7/13 出会いは雨とともに
「いつまで続くのかな」
この日、憂は独り、木の下で佇んでいた。激しく叩くその雨は、午前中の暑さをその身に刻んだアスファルトから、瞬く間に熱を奪っていった。ひんやりを越した薄ら寒さの中、どうしようもなく、ただ重く垂れこむ鉛の空を見上げていた。
もちろん憂は知らなかった訳では無い。夏の天気が変わりやすいことも、この日も局所的な豪雨に注意しろとテレビで言っていたことも。それでもどこかで、何とかなるだろう、と楽観的に考えていた。その結果がこれである。
もうかれこれ、二十分はここで立ち往生する羽目になっている。雷が鳴っていないことだけが幸いだろうが、この状況にあっては、この雨では傘があってもどうしようもないか、と正当化するのが精一杯の抵抗であった。
ふと視線を前に戻した時、目の前、二メートル先に一人の男が立っていた。雨音に掻き消され、一切の足音や気配が絶たれていたのか、憂はこの時初めて男の存在に気がついた。
一瞬体がビクッと震え、無意識に身構えた。見たところ大学生位の若い男であること、土砂降りの雨と木の枝を伝う雨粒に打たれているためか、どこか泣き出しそうな表情であることが見て取れた。とてもこれから悪いことをしてやろうという顔には見えない。
「あの……驚かせてすみません。大丈夫ですか? 」
「あっ、えっ、大丈夫ですよ」
咄嗟に憂はそう答えた。彼女は常識も倫理観も年相応以上に持ち合わせた、いわば優等生タイプの女子高生である。知らない男性に突然声を掛けられた際、今のご時世、疑いも無く付いて行くのは得策では無いということは充分に知っていた。知っていたが故に、意識よりも先に条件反射でその言葉が口をついてしまった。
「そうですか……。それなら良かったですが。すみません急に声かけてしまって」
男性はそれ以上何も言わなかった。目の前にいるこの可憐な少女は、待ち合わせという感じでもなければ、好きでこうしているわけでは無いことは明白であった。ましてや、今にも泣き出しそうな顔をしている。大丈夫では無いことは誰が見ても明らかだ。
それでも彼はそれ以上何も言わなかった。彼自身も、不審な男性が子供や若い女性に声を掛けただけで、警察沙汰になったという案件があることを良く理解していたからだ。
もやもやとした想いを抱えたまま、男性は軽く会釈をするとそのまま踵を返した。
「あのっ」
男性は背中で消え入りそうな声を聞いた。あと数歩歩いていたら、完全にこの雨で掻き消されて耳には届かなかっただろう弱弱しいその声を。
「あっ、やっぱり大丈夫では無いです」
そう答える憂の瞳は、うっすらと潤んでいた。高校生とはいえ、この土砂降りの中、独りで終わりも解らずただ待ち続けることは、耐えられる気がしなかった。
叩きつける雨の中、並んで歩く二人の男女。会話は要らなかった。どうせこの雨の中では聞こえないのだから。歩き出す前にした二、三の会話から、どうやら二人とも同じ目的地であること、男性は日向という名前であることが分かった。
目的の図書館に辿り着くころには、二人の膝下は水を吸いぐじゅぐじゅと音を鳴らしていた。
「結局結構濡れてしまいましたね」
日向は申し訳なさそうに、力無く笑った。
「いえ、それでも脚だけで済んでますから」
ほら、と言わんばかりに憂は一回転して見せた。長い黒髪が踊り、ちらりと見えたうなじに、日向は一瞬心を奪われた。
「本当に助かりました。傘を貸していただけなかったら、今でもあの木の下ですから。本当にありがとうございます。……そういえば」
と憂は気になっていたことを言いかけた。
「どうして傘を二本持っているのか、ですよね」
一寸先に、日向がそれを口にした。
「しかも女性物」
口角がくっと上がっている。まるで、あなたの考えはお見通しだとでも言わんばかりである。
「その通りです」
確かに憂が今手にしている傘は、白を基調にした水玉模様で、お世辞にも目の前の男性が使うに相応しいとは言い難い。
「ここで誰かと待ち合わせを? 」
「待ち合わせなんて楽しい物じゃないですよ」
日向が言い終わるが早いか、入口の自動ドアが開き、勢いよく女の子が飛び出してきた。小柄でショートカットなその横顔に、どこか見覚えがある、と憂は思った。
「遅いよ。一体何をしてたの? 」
開口一番、少女は日向に詰め寄った。その口調は怒っているというよりも、彼氏にわがままを言う彼女と言った感じであろうか。
「しょうがないだろ。この土砂降りの中来てやっただけでもありがたく思え」
日向はそう答えたが、語調とは裏腹にその表情は穏やかであった。第三者である憂の目から見ても、この二人が親密な間柄であることが窺えた。
「うわっ、この傘でここまで来たの?きもー」
彼女の目に、使われてびしょ濡れになった水玉の傘が映ったのだろう。それを聞いて憂は理解した。ああ、この傘はこの子のために、と。この時、今ここで、いやその傘は私がお借りしたものですと言うべきだろうかと憂は非常に悩んだ。
もしこの二人が所謂彼氏彼女の関係だったならば、自分が名乗り出ることで、さらにややこしい事態になってしまうのは必至である。この瞬間、憂は背景になることを決めた。……が、
