8/6 ロマンチスト
「あんた、最近図書館に行って無いけど、勉強の方は大丈夫なの? 」
藍は首だけを動かして、声の方を向いた。キッチン越しには、エプロン姿の中年女性が立っていた。お盆に乗ったマグカップが二つ、湯気を上げている。その湯気にのって甘い香りが部屋に広がる。
「別に図書館じゃなくても勉強できるし、大丈夫だよ。それに」
面白くない、といった表情でマグカップを受け取る。
「それに私が行ったら完全にお邪魔虫だしね。今日はどこに行ってるのかは知らないけど」
「あんたの先輩の遠藤さん、だっけ? 」
遠藤さん? 藍は一瞬小首を傾げた。ああ、どうも名字で呼ばれても馴染みが無いと言わんばかりに、藍は呼びなれた名で言い直す。
「憂さんね」
「そうそう。あの子は本当にいい子だよ。頭も良いし、礼儀も正しいし、美人さんだし」
「やっぱりそう思うよね。正統派黒髪美少女って感じ。でも憂さんに綺麗とか可愛いとかって言っても「そんなこと無いよ」って言うだけなんだよ。あれは謙遜って感じじゃなくて、本当に気付いてないのかも。彼氏も居ないみたいだし」
「勿体無いねえ。モテるだろうに。よりによって、春樹と仲良くしてるんだって? 」
「そうなの。お兄ちゃんには勿体無いくらいだよね。というか勿体無い」
「世の中には物好きもいるものね。」
二人は薄く眼を閉じ、うんうんと頷いた。カップを一口啜り、あっ、そういえばと藍は確認するようにぼそりと言った。
「まぁ実際お兄ちゃんって、カッコ悪いって言われる程ではないよね」
「あー、まあブサイクでは無いね。普通って感じ」
「普通だね。結局普通が一番ってことなのかなぁ」
コクコクとマグカップを口に含みながら、彼女のこれまでの恋愛経験に想いを馳せた。
「そういうあんたはどうなのよ」
「えっ」
女性が膝で小突く。藍はせっかく口に含んだミルクティを吹き出しそうになる。
「学校で結構人気なんでしょ。彼氏の一人や二人いないの? 」
その目は新しいおもちゃを見つけた子供のそれであった。
「確かに声を掛けてくる男子は多いけど」
ミルクティを冷ますため、ふうと吐息をはきながら、別に大したことでもない、といった調子で藍は答えた。
「我ながら、私とあの人から生まれたとは信じられないわね」
「でもなんかね、チャラチャラしてたり、わいわい騒ぐのが好きだったりする人ばっかりでなんかなぁ。私はもっと読書したり、将棋をしたり、落ち着ける人が良いの。美術館デートとかも憧れるなぁ」
女性はくすりと笑うと、いたずらっぽい顔で、
「案外似た者同士なのね。安心したわ」
どういう事?と詰め寄る。女性は何食わぬ顔でくいっとデスクを指差す。
「パソコンの履歴。昨日春樹が使ってたんだけど」
女性はコトリとマグカップを置くと、すっと立ち上がりデスクの方に向かう。戻ってきた手にはノートパソコン。カチカチとマウスを操作し、ディスプレイを顎で指す。どうやら見てみろということらしい。
「ほら。あんたの理想って案外……」
「そんなわけないっ」
藍は目の端で、不意に動き出すダンシングフラワーを見た。
「すみません、遅くなりました」
はぁはぁと息を切らした春樹が駆けてきた。
「遅いですよ。もう十分過ぎてますよ。ほら」
そう言って憂は自分の左腕をぐいと伸ばした。綺麗なラインストーンの入った腕時計の長針は、確かに二の上にあった。
「刻印もあって可愛らしい時計ですね」
「もう、そこじゃないですよ」
「見てください、チケット売り場にあんなに人が並んでるんですよ」
憂が指差す先では、百人はいるであろうかという人々が、拡声器を持った案内人の指示に従い、大きな蛇を象っていた。
「凄いですね」
その返事はどこか他人事のようであった。
「やっぱり、セザンヌ展は人気だって言ってましたし。今からだと三十分は待たないといけないみたいです」
眉が垂れ下がり、いかにも困りましたという憂のそれとは対照的に、春樹はけらけらと笑いながら、今から並んだら大変そうだなと呟いた。
「とにかく私たちも並びましょう」
「あぁすみません、はい、憂さんどうぞ」
差し出されたのは二枚の紙。
「えっ、これって? 」
入場券です、とまるで見ればわかるだろうと言いたげなトーンで春樹は答えた。だが、その口角は我慢しきれなかったのか、明らかに吊り上っている。
「並んでたんですか? 」
春樹は人差し指を鼻の下に添えた。
「セザンヌ展は人気ですから。さあ行きましょう」
