作を繰り返し、耳には波が砂を浚う音もしっかり届いていた。
やはり止まったと感じることはなかった。世界中から風がなくなっても、月の引力で満ち引きが起きるのだ。やはりあの一瞬だけ、海も世界も、止まっていたんじゃないかと思う。
突拍子もない話だと、誰かに聞かせれば笑うだろう。じゃあどうしてお前は動いていたんだって反論は目に見えている。笑われたっていい。どうしたって証明できないが、それでも私は信じている。
踊りの女神様としか形容できないあの女性。
砂時計が止まった世界で見えたあの女性が、今の私の全てで、それ以外は全てが塵芥以下の代物だった。
宿の人には迷惑をかける。砂浜には懐中電灯を何本も刺している。島の人にはいつか謝ろう。
今立ち止まったら私は機能不全のゴミ以下の存在になってしまう確信があった。
私は探し続けた離島での旅に、目標を見つけられた。
そうしてまた月日が幾許もターンを――する前に、その日は訪れた。
その日は、死人が出るほど大きな台風が島を襲った。
――――4
朝、夜干ししていた布団を部屋に敷き直していると、宿の女将さんが部屋に膝を折って入ってきた。
「あ、おはようございます。起こしてしまいましたか?」
「そんれは問題ありません。存分に踊りの稽古をなさってくださいませ。矢部様が寝入ってしまう前にお伝えせえなければならないことがあります」
改まった装いをするもんだから身構えてしまう。女将は女将という職業の中で身につけたのか、私の機微を見破ったうえで相手を安心させるような笑みを浮かべた。
「よくあることなんですけえどね。この時期には毎年、台風が島を通りまして。その台風というのが飛ぶ鳥叩き落としまして、雨もつようくなります。布団なんて干していたあらあらかた綿が飛び出てしまいます」
「あらあらかた」
なんだか楽しくなる語感だ。私、眠いです。
「台風は夜には過ぎるはずです。今夜砂浜へ出かけるのでしたら天候を確認してからお出かけください。それではおやすみなさいませ」
頭を下げてから女将さんは出て行ったので、私はもう立っていることもできず、日差し避けのカーテンを閉めずに足を放り投げて休眠した。
夜、なんだか雲行きが悪かった。そういえば女将さんが寝る前に何か言っていた気がしたけれどよく覚えていなかった。
砂浜に着くと、心地いい涼風が吹いていた。業務用の冷房の強風みたいで、壊れた空調機が立てるがたつくような波音がラジカセの音を遮るのも、なんだか懐かしい。
ダンス教室ももうどのくらい行っていないのだっけ。あそこの設備はよかった。願わくば、私一人で占有したかったけれど仕方がない。今の私のフィールドはここだ。
「今日も見守ってね」
今日も今日とて浜辺にいらっしゃる女性客に一礼。欠かさないルーチンをこなしてから、手首を解した。
屈伸に背伸びをしていると、寄せた波が足音に被さった。
眼を凝らすと、遠くでは雨が降っているようにも見えた。懐中電灯の光量では暗くて遠くの天気を推し量ることは出来なかった。
ラジカセのラジオ機能が使えるなら天気予報が聞けたが、もしかしたらジーピーエスなるもので場所を特定されるのではと思ってアンテナは折ってある。
アンテナが根元から折れてラジオ部分は不能なラジカセで曲をかける。雨が降ったら宿に帰ればいい。今日も練習だ。
スロースタートでスロウテンポな一曲が流れ終わった頃には、雨音がすぐ傍まで迫っていた。
空から数百本のホースが垂らされて砂浜を襲う。
しまう前にラジカセが押し寄せた波に浚われてしまった。既に海の藻屑だろう。
雨は重力の力を借りてまで私をいたぶっていた。背を打つ一粒が玉のように重い。
「はぁ……はぁ。出口はどこ?」
どこにもない。
島へ昇るための階段がない。懐中電灯も回転灯となって流された。
手元にあるものが何もかも浚われて、波が引いた後の砂浜にはゴミと昆布しかなかった。
足元に纏わりつくべったりとした何かを剥がして海に放り投げる。
「女将さん。夜半には過ぎるとか言ってたくせに! 言ってたくせに!」
台風だ。しかも絶賛直撃中じゃないか!
風がまるで楽器を乱暴に壊しているような荒っぽさで濡れた砂をめくる。
宿を出る前に誰か止めてくれればよかったのに。まさか女将さんもこんなときに普通の人が外に出るとは思わなかったのだろう。そりゃそうだ、いくら私だってこんな天気に外を出歩く人を見かけたら消防を呼ぶ。
自殺でもしたいのでなければ、こんなときに海辺を歩くの馬鹿だけだ。
そして私は、ダンスに人生を捧げた踊る馬鹿だった。
鯨が反転したような衝撃波が私の上半身にタックルする。体にぶつかるまで波だと気づかなかった。
なす術もなく、私の体は後ろへと押し流されてコンクリートに激突した。頭をぶつけなかっただけ幸運だが、背中が尋常ではなく痛い。えづくと、口のなかが海のしょっぱさと胃液の酸っぱさで充満した。
その臭いが頭に諦めをよぎらせる。
波が引くと、今度はほっぺに張り付いた砂が虫のように這いながら落ちていく。早く逃げ出したい。足が震えている。
手を上に伸ばす。伸ばした先で触れたのは硬質な石。きっと島側のコンクリートだ。
次の波が来ないうちに逃げないと。私が海に漂うゴミの一つになってしまう。掌がコンクリートの端に触れた。
「階段だ!」
コンクリートに続きがないから階段だ!
