最終話 人間に空が戻る日
その朝、音が戻った。
風の音。
遠くの踏切。
誰かが落とした缶が転がる、どうでもいい生活の音。
人々は最初、それに気づかない。
空を見上げる癖は、もう失われていた。
だが、気象レーダーが異常を報告する。
監視カメラが、同じ映像を返す。
空に、何もいない。
三日前まで、
都市の上には黒い層があった。
雲ではない。
恐怖でもない。
管理だった。
航空路は閉じ、
通信は遅延し、
人は速さを失った。
そして——
人類は、初めて立ち止まった。
相川は、研究棟の屋上に立っていた。
もう、カラスはいない。
視線も、圧も、意味も。
「……終わった、のか」
返事はない。
だが今回は、空が答えた。
後に分かったことがある。
カラスたちは、去ったのではない。
高度を変えただけだった。
人間の活動圏から、
意味を持たない高さへ。
彼らは勝利宣言をしない。
敗北も認めない。
ただ、判断を終えた。
ニュースはこうまとめた。
「原因不明の現象は収束」
「生態系の異常行動」
「人的被害は想定より少数」
人類は、
いつも通り言葉で覆い、
理解したふりをした。
それでも、
何かが決定的に違っていた。
街の速度が、戻らない。
誰も急がないわけではない。
だが、急ぐことが正しいとは思わなくなった。
空を見上げる人が増えた。
意味もなく。
理由もなく。
そして、カラスがいないことを、
少しだけ寂しいと感じた。
相川は、最後の記録を残す。
彼らは、敵ではなかった。
支配者でもない。
ただ、
観測者が、行動者になっただけだ。
人類は選ばれなかった。
救われたわけでもない。
猶予を与えられただけだ。
夕暮れ。
久しぶりに、飛行機が雲を切る。
その下で、
子どもが空を指さして言う。
「ねえ、なんで今日は、
空が広いの?」
誰も、正確には答えられない。
だが、誰も嘘はつかなかった。
空は、戻った。
ただしそれは、
人類のものに戻ったのではない。
借りているだけだと、
全員が知っている空だった。
そしてその上空の、
人間には見えない高度で——
黒い知性は、
今日も黙って、飛んでいる。