ちらりと見えた蛇は、絶え間なく人を飲み続けたのだろう、それはもはや蛇と言うには大きすぎた。
「綺麗な色遣いだな。訴えかけてくるものがある……気がする」
押し殺した声で品評する。館内は殆ど空調の音が響くだけで、あれだけの人数がこの建物内にいるのだという事実を疑わせた。美術館という空間が、絵と向き合うという行為に箔を付け、誰しもを哲学者に変えるのだと憂は思った。
「なんというか不思議な感じがしますね」
「不思議な感じ、ですか」
ほら、と憂はその絵に一歩近づいた。素人だから技法とかは全く解らないですけど、と前置きをした上で、
「このテーブルはやや上から見ているような構図なのに、こっちの瓶は、口の部分を見ると、ほら、正面からの構図ですよね」
憂の解説に本当だ、としみじみ頷く。
「色彩とかは凄くリアルなのに、現実には実在しない構図って所に、訴えたいものがあったのかなと、私は思います」
そう言い終わると、熱が入った自分を見られたことが少し恥ずかしくなったのか、ご静聴ありがとうございますと付け加え、おどけて見せた。
「もしかしたら、人の心とかを表してるのかもしれないですね」
ぼそりと春樹が呟いた。
「人の心ですか」
照れ笑いをし、完全な素人の思い付きですけど、と前置きをする。先程とは真逆の構図であった。
「一見、自然に、鮮やかに振舞っているように見えるけれども、ちょっと別の視点から見ればすぐに異様だって気付かれる。幼少期に村八分にあった友人を見ている経験もあるそうだし、取り繕った人の裏の顔を見た、セザンヌの皮肉が込められている、なんて素人の妄想でした」
講釈が終わると、少し顔を赤くして、何言ってるか自分でも解らなくなってきたと呟く。
「言いたいことは解りますよ。そう考えるとちょっと怖い絵に見えてきましたね」
憂は賛同を示した。なるほどなと思うと同時に、様々な感性が混ざり合う、これだから美術館は面白い、と感じた。
「もしかしたら、私たちの心も、別の視点から見たら、ちぐはぐだったりするのかもしれないですね」
それは本当に何気ない一言であった。他意があった訳でも無いが、一瞬春樹が苦虫を噛み潰したような顔をした気がした。
「すみません。今日はお付き合いしてくださって」
並んで歩く二人の男女の影。時刻は十七時を過ぎていたが、夏の空は高く、まだ夜には早いと、二人を照らしていた。
「いえいえ、こちらこそありがとうございます。私も来たかったんですよ、このセザンヌ展。二年前に亡くなった祖父が大好きな画家でした。私、おじいちゃん子だったから」
閉館まで三十分を切ったためか、入口では入館規制のアナウンスが流れ、あれだけの大蛇も陽炎のように消え失せていた。
「僕も本当に楽しかったですよ。色々考えさせられましたし」
「美術館って、頭と心を使いますよね。なんか絵を見ているようで、いつの間にかその絵を見ている自分と向き合っているというか」
「哲学者って感じですよね」
哲学者、という自分と同じ表現に憂は少し嬉しくなった。
「日向さんって、ロマンチストなんですか? 」
えっ、と狼狽する春樹。やめてくださいよと恥じらいを込めて否定する。
「私、男の人が美術館に興味があるっていうのも最初は驚きで……」
そうなんですかね、と少し戸惑う春樹は、付け加えた。
「僕は美術館も博物館も動物園だって好きですよ。逆に遊園地とかライブとか騒ぐのはどうも苦手です」
私もです、間髪入れずに答える。丁度二人の右手に、美術館に付随する記念公園が見えた。小さな子供が虫網を持って走っている。父親と幼い妹だろうか、その子供の後を慌てて追いかける。
「公園とかも良いですね」
同じ光景を目にしたのだろう。春樹が呟く。
「ああ、良いですね、小さい頃によくシロツメクサで王冠を作ったり」
「五つ葉のクローバーを探したり」
輪唱の様に続く。ああ、やりましたと微笑む憂。
「やっぱりロマンチストなんですね」
そんなこと無いですよと改めて否定する彼に、じゃあテストと
「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ」
スズナ、スズシロと続けた。ふふふと訳もなく二人笑いあった。
「お花とかも好きなんですね」
「全然詳しくは無いですけどね。綺麗な花が咲いていれば、綺麗だなって思ったり、足をとめたりはしますよ」
予防線としてだろうか、これは普通のことですよと付け加えた。
「本当にロマンチストを名乗るなら、誕生花くらいは言えないと」
