墜落の天使
――そこは闇の世界
――光が断たれ、時間という概念さえ消え去った世界
――それは一枚のコインような
――『表』のすぐ傍に潜む『裏』の社会
闇がある。
そして、そこには闇しかない。
太陽のうららかで暖かい日差しが差し込むことのない閉鎖された空間。
月の優雅で優しい温もりが込められた月光が届かぬ遙か地下の空間。
天を見上げれば青い海のような大空と、白いふわふわした雲の代わりにごつごつした岩の表面が映し出される。
そんな世界に――一つの大きな屋敷がある。
どこか古風な屋敷は、天空から降り注ぐ土砂を屋根から被りながら、それでも壮観と佇んでいる。
屋敷の周りには、侵入者から守るかのように岩の壁が取り囲んでいる。唯一屋敷へと侵入できる正面には、鉄格子の門が行く手を阻むように設置されていた。鉄格子は先っぽが槍のように鋭く尖っていて、上からの侵入を防ぐ。
そして門の前には駄目押しのように二人の黒いスーツを着込んだ男が立っている。
二人の男は白いタイを締め、サングラスを装着しながら、およそ片足分だけ脚を開き両手を後ろに組んで背後の門を守護していた。腰には一丁の拳銃が備えられている。
陽の光が射し込まない暗黒の空間。屋敷のある部屋の窓から漏れる明かりと、門の両端にそびえ立つ二つの巨塔――そこの頂から屋敷の広大な庭へと照らされるバックライトの光だけが、この空間のささやかな明かりだった。
静寂の世界。虫の生音はおろか車などの機械の駆動音すらしない。
全てが剥き出しの地層に覆われていて、木々も、そして生い茂る雑草さえも存在しない土地。
ほとんど風が吹かない――閉じこめられた地下のスペース。
そこに、一陣の風が吹き抜ける。
音もなく、気配もなく、吹きすさぶ風が辺りの砂埃を巻き上げ立派な洋風の屋敷の方へと直進していく。
最初に異変に気づいたのは、黒いサングラスを掛けている――門を、屋敷の中の主を守護する男の一人だった。
男はサングラスを通して先の闇を、目を細めて凝視する。
そんな男の前のめりになっていてる姿勢に気づいた片側が、どうしたと口を開きかけた瞬間。
一つの、黒い風が闇から出現し――瞬く間に二人の間を過ぎ去っていった。
黒い風は前のめりになっている男の肩を踏みつけて跳躍し、3、4mはあるだろう巨門を遙かに凌ぐ高さまで舞い上がった。そして槍の切っ先をかすめることなく門の上空を通過していった。
それはほんの数秒の出来事。
踏みつけられた男は態勢を崩し前へとつんのめる。そんな光景を呆然と見ていた片側が、驚きながらも我に返って反射的に叫んでいた。
「――――侵入者だっ……!」
後ろの――屋敷の方向を振り返り、男が叫ぶ。侵入者を捕らえようにも目の前に超然と立つ鉄格子のせいで庭の中に入ることすら許されない男は、不測の事態に冷や汗を浮かばせながら、ひやりと冷たい鉄格子を悔しそうに掴みながらただ睨み付けた。
まるで自分たちのことを障害物としか捉えていない……まるで掴むことのできない吹き抜ける風のような姿を。
そんな男の叫びの音が、辺りを満たす。
それを聞きつけた塔の頂で庭に光を降ろしていた見張りが、すぐに反応し行動に移す。男の背後に用意されていた赤い丸いボタン。それは普段使わない物なので薄いプラスチックで守られている。
男はそれを外し、叩くように拳を押しつける。
異常事態――それを告げる警告音が、辺り一帯の音を飲み込んで響きわたった。
そこはとても豪勢な部屋だった。
木造の床には厚い絨毯が敷き詰められ、壁には鹿の剥製と、一見では理解できない高級そうな絵が飾られていた。
他にも豪勢なソファやテーブル、天井にはシャンデリアまで配備されている。
そんな贅沢を具現化したような室内に、一人の男の下品な笑みが響く。
「ぐひひひひ。今日もなかなか収穫できたなぁ」
贅沢太り……というべきか、とにかく小太りした豚のような男が革張りの豪華なソファに身を沈めている。手にはワイングラスが一つ、赤い液体を満たしていた。
羽毛の金ピカに輝くダウンで身を包む男は手の中のワインを揺らしながら、隣に供えている男に話しかける。
黒い執事服を見事に着込んだ少し痩身の男は、顔に掛けられたメガネを人差し指で無駄のない動きで上げ、主の意に反しないよう慎重に口を開く。
「……左様に御座いますね」