そう思って階段を昇ろうと手をついてみたが、すとんと砂浜に落ちてしまった。何度も、何度も触った。しかし階段のようなものはどこにもなかった。
コンクリートを触りなおす。端っこは終わりではなく、直角に曲がった方向へ同じコンクリートが続いている。
海水は荒れ狂って柱を作り、飛沫も強まってきたが、私は立ち上がった。コンクリートに手を添えたまま立ち上がる。胸の辺りでコンクリートは終わりを迎え、その大きさに私は直感した。
「……銅像だ……流れ、ちゃったんだね」
砂浜にあるのは銅像の土台だけだった。女性の像があるべき場所には何もなかった。手が空を切ったときの虚しさをなんといえばいいのだろう。斬首台を待つ気分、とでも言えばいいのか。笑って海水を飲んだ肺が挙動する。が、喉が絞まって変な声しか漏れない。
冷たい海水がまた腰まで襲ってくる。咄嗟に銅像の土台にしがみつく。銅像は何かに引っかかっているのか、人なんて簡単に飲み込んでしまう自然の脅威にびくりともしない。
「死にたくない。死にたくない。私は、こんな――こんな中途半端な気持ちのまま、死にたくなんかない!」
海に吠えた。けれど私の意思なんて関係なく、波はまた暴力的な威力で腰までやってくる。皮膚に同化していたウェアが引き裂ける音を立てた。
「私の炎はどこなの。あの日からダンスが楽しくなかった。いくらやったって楽しくないの」
波が引く。
生じた風は見えない手が私を海へ連れ込むようだった。本能で、私はわかってしまった。
次の波で、私は死ぬ。
「探しているものを見つけることも出来ず、裏切られたまま死ぬなんて嫌!」
引いた波の分だけ、大きな波がやってくる。次は腰だけではないかもしれない。銅像に体を預けても無駄だ。一緒に流されるだけだ。でも、もう動けない……。
「楽しかっただけなのに! ただ、踊っていたかっただけなのに!」
口ではなんとだって叫ぼう。
「違うってわかってる!」
それが嘘だとわかっているから。
「楽しいだけじゃなかった。辛いこと一杯あった。それでもやりたかった。なんでかわからないけれど、私は踊って大会に出て、快感してた!」
波の影で夜空に浮かぶ月が翳った。呆然とする口を閉じて、銅像に腕を回した。
「何かがおかしくなったんだ。何がおかしくなったのか、教えてよ!」
懇願なんて無為に。
爆発した海水は嵐に身を任せて、砂浜一面を飲み込んだ。
――はずだった。
なにも聞こえない、静謐が満ちる世界。
「こんなことをすると怒られてしまうのですが、今回限りは特例としましょう。人命第一。縋る者に手を差し伸べるのも女神の役目ですから」
けたたましく交錯していた津波は止まる砂時計のように。
熱量を持った女性の声だけが生きる私の耳に届いた。
「それに、あなたにはお手本となって頂いた恩もあることですから」
「……たんだ、本当に。やっと、見つけた……」
眼を開けると、私は絵画の中にいた。
鳴りをひそめた海は、波が嘘であったかのように消えさって透明な氷の如く砂浜の上に張られ、空は快晴の夜でさえ拝めない満天の星が月を差し置いて輝き、地平線まで続く平坦な海の上に白い服の女性はいる。
待ち望んでいた彼女は、群青色まで光度を高めた星空の下で、波紋も立てずにステップを踏んでいた。
「それでは人間さん。ここまで明るければ階段も見つかるでしょう。あなたはそこから高台にまで避難してください。そのための防波堤。防波堤代わりのコンクリート、ですから」
生きてるとか死んでるとか、私がどうなっていようがもうどうでもよかった。
結局、私はダンス馬鹿だ。求めるものは、一つしかなかった。
水の上を歩く。足の裏に感覚が伝わってこない。きっと空の上を歩いているとこんな気分なのだろう、と思った。そのまま私の恩人の手を握る。
「お願いします。もう一度だけ、私に踊りを見せてください」
「え? ……いやぁ、あんな粗相なもの見せられないと言うか」
「確かに不躾な私にあんな高尚なものを見せるだなんて、我侭だとはわかっています」
女神様は笑った。ほがらかさというものがそこにはあった。
「いやあ、私としては一緒に踊りたいというか……いっか。折角の観覧客です」
女神様は、私が祈った前で、ゆっくりと手を挙げた。まるで宣誓するような体制から、恭しくお辞儀を発する。
音は、なかった。
彼女の踊りに音はなかった。
私が見たことのないものだった。
動かない星空も海も全てが背景へと遠ざかる中で、彼女だけが生だった。
私の心に炎が点される。心象風景の野に山を燃えつくす勢いで業火へと変貌していく。
私の目は目敏く彼女の不出来な点を見つける。
