僕と先輩と自由意思
「先輩、何か一つだけ願いが叶うとしたらどうします?」
ある晴れた日の午後、ご飯を食べて眠たくなってきた僕はそんな質問をしてみた。
ただの興味だ。雑談ともいう。
この一風変わった先輩が何を願うのかは普通に知りたいところだけれど。
「…………願い、ねぇ」
ふむ、と読んでいた本を閉じ先輩は目を閉じる。
「ちなみにキミは何を願うつもりなんだ?」
「えー、質問を質問で返すんですかー」
僕は不満な声を上げる。
「人に質問するときはまず自分の答えから」
「何すか。その名前訊くときみたいなルール」
とりあえず背中を預けていた本棚から身体を起こし、座り直す。
「そうっすねー、やっぱり『眼』を視えなくして欲しいですかねー」
「なんだ、潰して欲しいのか?」
くるっとこちらを向き、素早く僕の眼前に二本の指を突き出す無表情な先輩。
「ち……違いますよ! もう! そういう意味じゃないってわかってるくせに!」
情けない悲鳴を上げ、ずるずると先輩から離れる。
「もちろん、冗談だ」
「貴方がすると冗談に思えないんですってば!」
「えー! そんなぁ。ショックぅー☆」
「一体どこからそんなかわいい声だしてるんですか……」
あと、無表情でそんなセリフを言わないで欲しい。
「ほら、とりあえず僕は答えましたから。次は先輩の番ですよ」
このままペースに流されてはいけない。するっと躱されて僕だけ損するのは嫌だ。
僕は、先輩の答えを促した。
「んー、そうだなぁ。じゃあ……『自由な選択がしたい』」
…………はい?
「え、今のが願いですか?」
「そーだよー」
先輩は本を横に置き、膝を抱きかかえるようにして丸まった。
長い髪の毛がさらり、と肩にかかる。
「願いは自由に決めていいんですよ?」
「やだなぁ助手くん! ボクたちに『自由』があるとでも思ってるのかい?」
くすくす笑いながら先輩は猫のように目を細める。
『図書館の猫』。
一日のうちほとんどを大学の図書館で過ごす先輩に、いつ頃からか付けられたあだ名が頭をよぎった。
オカルト話があると喜んで飛んできて無茶苦茶引っ掻き回す変人。
どうやら眼球論なんて可愛げのないタイトルの論文を書こうとしているらしい。
ふとしたことからその毒牙に引っかかった僕はあちこち連れ回され、いまもこうやって先輩の助手みたいなことをしているわけだ。
「そりゃ……自由はあるでしょうよ」
もし自由が無かったら、僕はこうやって講義をサボって図書館にいることなどできない。
それは先輩もしかり。
そもそも義務でも無い大学に入学することがそもそも自由じゃないだろうか。
そう言うと、先輩はますますにんまりと笑う。
「残念。ボクらに『自由』なんて無いよ」
そんな風に言い捨て、先輩はさっきまで読んでいた本をすっ、と差し出してきた。
「どちらでも好きな手で受け取りたまえ」
一瞬、躊躇する。
深読みするべきか。……いや、そもそも先輩の思考なんて読むだけ無駄だ。
多分生きている次元が違う。
素直に僕は右手で受け取った。
「さて、授業の時間だ」
埃っぽい部屋の空気が急に変わったような感じがして、僕は緊張する。
妙に僕の鼓動がドキドキし始め、ごくりと唾を飲み込んだ。
先輩が『授業』を始める時はいつもこうだ。
言い様がない緊張が支配する。
期待とほんの少しの不安がいつも僕を襲うのだ。
先輩の前では常識なんて通用しない。
この人はいともたやすく壊してくる。
「では助手くん。何故キミは右手で本を取ったのかな」
先輩は相変わらず丸まった姿勢で僕の手にある本を指差し訊ねた。
ちらりと本に目をやる。
『爬虫類の飼い方』……? 今度は何をやらかすつもりなんだろうか。
別の不安が湧き上がったが、ひとまず頭から追い出しておく。
「……なんとなく、ですよ。そんなの」
そんな特に深い理由があるわけではない。なんとなく、取りやすい右手で取ったのだ。
「なんとなく。なんとなく、ね。」
その答えを繰り返す先輩。
じっと僕を見つめる瞳にはなんの感情も浮かんでいない。
いや、僕の方を向いてるだけで僕のことなど見てもいないのだろう。
ガラスのような眼には一体何が映っているのだろうか。
先輩の眼球にはどんな世界があるのだろうか。