恭しく頭を下げてそれだけ述べると、男は木製の丸テーブルに無造作に放置されている書類を取り上げざっと見渡す。
「東洋の珍しい衣服を一つ。他にも滅多に見ない骨董品の数々。……そして16歳の雌と雄の二匹。一回の狩りでこれほどの収穫は希に御座います」
それを聞いた肥えた男は、気品のカケラもない笑みを浮かべてすっかり有頂天になっていた。
「ぐふふふ。これだから狩りは止められないなぁ。……物資は全て蔵に押し込んで、雌は後で部屋に運んでおけ。雄はいらんから殺して『アレ』のエサにでもしろ。……ぐふ、ぐふふふ。ゆっくりと愉しむとするかねぇっへっへっへ」
狩りとは、その言葉の通りで、外に出て目標を殺すーー或いは傷を負わせてそれが身につけている物などを奪う事だ。
ただし、それの対象が人間であるということ。
ただそれだけが、普通の狩りとの違いだ
聞くだけで万人を不快にしてしまう笑いを一頻り上げた後、男はワインを一気に喉に通す。
ゲェップ! という不快極まり無い豚の鳴き声をこぼし、また愉快そうに高笑いを上げる。
瞬間――警告音が屋敷中に響きわたり、男の笑い声を飲み込む。
それは紛れもない、侵入者の存在を主張していた。
それがあまりにいきなりの事だったので、最初男は事態が飲み込めず呆然と立ち尽くし途端、顔を真っ青にして家畜のように騒ぎ立てる。
「な……! こ、これは侵入者なのか! ど、どうすればいい……! は、早く逃げねば殺されるぅ!」
どたどたと部屋の中を慌ただしく走り続ける主と対称に、執事はあくまでも冷静だった。
眼鏡の奥の瞳をギラリと光らせる。そしてそれをすぐに瞬きで奥に潜ませ、主を一旦落ち着かせるためになるべく刺激しないよう諭す。
「ご安心下さい主よ。忘れましたかこの屋敷には侵入者撃退用の『とっておき』を用意してあることを」
執事の声に、走り疲れた主が肩で息をしながら照らされた希望に歓喜する。それはまるでエサを与えられた豚のようだった。
「そ、そうだったな……! この屋敷から門にたどり着くにはまだ時間がある。しかもまだ今日はエサをやっていないから侵入者など格好の獲物ではないか! ぐっふっふ……これるものなら来てみるといい愚かな賊めが、飛んで火にいる夏の虫だということを教えてやるわ……!」
先までの怯えた態度は何処へやら、太った男は額に汗を浮かばせながらそれらを笑い飛ばした。
男には秘策があった。それはここでは滅多に見ない存在で、通常では出回らない品を扱う闇市場でたまたま仕入れた物。
執事はそんな主を微笑ましく見つめながら、頭の中では微かなわだかまりを抱えていた。
告死天使……そう、執事の脳内で一つの単語が浮かび上がる。それはつい最近現れた謎の存在。
ある者は怪物と懼れ。
ある者は救世主と讃え。
ある者は『表』からの使者とも言われている存在。
数ある犯罪者の中でも有力な権力を握りしめるシティの統治者……ブラックリストに名を馳せる者を片っ端から消し去っていく削除人。
もし、この侵入者がその噂の英雄ならば……
このシティ『デリトラ』を統治する主が狙われているのなら……
ジリリリリリーー
突然、テーブルの上に置かれた赤い電話が鳴り出した。
執事は、太りじしの男が一瞬肩をビクつかせるのを視界の中で捉えながら、一切無駄のない動きで受話器を取って耳へと近づける。
「し、侵入者です……! 恐らく数は一人の……!」
緊張で上擦った声が受話器越しに鼓膜を刺激する。
執事はその男の声を反芻して、
「……恐らく、とはどういう意味ですかな……?」
「そ、それが見当たらないんです……! 庭中ライトを当ててるのに全然何処にもいないんですよ……!」
自分でもわけがわからないという風に告げる監視者に対して、執事は沈黙を返す。
「…………」
……告死天使。……それが個人の事を指しているのか、それともある同一の目的で動く集団の事を総称してそう呼ばれているのか……
それがわからない以上、相手はこちらが予想している数以上を想定しておいた方が、後々の事態に対応しやすい。
そう判断した執事は受話器を降ろし、またすぐに引き上げて違うところに掛け直す。
「……わたくしです。ただいま侵入者がこの屋敷に向かっている所。みなさんは入り口、及び一階の警備を厳重にお願いします……。敵の数は……恐らく10人は越えている者と思って対処するよう心がけて下さい」