「違うよ。この人に貸してたんだよ。僕が使ったわけじゃない」
憂にとって予想外の事態であった。まさか、渦中の日向本人から振ってくるとは。憂が何と答えようか考えあぐねているうちに、ショートカットの女の子が近づいてくる。修羅場だ、と覚悟をした。
「……憂さん、じゃないですか」
予想外の言葉に面食らう。
「えっ、……あっ。藍ちゃん? 」
いつの間にか雨音は幾分か弱くなっていた。
「まさか兄妹だったとは、知りませんでした」
「お兄ちゃんがいることは隠してましたからね」
さすがにそれはどうかと思いつつ、憂は向かいに座る日向の方に視線をやる。彼はまさにしょんぼりという顔をしている。
「それにしても」
憂は目の前の二人を交互に見比べた。
「言いたいことは解りますよ」
日向がムスッとした顔で割って入る。本当に不機嫌なわけでは無く、あくまで場を和ますためのポーズだろう。
「「似てないですよね」」
日向と藍が同時に答えた。二人とも言われ慣れている上、本人たちも重々自覚しているのだろう。確かに、憂の目から見てもその通りだった。方や藍は、中学に入学した当時も、凄く可愛い子が入ってきた、と学校中が上を下への大騒ぎだったことを思い出した。
実際、手入れの行き届いた天使の輪ができたショートヘアーや、いたずらっぽく笑った時にちらりと見える小悪魔的な八重歯を魅せられては、男子のみならず同性であっても生唾を飲むものがある。一方日向の方は、お世辞にもイケメンとは言い難い。中の中といっても反発は無いだろうが、紙上を躍らせるトップアイドル並みの妹と比較するとどうしても霞んでしまう。『藍ちゃんは本当に可愛いのにねぇ』と言われ続けてきただろう。憂はこの話題になった時の日向の気苦労を心中察した。
「こっちもびっくりですよ。藍とあなたが友人だったとは」
面白くないとでも言いたげに、日向が話題を変えた。
「憂さんは凄い先輩なんだよ。私なんかよりもずっとずっと」
「藍ちゃん、そんなこと無いよ」
同性であればなおさら、この女性に褒められてもどこか素直に受け取れないだろう。憂は否定した。それでも藍は食い下がる。
「そんなことあるよ。憂さんはあの星稜女子高の先輩なんだよ」
「星稜女子って言ったら、お前が目指してる県下トップ校じゃないか」
「そうだよ、お兄ちゃんが気安く口を訊いて良い方じゃないんだよ。中学の先輩時代から、憂さんは皆の憧れなの。あぁいつも思うけど、こんなお兄ちゃんじゃなくて、憂さんが私のお姉ちゃんだったら良かったのになぁ」
藍は目をキラキラ輝かせながら言った。そんなこと……と憂は困ったように首を振る。
「そんな大したものでは無いよ。藍ちゃんなら、きっと行けるから。ちなみにお兄さんは? 」
これ以上藍に褒め殺しにされては堪らないと言わんばかりに、憂は話題を逸らした。
「しがない大学生ですよ」
「生意気にも獣医学部」
憂が口を尖らせる。日向がジロリと藍を睨むが、素敵じゃないですかという憂のフォローを受け、にこやかに続けた。
「昔飼ってた犬が、ベンって言うんですけどね、ベンがフィラリアになった時に、獣医さんにもっと早く来てくれれば、って言われたんです。それで僕は、あぁもっと自分に知識があればっ……て。単純な理由ですけど」
日向は人差し指を鼻の下にあてがい、掌で口を覆い隠しながら笑っている。どうやら、照れた時の彼の癖のようだ。
「そんなこと無いですよ、信念があってカッコいいです」
「憂さん、思っても無いことを言って、この人をあんまり褒めちゃ駄目です」
「えっ、そんなこと無いよ」
じゃあ、と藍が意地悪く言う。
「この顔がカッコよく見えますか? 」
「えっ、……うーん」
平静を装いつつ、憂は頭の中で国語力を総動員した。嘘では無く、かといって『普通です』でも無い、そんな都合の良い言葉を探していた。
沈黙に痺れを切らしたのか、藍がほらやっぱりと断ち切った。
「あっ、でも、私は好きですよ、安心する感じがする……かなぁ」
だんだんと語尾が弱くなっていき、最後は消え入りそうだったのを自分でも感じた。憂にとっては真実ではあったが、途中で恥ずかしさが勝った。
「お兄ちゃん、憂さんの優しさに感謝しなさいよ」
どうやら藍には、自信の無いお世辞を言ったと受け取られたようだ。
「さっきから聞いていればお前は……。自分がちょっとばかしモテるからって調子に乗るんじゃない。失礼だぞ」
憂もそうだよと弱弱しく頷いた。
「言っとくけどな、僕はお前のことを可愛いとも思ってないからな。兄妹とか抜きにしても、憂さんの方がずっと綺麗だと思うよ」
えっ、と思わず声が漏れた。日向の方を見る。藍もガラス玉のような瞳で日向を見ている。例え売り言葉に買い言葉だとしても、今の発言を聞いて賛同する者など皆無だろう、と憂は強く思った。二人の視線が自分に集まったことで、自分の発言に気がついたのだろう。日向の顔がみるみる紅潮する。 つまりだ、と日向は慌てて弁解をするように続けた。
「僕が言いたいのは、人の好みは人それぞれだってこと。お前に好かれんでも別に良いよ」
藍は兄に好きな人ができたことを悟った。