僕らの間に沈黙が満ちる。
「ダメだよ助手くん。そんなセンスのない回答をしちゃあ」
時間にして30秒程だろうか。
空白を破ったのは先輩だった。
「『なんとなく』。そんな言葉、ちっとも自由じゃない」
ようやく、ふっと表情を緩めた先輩は『授業』を続ける。
「『なんとなく』ということは、自分が何故右手を選んだのか明確な理由が無いということだろう?」
丸まった姿勢から片膝を立て、右手で方杖をつくように座り直す。
電池式ランタンの明かりが揺らめき、先輩の顔に影を作った。
「自分が何故そうしたのかすらわからないのに『自由』だなんて言っちゃいけないよ」
そんなのマリオネットじゃないか、と先輩は言った。
身体から操り糸の出たマリオネット。
「キミは誰かにちょんちょんと操り糸で引っ張られ、それに気づかないまま『なんとなく』右手を動かしたんだ」
「誰かって……いったい誰にですか」
少し僕の声は震えていたのかもしれない。
おや、というように眉をあげた先輩が優しく微笑んだから。
「別に何かに取り憑かれてるとか、そんなオカルトの話ではないよ」
ちょっと心を見透かされたような気がして、僕は座り直した。
そうだねぇ、と先輩は言葉を選ぶ。
「どちらかというと神様、とか運命とかそっちのほうじゃないかな」
全く反吐が出るような言葉だけど。
そう続けて先輩は目を閉じる。
そんなことがありえるのだろうか。
たかが右手を出した。そんなことが運命で決まってるだなんて。
こんな些細なことまで僕らは何かに縛られているのだろうか。
そんなの、よっぽど幽霊よりオカルトだ。
「待ってください先輩!」
怖くなった僕は声を絞りだす。
「確かになんとなくって僕、言いましたけど! 僕は右利きなんです!」
右利きだから右手を出すことなんて何らおかしくないじゃないか!
「じゃあ、キミはロボットってことになるけどそれでいいのかい?」
静かな声で先輩は言った。
驚いて顔を上げるとまっすぐに見つめて返してきた。
その瞳は今度こそ僕を映していた。
「理由があって、それに従うってことは命令されて動くロボットとなんら変わりはない」
それこそ自由な意思なんて存在しないじゃないか、と呟くように先輩は吐いた。
「いいかい? 助手くん」
反論できなくなった僕はもう先輩の言葉を聞くしか無い。
「ニュートンとかファラデーとか、まぁなんでもいいや。物理の法則は知ってるよね」
「内容まではよく知りませんが、名前くらいは」
充分だ、と先輩は立ち上がる。
そして、軽くスカートを払い、大きく腕を広げくるりと一回転してみせた。
長い髪が宙を舞う。
「この世界は全て『物理法則』に基づいている!」
無論ボクもキミも例外ではない、と続け、ゆっくりと円を描くように歩み出した。
「助手君ならもう理解したんじゃないか?」
ヒールの音がカツカツと近づいてくる。
僕はもう、先輩の顔が見れない。
見たくない。
そして、すぐ後ろでヒールの音が止む。
「ボクもキミも物理法則に基づいているならば」
耳元で先輩の囁く声がした。
「――僕らの脳も、例外では、ない」
正解。
掠れた回答で先輩は満足気に笑い声をあげた。
そして、しゃがんでいた状態から再び立ち上がる。
「ボクらは常に『考えさせられて』いるのさ」
偉大なる神様にね。
先輩はそう言って『授業』を締めくくった。
■
「先輩」
薄暗くなってきたので、僕は帰り支度をしながら話しかける。
声は出さずに「なんだい?」と言いたげな表情で先輩は本から顔を上げた。
きっとまた夜まで本を読み漁るつもりなのだろう。
「自由な選択をするにはどうしたらいいんですかね」
きっと無視されるだろう、と思っていたが意外なことに返事が返ってきた。
「さあね」
そのまま本を閉じて近づいてくる。
「だからボクはキミの眼が気になるんだ」
長い指で僕の頬に触れる。
まっすぐに見つめてくる先輩の瞳に僕の顔が映った。
「その瞳は、法則を乱す」
今、僕の視界には先輩しか見えない。
他は何も、視えていない。
ため息をついて僕は口を開く。
「とりあえず、今日は何か食べて帰りたい気分です」
「奇遇だね。ボクも同じ気分だよ」
そう笑って先輩は荷物を片付け始めた。
まだ夜は、始まったばかりだ。