第3章 人類の反応
世界は、まだ本気で怯えていなかった。
通信障害は「偶発的事故」と処理され、夜空の文字は「集団行動による錯視」と説明された。専門家の会見は行われたが、あくまで学術的な枠内だ。
「知能が高い鳥類である可能性は以前から指摘されていました」
「過剰反応は避けるべきです」
テレビの向こうで、穏やかな声が流れる。
誰も「交渉」や「脅威」という言葉を使わない。
使えば、責任が発生するからだ。
現場では、別の空気があった。
地方都市の警察署。
駐車場の白線に、いつの間にか刻まれた文字。
――ミナ オナジ カオヲ スル
防犯カメラには映っていない。
死角だけを正確に通っている。
署長は、ため息混じりに言った。
「悪質ないたずらだ。騒ぐな」
だが若い巡査は、はっきり覚えていた。
昨夜、あの場所にカラスが並んでいたことを。
研究機関では、議論が始まっていた。
「言語理解は確認できる」
「だが“意思表示”と断定するには早すぎる」
「我々が意味を読み込みすぎている可能性もある」
慎重論が勝つ。
いつの時代も、人類は信じたくない現実ほど、様子見を選ぶ。
その夜、カラスは次の行動に出た。
文字は書かない。
空も覆わない。
代わりに、一人だけを選んだ。
郊外の団地。
ベランダに干された洗濯物の手すりに、一羽が止まる。
中年の男。
平凡な会社員。
ニュースを見ながら、缶ビールを開ける。
ガラス越しに、目が合った。
逃げない。
鳴かない。
そのまま、カラスはゆっくりと、くちばしを動かした。
「……オマエ」
音ではない。
だが男は、確かにそう理解した。
心臓が跳ね上がる。
「……気のせいだ」
だが次の瞬間。
「ミテイル」
「キイテイル」
男は缶を落とした。
翌朝、彼は出勤しなかった。
会社にはこう連絡が入る。
「体調不良」
ニュースにもならない。
記録にも残らない。
だがその日から、“選ばれた人間”が、静かに増え始める。
世界はまだ、こう思っている。
――大したことではない。
――説明がつく。
――そのうち収まる。
カラスたちは、知っていた。
人類が本当に動くのは、
取り返しがつかなくなってからだということを。