そう一方的に告げるとすぐさま受話器を元の位置に戻して主の方を向き直る。
「これで大丈夫かと、ご安心ください主。我々が命に代えてもお守りいたしますので……」
誰もが和むようなにこやかな笑顔を顔に張り付けている男は、胸中に忍ばせた懸案事項に一人身震いを感じていた。
もし相手が一人以上だとしたら、監視者に発見されていないのは明らかにおかしい。いや、一人だとしてもこれは異常な事だ。
考えうるそれから逃れられる方法はただ一つ。
空中から照らされる光よりも速く――疾く動く。それだけしか思い浮かばなかった。
そしてそれを本当に成し遂げている者がここに向かってきているというのなら……
執事は黒い執事服の胸ポケットにかけられた、清楚な白い手袋を掴みーーそれをゆっくりと、そして華麗な手つきで両手へと――
部屋の中一杯に品性の欠けた高笑いを上げる小太りの男と対照的に、男は冷笑を主に見えないように隠し、浮かばせる。
……告死天使。……わたくしの渇きを癒すに値するかどうか、確かめさせてもらいますよ……
薄ら寒い笑みを心の中で響かせながら、執事が静かに口を三日月型にねじ曲げるた。
見渡す限り黒に埋め尽くされた大地。
焼け野原のように花はおろか草木さえも生えぬ事のない死んだ地面。あるのはごつごつした岩盤のみ。
その上を、吹きすさぶ風が一つ。
黒い外套を風に揺らし、ただ真っ直ぐに突き進む一陣の、少年。
少年は自分の姿を照らさんとすライトを潜り抜けて一直線に向かう。目の前には一つの洋館が強硬と建てられている。
天空から降り懸かる光をとっくに過ぎ去ってしまった少年を、最早遮るものはいない。
故に、加速する。
潜入して1分とちょっと、時間をかければかけるほどこちらが不利になる。相手の撃退準備が整う前に叩き、そして風のように去る。
それが少年の作戦だった。それは作戦というよりはただのヤケクソな強行手段に近かったが、少年にとってはそれだけで十分だった。
十分な――はずだった。
予想外な敵の出現に、気づいた時には既に遅く――それはこちらとの距離を一瞬で詰めてくる。
四方から囲むように現れたそれは、本でしか見たことのない生き物だった。
黒く細い体躯。
すらっと伸びた華奢な四脚。
口はだらしなく開けられて赤い、血のような真っ赤な舌を下げていてる。その舌からは夥しいだ液が垂れていて、走り猛る度に周囲に汚くまき散らしている。
そんな口の中でギラリと煌めく尖った歯牙が、こちらを目標に据えて怪しく光る。
4本の脚を器用に動かし疾走してくるその形状は――確か少し前に読んだ図鑑に載っていた――名前は『犬』とかいう『表』に生息している動物と酷似していた。
この地下に閉じこめられた世界である『裏』では全く見る機会のない筈の――生物。
初めてみた実物に多少の驚きを感じたのも束の間、自分よりも高速で運動する犬を敵として捉える。
少年は振り切れないと見るとすぐに減速を始め、撃滅させることに専念する。
右と左斜め前から挟み込むように突撃してくる犬を取り合えず無視して、先に後ろから迫ってくる方を先に片づける。
こちらに躊躇することなく二匹の犬が後方から飛びかかってくる。
少年はそれをとっさに身体を横にずらすことで交わす。避けられると思っていなかった二匹の犬は地に脚を着けると同時、頭と頭をぶつけてその場でよろめいている。
その一連の行為を脚を一切止めずに後ろ目で観察していた少年はある一つの確証を得た。
どうやら犬という生き物はあまり賢くないようだな……
人を遙かに凌ぐ運動神経を持っているにも関わらず、人と同じだけ知能を備えていない事を確信した少年は、すぐに思考を切り捨て前の二匹に全神経を集中させる。
相対速度ではほとんど0に近い勢いで迫る犬と少年。真っ赤な舌をぶら下げながらだ液をまき散らす犬はこちらをまるで肉の塊とでも誤解しているように大きくアギトを広げて襲いかかってくる。
そこで、少年は身を屈めて一気に加速した。
これが減速した理由の一つ。
本来ならちょうどよい位置で鋭い牙を突きつけられた筈の犬は、標的が急に前に現れたせいで距離を狂わされた。
後は一瞬の事だった。
たじろぐ間も与えず少年は犬に高速の体当たりを叩きつけて弾き飛ばす。
