ある少女-4
『広がるのは一面白い世界……では無かった。
そこにあったのは、浅黒い床と、無数の死体。ある者は一文字に上半身を断たれ、ある者は喉笛を裂かれている。こちらを向いている死体もあるが、判別できるのは舌だけ。上顎から上部は、まるで耕されたかのように原形を失い、周囲には脳髄だろうか、ピンク色の肉片が散らばっている。そのどれもが若い女性の物のようだ。
はははという笑いを聞いた。もちろん出すのは私しかいない。余りにも現実味がないこの光景を一つ一つそのまま受け入れていては、脳が耐えられないからだろうか。
ああ、やっぱり夢だなこれは、と諦めが付いた気がした。これだけの死体なのに臭いがしないし、と傍にあった、赤茶けたその塊を踏みつぶした。にちゃりとした感触や、糸を引くその柔らかさが確かにそこにあった。
その時、いやそれ以前からだったのかもしれないが、とにかくこの時、ぬちゃり、ぬちゃりという音を聞いた。例えるなら、鶏胸肉に下味を付けるようなそんな音。
少し遠い場所だ。辺りを見回す。……二十メートル程先で白い何かが動いている。最初犬の類かと思った。死肉を貪っているのだろうか、と夢現で考える。こっちに来たら嫌だなと、どこか他人事の様な気でぼんやりと眺めていた。
違和感を覚えたのは、その直後。その生き物から、ぬっと出てきたのは人の腕。それが何かを掻き集めるように動いている。人間。すぐに脳はそう認識した。反対、つまり私と同じ方角を向き屈んだ人間。裸だろうか。全身の肌が白い。それが浅黒いこの世界では、異常に浮いて見えた。
骨と皮だけの、死人のような手を広げ、指先で周囲を探っている。死体を拾っているのだろうか。見ない方が良いとは直感的には解かっていた。それでもそこから離れられなかったのは、恐怖からか、油断からか。いや好奇心だった。
それはゆっくりとした動作で、乾燥した血液や飛び散った肉を持っては、それを顔の方に持っていく。周囲に何も無くなれば、屈んだまま少し歩き、また同じことを繰り返す。後ろ姿しか見えないので何をしているかまでは解からないが、脳裏にはある不吉な想像がよぎった。
……食べている……。
刹那、本能と呼べるものが、最大音量でアラームを発した。早くあれから離れろ、と。呼吸が速くなる。口が乾燥し、吐きそうだ。が、脳がいくら緊急指令を出しても、脚はまるで鉛のように冷たく床に張り付いている。鼓動さ
えも止めてしまいたいと思った。
視界が涙でぼやけ始めた時、人影がゆっくりとこちらを向く。見てはいけない。が、目蓋を閉じる自由さえ、神経は与えてくれなかった。
髪の毛は無く、月の様に青白い頭部。その一本一本を数えられるほどに浮き出た肋骨。それでいて、紅をさしたかの様に不釣り合いな真っ赤な口。眼球は無く、本来あったであろう窪みには、先程拾ったであろう血肉が詰め込まれていた。ガラガラに掠れた声で何かを呟いている。かろうじて「がう……じゃない……がう……」とだけ聞き取れた。
見つかった? そう思ったのは一瞬、それは再び、周囲の血肉を漁り始めた。無視している、いや見えないのだろう。それでもそれは「がう……」と呟きながら、少しずつ近づいてきている。拾っては目に詰め込みながら……。
その時気が付いた。それと私を結ぶ一直線上、それの五メートル程手前に若い女性の上半身が転がっている。首が向こう、つまりそれ側を向いているためその表情までは解からないが、振り乱した長い髪や、腹から下は腸が零れ、左腕は肘の先から欠損したその死体が、凄絶な死を遂げたことは想像に容易い。
気が付くと、それは彼女のすぐ手前まで来ていた。それの脚が、彼女にぶつかる。その衝撃で彼女の首がこちらを向く。眼を見開き、口には乾燥した吐血の跡。苦悶のまま時が止まったその顔がこちらを見つめる。薄々予感はしていた。穴の中でも会ったから。それでも、どうか外れていてくれと願った。しかし、そこにあるのは無慈悲な現実。
そこに転がっていたのは、間違いなく……。
気絶はしなかった。食道が焼ける。のどが痛い。胃液を床に撒き散らす。それでも、それがこちらに気が付く素振りを見せなかったのは幸いとしか言えない。
月のように青白い指がまず飛び出た内臓に触れる。尺取り虫の様な動作で、ゆっくりゆっくり上へと向かい、胸、肩、首と這うように伸びていく。その手が頬まで達すると、まるで孫をいたわる祖母のように、慈しむような手つきで頬を撫でた。
そのアンバランスさに全身がぞわっとするが、ただただ恐怖の虜であった。呼吸も忘れ、その異様な儀式を見ることしかできなかった。やがてそれは両の手で頬を挟むと紅い紅い、ともすれば血塗りのような口が裂けんばかりに広がる。
そして確かにそれがこう囁くのを聞いた。「見つけた……。」
それは躊躇い無く、両の手をその死体の眼底に抉り込ませる。何かが弾けた。
一目散に走る。穴に飛び込み、頭を抱えて身を丸くする。震える体に爪を立て、恐怖を痛みでごまかした。肉に食い込み鮮血が溢れ出るが、震えは一向に止まらない。ただ願う。夢であってくれと。
どれくらい経ったか。生温かい風と、空調の様な音を聞いた。嫌な夢だった……。そっと目を開ける。
十センチも無いような、それこそ息がかかるような距離で、ひゅう、ひゅうと吐息を漏らし、ただ私を見つめている。黒目が奥になり、ちぎった視神経が飛び出た眼球で。
いつから、何がしたい、死、助けて、夢だ、怖い、友達になれる……様々な思考が交差した。もはや脳は正常に作動していなかっただろう。鼻水、涙、尿。体からあらゆる水分が抜けていくのが分かった。
「見つけた」
それがそう呟くと、爪の無い、骨ばった不気味な指が、ゆっくり顔の前に来る。ああ、そういうことかと頭のどこかで理解した。その指が無慈悲に啄ばむ。私の骸にそうしたように……。』