ある少女-3
『最初に感じたことは『腰の痛み』であった。それはすぐに『腰に硬い物が触れている』とわかり、更に言うならば、床が硬いということまで理解できた。呆けた頭で思い出す。
昨日は確かにベッドにいたはずだ。いつの間にか転げ落ちてしまったのだろうか。手さぐりでベッドを探す。だが右手は空を切るばかり。よほど遠くまで転がったのか、寝返りで反転してしまったのか。仕方なく左手を出動させるが、動かない。一瞬自分の左腕が無いのかと思った。それほどまでに、左の腕から指先にかけての感覚が無くなっていた。
お尻と床に板挟みにされた左手を、なんとか抜き出し、あぁと小さくため息をついた。また今日も腕時計をしたままうとうとしてしまったのか。腕には入学祝いに、と最近買ってもらったばかりの時計が輝いている。文字盤のラインストーンがとても可愛らしくて、近頃は、部屋にいるときでも着けている。
とはいえ、そのまま寝てしまうとは。自責の念を込めて頬をぴしゃりと叩く。
ちらりと見ると時計は二時四十分。そこで初めて周囲の違和感に気が付いた。明るすぎる……。こんな深夜に光源無しで腕時計の文字盤が見えるはずが無い。まさか午後の二時で、十数時間も眠ってしまっていた、などというオチもないだろう。慌てて枕元に置いたはずの携帯を探すために飛び起きた。
目に映った光景に唖然とした。時刻は? 携帯は? そんなことはどうでもいい。この白い世界の前では……。
一面の白い床。それがただただ広がっている。眼だけが今見えているものを焼き付けたため、それらは自分でも驚くほど素直に認められた。恐らく、余りの出来事に頭は思考を停止しているのだろう。
まず焼きついたのは、私のすぐ横に転がっている塊。そうとしか呼び方を知らない物だ。十センチ四方程度の立方体、そしてその上に、その半分程度の塊が積み上がっている。更に目を引いたのは、塊から伸びるように続く赤黒い筋。ペンキか何かだろうが、白い景色に非常に映え、さながらバージンロードの様相だ。バージンロードは数メートルで消えている。それ以外は何も無い真っ白な空間が広がるのみである。
ここにいても仕方がない、と覚悟を決めた。とりあえずは、あのペンキ跡だ。私はあえて塊は無視した。何となく嫌な予感がしたからだ。
恐る恐る歩き出す。
ペンキ跡らしきものはべた付くこともなく、それどころか靴でこするとガリガリと細かい粒が削れていく。完全に乾いているのだろう。跡を追いかける。途切れの前に辿り着いた時、うっ、と声が漏れた。穴だ。
先ほどの場所からでは背景に同化していて解らなかったが、今、目の前には確かに穴が見える。深さはどうだろう。私の腰……まではいかないほどだ。手前で気がついて良かった。この赤い線が無ければ、間違いなく気付かず落下していただろう。今辿ってきたバージンロードを振り返る。誰かがこの穴の存在に気付かせるために、引いてくれたのだろうか。
もしかしたら私以外にも誰かがいる?
一人ではないかもしれない。そのか細い仮説が、「人を見つける」という目標が、私をどれだけ勇気づけただろう。もう少し頑張ろう、と再び穴を見た時、中に何かがあるのを見つけた。穴の縁が陰になって全ては見えないが、靴とそこから伸びる脚だ。……誰かが穴の中で寝ている?
まさかこんなに早く目標を達成できるとは、と喜びが込み上げたのも束の間、ある違和感が待て、と私を引き止めた。あのブラウンのオックスフォードも、あのネイビーのジョーゼットスカートもどこか見覚えがある。どこかで……。
ぞわっと全身の毛が逆立った。驚くほど私の装いにそっくりなのだ。
すぐにでも逃げ出したい気持ちもあった。いや、それがほとんどであった。しかし、それでも、ここであの人に声を掛けなければ私はここで孤独に死んでいくかもしれない、というねっとりとした不安が私を踏み止まらせた。こんな偶然もあるのだ、と自分に言い聞かせ、大きく深呼吸をした。
「すみません」
自分でもはっきり分かるほど声は震えていた。……返事は無い。やはり寝ているのだろうか。先程よりも大きな声でもう一度呼びかける。……返ってきたのは沈黙。意を決して穴の中に飛び降りた。
見えたのは足、脚そして腰。腰の上部は穴の壁に密着し、そこからバージンロードが始まっている。それがどういう状態かを頭が認識したのと、つんと酸っぱい臭いが押し寄せたのはほぼ同時であった。視界がぐるりと裏に回った。
口内の異様な不快感、そして嗅ぎなれない臭気。それらが私を引き戻した。「夢……なの」と呟いたが、目の前の現状は、そうはさせまいと五感に強烈に訴えてきた。
体は吐瀉物と尿にまみれ、すぐそこには下半身が転がっているのだから。
一刻も早くここから離れたい。ここで無ければ、あの何も無い世界だって彷徨ってやる。吐瀉物を拭い、震える体を連れ、穴を飛び出した。
広がるのは一面白い世界……では無かった。』