そして同時に、負けられないと思うほど、彼女はダンスを享受して幸福へと還元していた。
負けられない。
口の中で何度も同じ言葉を噛みしめながら反芻した。言葉にするたび、胸の炎の揺らめきが強くなるのを感じる。
……そうか。これだったんだ。
胸の中でストンと落ちる。
「私が忘れていたのは、挑戦する気持ちだ」
いつしか、私はチャレンジャーではなくチャンピオンの側にいた。誰かを追うのではなく、追われる側となっていた。
そうじゃないんだ。私がやりたかったことは、ギラギラとした熱と手を組んで、私より上手い人を追い上げていくことだったんだ。
踊る女神の輝きは、宝石がまぶされていた。
青白い夜空から注がれたライトが彼女の周りを飛び交う宝石に反射する。それが一層、ダンスをこよなく愛した彼女の魅力を増す。
敵わない。
目が、惹きつけられるのだ。どうしても、目を背けることのできない愛しさとかけがえのなさがそこにあった。
負けたくない。
少しだけマシなステップを踏み終えて、余韻を十分に与えてから彼女はフィナーレの礼をした。
「どうでしたか? ああ、やっぱり踊りはいいですね。心がこう、手の先から飛び出しそうになります。ではでは、今度は一緒に」
「いえ、今日は帰ります」
「……へ?」
女神様とはどうやら俗物的らしく、子供みたいな素っ頓狂な声をだしていた。
けれど、今の私では彼女には勝てない。練習して、彼女を完膚なきまでにぶっ潰せるまで私は練習しないと。
楽しくなってきた。
「助けていただきありがとうございました。今度はお好きなものを持ってきますね。何がお望みはありますか? 財力に余裕はありますからたぶんなんでも持ってこれますが」
「うぇ……あ、はい。そうですね。じゃあ、もっと砂浜に靴跡を残してください。たまに薄い足跡とかあると練習ができないので」
「わかりました。世界中の靴職人を集めて砂浜に適した素材で作らせます。それでは」
私は止まる世界の景色と女神の姿が脳に刻まれたことを確認する。
それと、好敵手の顔を網膜に焼き付けた。
砂浜を背に階段をのぼる。
世界に音が戻ったのは一瞬だった。
豪雨が肌を打つ。波が砂浜を食べている。私がしがみついていた銅像の台座も流されて見えなくなった。
道路の向こう側から懐中電灯の明かりで照らされる。女将だった。随分と心配してくれたらしく、それはそれは青ざめた顔をしていた。
「ごめんなさい。ここは危ないですから、女将さんも早く帰りましょう。それとお願いがあるんですけど、ここから本島に電話は繋がりますか?」
台風が嘘であったかのように、翌日は快晴だった。
空のゴミを巻き込んでどこかに去ってくれたお陰で、空には雲一つない。砂浜は台風のせいでまた汚れてしまったけれど、本島から呼んだ清掃スタッフが全力でゴミのお引越し作業をしてくれている。
「もう、織部さん! どれだけ私たちが心配したと思って」
階段に腰掛ける私に、横で小言を言うのはマネージャーだ。どういうマネージャーなのかよく知らない。いつの間にか私の世話をしている。少なくとも、この人はダンスをよく知らない。
「なのに何。半年ぶりに電話してきたかと思ったら離島にいるって。しかもその離島に飛行機を飛ばせですって!」
島付近の海上にはヘリコプターが数機飛んでいる。ラジカセや懐中電灯は弁償すればいいが、アレだけは探さないといけない。
そう思いながら見ていたら、一機のヘリが上昇し始めた。海に突っ込んであったロープの先からはダイバーと――銅像の女性が引き揚げられた。
「九州じゃあ昨日北上してきた台風で死人も出てるっていうのにあなたったらもう」
「マネージャー。あの銅像を砂浜に降ろすように言って。それと、靴職人にも仕事を頼んで。この砂浜に足跡を刻み込める最良の靴を作って」
ハンカチを噛みながら無線でやり取りするマネージャー。従ったヘリが砂浜に彼女を降ろす。
その顔を見て、確信する。
「やっぱりそうだったんだ。ずっと見ててくれたんだね」
時間の止まった世界で見た女神は、銅像の彼女だった。
「ライバルに手を貸すのは好きではありませんが、昨日のお礼があります。さて、では踊りましょうか。私は、踊り続けます。あなたを再び呼び出すまで」
私は挑戦者だから。
時間はいくらあったって足りない。
ああ、楽しくなってきた。
銅像の女神様の呆れるような、毒気の抜けたため息が聞こえた気がした。
あとがきその1
三大噺
『砂』『砂時計』『輝く時の流れ』
のお題でした。
あとがきその2
いつも思うのですが、あらすじって考えるのが難しいです。興味を引くというのが苦手なのかもしれません。物書きとして絶望的なまでに致命的ですね。精進します。