第一章 もう一人の住人 PART5
『さぁ
日本のエース武藤選手、
注目の第一投です。
独特の小さい構えに入り……、
今助走をつけて……投げた!
どうだ!?どうだ!?
くぅ~、これは少し距離が短いか!』
武藤と紹介されたその大柄な男は、
白線で引かれたサークルの中で
自分が先程投げた砲丸の着地点を見ながら
苦い顔をしていた。
今
この家電量販店に置かれたテレビで
映し出されているのは、
シアトルで開催されている世界陸上の模様である。
武藤は砲丸投げの選手であり、
彼の勇姿を島崎は虚ろな表情で眺めていた。
島崎は元々スポーツ経験が乏しかったし、
この大会に別段興味を示している訳でもない。
実は娘の遥がパートとして働いてる食品売り場が
この建物の地下一階にあり、
島崎はつい先ほどまで
彼女が働いている姿を見ていたのだった。
島崎が探偵である進一から
調査報告を受けたのが昨日の出来事、
つまり
彼は進一と話したその日の内に
新幹線でここ兵庫まで移動し、
ホテルで一泊過ごした後にここまでやって来ていたのだ。
島崎は娘の居場所が分かったことで
居ても立ってもいられなくなったのである。
島崎は
既に定年を迎えているため
時間的な余裕があったし、
娘のことを妻と話し合うつもりももう無く、
独断でこの場所まで来ていたと言う訳だ。
ここにやってきた当初、
島崎は遥を無理やりにでも連れて帰るつもりでいた。
しかし、
娘の顔を見て彼に込み上げてきたのは
喜び、ではなく戸惑いであった。
ほんの数ヶ月娘と会話をしなかっただけで、
自分がこれまで一体どのような顔をして
彼女と話していたのかが分からなくなっていたのだ。
そもそも、
自分はこれまで娘とちゃんと面と向かって話をしたことが
あったのか、
今の島崎にはそれすらも分からないのである。
どうしたらいいのか分からないまま
食品売り場を後にし、
島崎は現在に至っている。
彼の目の前にあるテレビの中では、
既に違う国の選手が投てきを始めていた。
どうやら
武藤は思うようなスタートを
切ることが出来なかったことが
アナウンサーの実況から伺えたが、
もちろんそんなことは島崎にとって重要ではなかった。
島崎はその場に座り込みたくなる衝動を
何とか堪えて、
近くにあった椅子へと腰を下ろした。
…一体どうしてこうなってしまったのか。
自分が娘の結婚に反対したことがいけなかったのか。
だが、まだ学生の二人がどんなに言葉を繕ったとしても、
そこに真剣味を感じることが出来ないことは
今でも同じ気持ちである。
島崎にとって、
遥はまだまだ子供なのである。
初めて彼女が立った時のことを、
島崎は今でも直ぐに思い出すことが出来る。
そんな娘が
もう見ず知らずの男のものになるなんて…。
島崎は
いつの間にか瞑っていた目に
涙を浮かべかけたその時、
額にヒンヤリと冷たい感触を感じた。
島崎が慌てて目を開けると、
小さな手が自分の額を優しく擦っいることが分かった。
「おいちゃん、どっかいたいの?」
そう声を掛けるのは、
いつの間にか島崎の隣に座っていた
小さな少女であった。
少女は島崎と目が合っても
怯える様子は無く、
心配そうに撫で続けた。
「どっかいたかったらね、
ちゃんといわないとだめだよ。
ひーちゃんもね、
いわないとわかんないでしょって、
いつもママにおこられちゃうの」
「君は『ひーちゃん』って言うのかい?」
島崎は努めて優しい声音で尋ねた。
「うん。
ひーちゃんはね、ひーちゃんっていうの!」
何が楽しいのか
満面の笑みで答える少女に、
島崎も思わず頬を緩めてしまった。
「ありがとう、ひーちゃん。
おじさんは大丈夫だよ。
ひーちゃんもお母さんと一緒じゃなくて
大丈夫なのかい?」
「うん!
ママはおしっこだから
ひーちゃんはここでまってなさいだって」
もし母親がここに居たら
顔を真っ赤にしてしまう発言だろう、
と島崎は内心ドキドキしたが、
どうやらまだ少女の母親は戻っていないようだった。
島崎は「それはえらいな~」と言って
今度は自分が少女の頭を撫でてやると、
彼女は島崎を撫でるのを止め、
ブラブラ揺らす膝の上に手を置いて
「えへへ」とはにかんだ。
しかし、
少女は直ぐにその愛くるしい表情を曇らせた。
「でもね」
「ん?」
「なんだか、おいちゃんかなしそうだった」
そう言いながら
少女は島崎の顔を覗き込んだ。
「ひーちゃんがね、
ようちえんでみっくんとけんかしたときと
おんなじかおしてた」
「…そうか」
こんな子供にまで心配されるなんて、
自分はここまで来て一体何をしているのだろうと、
島崎が俯いたことが原因なのだろうか、
少女は慌てた様子で言葉を続けた。
「でもね!でもね!
ひーちゃんは
そんなときどうしたらいいかしってるよ」
「はは、そうかい。
どうしたらいいかおじちゃんに教えてくれるかい?」
「うん!
そんなときはね――」
少女は勿体ぶるように一拍置き、
またニッと笑いながら口を開いた。
「ごめんなさい!っていうんだよ」
「え?」
「ひーちゃんがわるいのかはわかんなかったの。
でもね、ごめんなさいっていったら
みっくんもごめんなさいっていってくれたの。
そしたらなかなおりできたの」
少女はとても嬉しそうにそう言った。
…ああ、そういうことか、
と島崎はこの少女の言葉が
胸に突き刺さっていた。
どちらが悪いかを考えるのが先決ではない。
自分がその相手と
これからどうなりたいのかが重要なのだと。
また自分の涙腺が危なくなってきたことを
少女に悟られまいと、
島崎はふっと顔を横に向けた。
少女の顔は見えなくなってしまったのだが、
それでも島崎は彼女が心配そうにこちらを見ていることが
何となく分かった。
「いやぁ、ありがとう。
ひーちゃんのおかげで、
おじさんの悩みがすっかりなくなっちゃったよ」
「…ほんと?」
「あぁ、本当さ。
これはひーちゃんに何かお礼を上げないといけないな」
そう言いながら
島崎は少女の元へと視線を戻した。
少女は「お礼」と言う言葉を聞いて
一瞬表情をキラつかせたが、
「あっ」と何かを思い出したかのように声を漏らして
下を向いてしまった。
「あれ?どうしたんだい?」
島崎が心配そうに声を掛けると、
少女は口を尖らせながら答えた。
「…うん。
でもママがしらないひとから
ものをもらっちゃいけないって」
そりゃあそうだと島崎は納得したが、
今回は彼も簡単に引き下がらなかった。
「やっぱり、ひーちゃんは偉いな。
でもおじさんはもう知らない人じゃないだろ?」
島崎はそう言いながら、
脇に置いたカバンの中から一枚の折り紙を取り出した。