僕と先輩と色彩論
先輩との帰り道、信号に捕まった。
ふと、先輩が口を開く。
「キミは今の信号、何色に見える?」
「何って……赤ですよ」
辺りは日が落ちて既に暗い。
十字路は他に人もおらず、おまけに車もバイクも来ない。
誰もいない場所で、僕らは律儀に待っていた。
待たなきゃいけないのは赤色だ。
「ふむ、ボクにも赤に見える」
「そりゃそうでしょうよ」
では次の質問だ。
そう言って先輩は目を閉じた。
つい、っと長い指を伸ばし、僕の服の裾を掴む。
「赤ってどんな色だ?」
……はい?
赤ってポストの色とかのこと、ですよね?
「ポストの色ってどんな色だ?」
「ス……スイカの色」
「スイカの色とは?」
「リンゴの……」
だんだんしどろもどろになる僕に向かって先輩はため息をつく。
「いいかい、助手くん。この質問の本質は定義だよ」
信号が青に変わる。
……僕の服を掴んでるってことはこのまま進めってことだよな。
まだ、先輩は目を閉じたままだ。
相変わらず何も通らない交差点を僕はゆっくり歩き出した。
指が引っ張られたのだろう。察したように先輩も後をついてくる。
もちろん目を閉じたまま。
「赤という定義。それは赤の成分が最大値で、緑と青の成分が最小値……つまりゼロということを指しているに過ぎない」
そのくらいは僕も聞いたことがある。
色の三原色だったか。
全ての色は赤、緑、青の3色で構成されるというやつだ。
「もちろん色を分析すれば、この色は『赤』ということは証明はできるだろう」
そこまで言って、先輩は歩みを止める。
つられて僕も。
まだ、ここは横断歩道の途中だ。
「せんぱ……」
「だが、実際にどのように見えれば正しいのかは誰もわからない」
先を促そうとした僕の声を遮るように、閉じていた目を開いて先輩は言った。
「わからないのだよ助手くん」
裾から手を離し、ぐっと僕の手を掴む。
そのガラスのような眼で、まるで、僕を睨めつけるように。
「例え、キミにとっての青が、ボクにとっての赤だとしても、それは、解らないんだ」
どうしてだか僕は。
一語一語区切るようにして話す先輩の声が震えてるような気がした。
解らないことが嫌い、といつしか先輩が言っていたことを思い出す。
あの時はいったい――なんだったっけ。
いつの間にか信号は点滅を始めている。
変わってしまう。
何色に?
「幼い子に物を教えることを考えてみるといい」
まだ僕が理解していないと思ったのか、先輩は『授業』を続ける。
「左利きの幼い子供にに、お茶碗を持つ方が左手ですよ、と教え込んだらどうなると思う?」
悩むまでもなく答えはわかる。
それはきっと。
「僕らにとっての右が、その子にとっては左になるんでしょうね」
その通り。
先輩は頷いて肯定の意を示す。
「この場合は誰の目にも見える定義があるから治せるが、色は違う」
色の定義は目に見えない数値だから。
反射した光を受け取る僕らの眼は。
ここまで話した先輩は、くるりと振り返り、信号を指さした。
「さて、ここまでの『授業』を聞いたキミに改めて訊こう」
キミには何色に見える?
僕には信号が赤色に見えた。
僕にとっての赤色。
先輩には何色に見えているのだろう。
先輩の眼球の世界はどんな世界なのだろうか。
「渡るな、の色に見えます」
しばらくの沈黙の後。
ようやく出した僕の回答に、先輩は満足そうに微笑んだ。
正解。
小さな声で告げた先輩は、今度は僕の前に立って歩き出した。
僕はため息をついて空を見上げる。
雲の間から、星がひとつふたつ顔を覗かせていた。
ああ、今日は長い夜だなぁ。
そして、しっかり前を向いて先輩を追いかける。
また信号は、渡ってもいい色になっていた。