7/7 織姫と彦星
差し込んだ朝の日差しが照りつける。憂の乗るその電車は、カタタンと床を鳴らし、小気味よく住宅地を走り抜ける。向こうにうず高くそびえる団地が見えた。クリーム色の壁が流れ、次々に窓の向こうに吸いこまれていく。完全にそれが流れきったところで、アナウンスがいつものように駅の名を告げる。
いつもの見なれた風景だ。あと一年でこの景色ともお別れか、そして……。憂は物想いに更けた。
「考え事をする美少女と言うのも、様になりますね」
憂はぎょっとして声の主を見る。そこには同じ制服を纏い、いつものように八重歯を覗かせて微笑む藍の姿。何か悩みでもあるんですかと憂の横に立つ。
「大分その制服にも慣れてきたみたいね」
藍のスカートをちらりと見る。膝上十五センチで纏められたその丈から伸びる張りのある太腿に、思わず息を呑む。
「これで憧れの憂さんに一歩近づけましたね」
ふふんと鼻を鳴らす藍。憧れだなんてと謙遜する憂。
「それで、何を悩んでいたんですか?まさか恋とか」
違うよと否定するが、藍はそうですかと流し続けた。
「前から気になっていたんですが、お兄ちゃんのどこが良いんですか? 」
それは憂にとって予想外の質問であった。
「えっ?い、いきなり何を言い出すのよ、藍ちゃん」
しどろもどろに返す。
「いや、最近お兄ちゃんと良く遊んでるなぁと思って。そもそも付き合ってるんですか? 」
「えっと、お付き合いは……しては無いかな……うん」
告白はしてもいないし、されてもいないはずだよなと、記憶を辿った。ふうんと舐めるように憂を見る。
「じゃあ好きなんですか?言っときますけど、あの手のもてない男は、好きでもないのに気がある素振りを見せちゃ駄目ですからね。最悪ストーカーになって警察沙汰なんてことになったら笑えないですよ。最近は急に小説を書くって張り切ってますし。何か変な事吹きこみました? 」
そう言えば、「これだけ本が好きなら、小説だって書けるんじゃないですか」と何気なく彼に言った気もするが、と憂は思い返した。
「他にも、顔を合わせれば、やれ憂さんの好きな食べ物はなんだ、やれ好きな色はなんだとか聞いてきて、気持ち悪いったら無いです」
相変わらず彼に手厳しいな、とはははと濁しつつ、そう言えば、と憂はこれまでのことを思い起こした。駅前の喫茶店のパンケーキが美味しいらしいから食べに行こうとか、彼が誕生日にくれた髪留めは私の好きな水色だったり……。
何だかんだ言いつつも、目の前のこの子は兄を陰ながら応援しているのだなと、そして彼女は私を好みをよく覚えていてくれているのだな、と独り嬉しくなり、吹き出した。
「何笑っているんですか。こっちは迷惑してるんです。この際、自覚してないようですから憂さんのためにハッキリ言いますけどね、憂さんは世間一般的に見たら、充分美少女の部類ですからね。その上、才色兼備。お兄ちゃんとは釣り合ってないです。その気が無いなら、すぐにお兄ちゃんと縁を切ってください」
美少女、の響きに再び吹き出しそうになったがぐっと堪える。目の前の正真正銘交じりっ気なしの美少女にそう言ってもらえるのは光栄だが、美少女も随分安い肩書きになったものだなと、憂は頭の片隅で思った。
「藍ちゃんはお兄さんのことが嫌いなの? 」
「別にそんなことは無いです。兄妹としての中は良好だと思いますけど」
「じゃあどうしてそんなに私と一緒にいることを嫌がるの ?」
悪戯心で、もしかして嫉妬なの?と聞きたくなったが、何とか堪えた。替わりに
「藍ちゃんはもしお付き合いするなら、顔がカッコイイのが一番の条件 ?」
と尋ねた。藍は一寸、そうですねと悩み、こう答えた。
「そんなこと無いですけど……。趣味とか気が合う方が良いかな。そりゃあやっぱりカッコイイに越したことは無いですけど」
「カッコイイって言うのは、カッコイイって言われてる人?それともカッコイイって藍ちゃん自身が思う人? 」
自分は意地悪いなと思いつつ、矢継ぎ早に藍に問う。
「……私自身です」
言いたいことが伝わったのだろうか。藍は観念したかのように答えた。「……でもなぁ」と呟くその表情は、明らかに納得はしていませんと言いたげであった。
不意に胸が痛む。藍が沈黙したため、車内アナウンスが何かを告げている事に気が付いた。ざわつく車内で聞き取れたのは、いつもの駅名と大変ご迷惑をおかけしますの二言だった。
アナウンスが終わるのと同時に、暫く考え込んでいた藍が口を開く。
「やっぱりおかしいよ。じゃあ、ハッキリ聞かせてください。お兄ちゃんのこと好きなんですか?もちろん恋愛対象として」
その瞳は真っ直ぐ憂を見つめる。憂はえっととのらりとかわす言葉を言いかけたが、藍の表情を一目見て、お茶を濁すことはできないな、と思った。
「それは……」憂がすうっと息を吸い込む。私は……。
ガァっと自動ドアが開いた。開くや否や、汗ばんだワイシャツ姿のサラリーマンや泣きそうな顔の制服姿の学生たちが雪崩れ込み、瞬く間に二人を濁流のごとく飲み込んだ。
「藍ちゃ……ん」「憂さん……」よりドア付近に立っていた藍は濁流に呑まれ、車内の奥へと連れ去られた。ドアが開いてものの数秒で、車内は身動き一つ取れないほどの超満員となった。
熱気が満ちる車内、ぎゅうぎゅうと押しつぶされながら、憂は微かにアナウンスがこう告げるのを聞いた。『高温による……の故障により、当駅より六両……を三両編成に変更して運行……ただきます。皆様には大変ご迷惑をおかけしますが……理解とご……致します』
大河の如き流れにより散りぢりになった織姫と彦星は、その日再び会う事は無かった。