幼児期の記憶
ぬいぐるみの首がほつれていた。
ちっちゃなそれの首から、うすくてきいろい糸のはしが、ひょろりとあたまをだしていた。
先生に、いわなくっちゃ。
みんなでつかうぬいぐるみが、こわれかけている。
せんせいをさがして見まわしたとき、ふと、白いテーブルの上にハサミがあるのに気がついた。
先生手づくりの、かわいいお花もようのペン立てに入ってた。
ハサミを取ったら、わたしの手にちょうど良くて、持ちところも、刃先もぜんぶ丸っこかった。
そこで、はっとして、ぬいぐるみのほつれた部分とハサミ、見た。
つめたい水がしみるように、むねのなかのどこかのぶぶんが、ひんやりした。心ぞうがドクドク大きく鳴りだした。
ああ、このぬいぐるみの首がこのハサミで切ったから、ほつれたのだ、としたら。
このぬいぐるみとハサミがあれば、わたしはとんでもない『わるもの』になれる。
そう思ったとたんに、なんだかとくいになって、すぐに近くにいた子に「あ、ねえねえ!」と声をかけた。
ふしぎそうな顔をしてちかづいてきたおんなの子に「ほら、見てみー」と、刃をとじたハサミの先をぬいぐるみのくびにあてて見せた。
ぽかんと見ているその子の顔にうれしくなって、フフンと笑った。
わたしは、しじょうまれにみる、とてつもない伝説の大あくにんになれたのだ。
でも、すごいやろー、わるいやろーと、さらに言おうとしたときだった。
とつぜん、女の子があわてて「せんせー!」とさけんで、となりの部屋にはしっていった。
こんどはわたしがぽかんとして、女の先生が、あの子につれてこられるまで、そこにたってた。
「あんねー、おもちゃこわしとったー!」
わたしを指さし、犯にんを伝えたその子先生に促されその場からいなくなった。
先生はわたしにむき直り、私からハサミと縫いぐるみを取り上げて、私よりも大きな顔と鋭い眼を向けた。
「なんでこんなことしたん」
先生が聞いている。言わなければならない。だが、何を言えばいいのか分からない。
頭の中がぐるぐるして世界が揺れて、だけど先生の顔だけがはっきりと見えた。
口を半開きにしたけども、言葉が出なかった。
息と声が喉に詰まっていた。
蓋をされている。動かない。取れない。びくともしない。苦しい。苦しい。
口内も目の表面も、渇いて水気が無くなっていく。
「おもちゃは皆の物でしょ! 鋏はおもちゃを壊す為に使う物じゃない!」
――どうして切ったりなんかしたの!
先生が怒っていた。
せん生にも見せたかった。
せんせいにも教えたかった。
すごいねといってもらいたかった。
縫いぐるみのほつれた部分を調べだした先生は、すぐに首元から飛び出した薄く黄色い糸の一端を見つけて眉をぎゅっと顔の真ん中に寄せた。「ここか」と呟いて、ほつれた部分を親指でなぞった。
「おもちゃも痛いんだよ。もう絶対にしたらあかんで」
それだけ言うと、保育士は縫いぐるみを持って最初に入って来た引き戸から隣の部屋へと戻って行った。
周りにいた子たちがちらちらと私を見ていた。
私は机に置かれたペン立てを見やった。
私の手に丁度良かったハサミはすでに戻されている。
ハサミの柄の感触がまだ残っていて、手の先にある指をピクピク動かしてみて、止めた。
冬の冷たい水を被ってしまったのだと思った。
それから私は、しばらく動けなかった。