誕生花という単語が出てくる時点で充分ロマンチストですよ、と言いたい気持ちを抑えて、憂はいたずらっぽく言った。
「じゃあ、私の誕生日は二月二日なんですけど、誕生花は解りますか? 」
ほんの思いつきで発しただけだが、春樹の反応は予想外のものであった。本当ですか、と憂を見るその勢いに戸惑った。
「どうしたんですか?まさか同じとか」
「いえ、誕生花が僕の好きな花なんです」
「誕生花を知っているなんてやっぱり……」
ロマンチックじゃないですよと遮る。お互いにこのやりとりが少し楽しくなってきたようだ。
「たまたまです。その花が好きなだけですよ」
好きという言葉と裏腹に、春樹はふいに細い眼をし、少し寂しそうな顔をした。その言葉と表情のアンバランスさが憂は気になった。
「何というお花ですか? 」
できるだけ明るく、それでいて不自然で無いように尋ねる。
「スノードロップって言って、その名の通り雪のように白くて綺麗なんですよ」
これくらいの、と掌で覆うように示してみせた時の顔は、先程までの春樹に戻っていたことが憂を安心させた。
「えぇ、見てみたいです」
「球根花なんですけど、初心者でも育てやすいんですよ」
僕も小さい頃に庭で育ててました、と付け加えた。憂は庭一面に咲く、まだ見ぬその白い花に思いを馳せた。
「ところで、日向さんは誕生日はいつなんですか? 」
「えっ、八月九日です」
もうすぐですねと驚く憂だが、春樹はああそう言えばと忘れていたようだ。
「日向さんの誕生花は何ですか? 」
嬉しそうに尋ねる憂だが、返ってきたのはいや、知らないですと言う冷めた言葉。憂は少し驚いたような顔をした。
「何度も言うけど、僕はロマンチストじゃなくて、スノードロップが好きなだけですから」
どこかでりんと風鈴が鳴る音がした。
「そう言えば」
藍は、ふと思い出し、ボールペンの手を止めて、奥で洗濯物を忙しなく畳んでいる母に問う。
「昔、家で犬を飼ってたでしょ。確かベンだっけ」
「あら、あんたよく覚えてるわね。確かあんたが五歳くらいの時に死んじゃったのに」
女性は首だけで答えた。
「私自身は全然覚えてないんだけどね。で、そのベンが、お兄ちゃんが獣医を目指すきっかけになったって、お母さん知ってた? 」
声の調子から、「私は知っているけど」というニュアンスを感じ取ったのか、わざとらしく大げさに、あら知らなかったわと返した。
「この前憂さんと話した時にそう言ってたよ。病気で死んじゃったんだよね? 」
ええっと、何だっけ。思い出そうとフィラ……フィラと呟いていると、驚いた表情で言う。
「えっ、違うわよ。ベンは、車に轢かれて死んじゃったのよ。確か春樹との散歩中に」
ざわっと、一瞬体が震える。えっ、でもお兄ちゃんは、と言いかけたが、言葉に詰まる。あぁ、そうなの……と察したように呟く前に、母が一瞬悲しい顔をしたのを、藍は見逃さなかった。
「可愛がってた犬が轢かれるのを目の前で見ちゃったからね、その時の記憶が混乱しちゃってるのかもね。その時だって、春樹は全く泣かなかったし」
何と言えばいいのか分からず、そうなんだとだけ答える。
「あっ、でもお墓を作るって言って、庭に球根を植えてたわね。白くて可愛らしい花」
このくらいの綺麗な花なのよ、と手で造ってみせるが、わざとらしく明るいトーンを装っているのが、藍にも良く分かった。
「花屋さんで、初心者にも育てやすい花を聞いてね」
懐かしいわねえとしみじみ漏らす。悲しくも煽情的な記憶に浸っているのだろう。無言で洗濯物を畳むその背中を藍は暫く眺めていた。ふと気が付くと、その手はパタリと止まっていた。
「あら、花が咲いてる所に埋めたんだったっけ?どっちが先だったか忘れちゃったわ」
藍は最初、場を和ますために御茶らけているのかと思ったが、どうやら演技では無く本当に記憶から零れているらしい。暫くうんうん唸っていたが、結局思い出せなかったようだ。
「とにかく、それに関してはそっとしておいてあげなさい」
うん、と呟くことしかできなかった。いつも明るく振舞う兄と、その時の呆然としているであろう幼い日の兄が、頭の中で交互にフラッシュした。兄にそんな過去が、普段からもっと優しくしてあげればよかった、それでも獣医を目指す兄は凄い、様々な感情が込み上げてきた。
「さぁ、そんなことより勉強勉強。遊んでいたら憂さんと同じ所にはいけないわよ」
「はーい」
わざと明るく返事をしてみせたが、すぐには切り替えられないだろうなと藍は思った。