弾き飛ばされた犬は、勢いを殺すことができずに地面を滑り皮が削げ落ちる。
後方の二匹は体勢を既に立て直していて、少年を再び標的にて向かってくる。
しかし、もうある程度距離を離されてしまったせいで少年に追いつくことはない。
そう判断した少年は、最後の一匹――右から迫る犬と退治する。
先に左を墜とした事で、二人の距離に隙はもうほとんど存在しない。
少年が加速したおかげで左の犬は出遅れ、最初眼前から迫っていたはずなのに今では後ろから追いかける形になっている。
遙か後方に置き去りにした二匹ならいざ知らず、ここまで近ければいくら前を走ったところですぐに追いつかれる。
そう思い、少年は細い白い指を腰のホルダーにかける。
もう犬は真横まで来ていた。
ぐるるるると地獄の番犬のように唸りながら、黒い犬の口の中で研がれたように牙が白く輝く。
刹那――
そんな犬の口内に、黒い異物が差し込まれる。
それは、少年が身に纏う闇色の外套から飛び出た白く細い腕にしっかりと握り込まれた何か。
――ガゥンッ
唸るような短い轟音が鳴ると同時、犬の頭はスイカを粉砕したかのように木っ端微塵に吹き飛んで辺りにまき散らされた。
頭を失った犬の胴体は、すぐに減速して視界の端から消え去る。
想定外の敵を撃退した少年は、心の中で舌打ちをした。
まさか、これほど時間がかかるとは……
進入してすでに5分。相手がこちらを迎え撃つ準備を遂げるには十分な時間を、与えてしまった事に少年は苛立ちを覚えていた。
本当ならすでに『目的』を達成して、余計な敵に遭遇する前に撤退している頃。
それなのに未だ目的の地にたどり着けていない。こんな事は初めてだった。
確かに『表』の生物がまさか『裏』に持ち込まれていて、なおかつそれが自分の妨げになるなどと、一体誰に予見できただろうか。
そう思考の中では理解していても、やはり自分の未熟さに舌打ちせずにはいられなかった。
そしてそれは、『人間』以外の生き物を殺めてしまったことも一枚噛んでいた。
少年はそんな刹那の思考を頭の片隅に追いやりすぐに切り替え、さらに加速する。
身を屈め、風の抵抗を減らし、一目散に地を駆ける風へと変貌する。
――黒い風が目指すのは、既に目の前まで迫っている古いお屋敷。
加速する世界の中。
そんな少年を迎え打つように、屋敷の入り口ーー豪勢な装飾を施された玄関扉の前に黒服の男達がそれぞれ黒光りする銃をこちらに向けて構えているのが見える。
……やはり、時間をかけすぎたか……
自分の失態に心底苛立ちながら、少年はそれでも前へと加速する。
このまま進めばハチの巣にされるのは目に見えているというのに、なのに減速はしない。いや、厳密に言えばできない。
何故なら、今や遙か後方まで引きはがす事には成功した犬が、未だ諦めずに少年を標的に牙を向けて来ているからだ。
少しでも減速すればすぐにその距離を詰められ、あの鋭利な歯牙の餌食になることが容易に想像できる。
なればこそ、少年は加速する。
地べたの砂埃を巻き上げ、一陣の風と成りて駆け抜ける。
「う、撃て――!」
どうやらこの黒服達はかなりの弱者らしい。誰が見ても銃を扱った経験が足りない。
この世界で銃の扱いを知らないのは生まれたばかりの赤ん坊か、弱いばかりに一人で生きられない――集団の中で強く成った気でいる者だけだ。
集団になれば銃は必要ない。集団という存在が既に武器となり得る時点で、それは確定していることだ。
だからこそ、こういう権力で成り上がった組織は簡単に破滅を迎える。
そもそも、組織など最初から弱いことはわかりきった事だ。何故なら強い奴は、群がる必要がない。故に、組織に集まるのは一人では生きられぬ雑魚のみとなる。
所詮は烏合の衆。大抵の者にはそれで通じるが、少年のように地獄から這い上がって来た者に、これほど無力な者達もいない。
男の怒号を引き金に、辿々しい手つきでサブマシンガンを構えて撃ち放ってくる。
あまたの銃弾が雨のように少年に降り懸かる。
対する少年は、できるだけ身体を屈めて、左腕で顔を隠すように突進する。
男達はそんな少年を、ヤケクソで突っ込んできただけだと思い、心の中で勝利を確信してほくそ笑む。と、その時、男達の目の前で信じられない光景が映る。
銃弾が――少年の身体を穿つために放たれた銃弾が、左腕に接触した瞬間――次々と弾かれていくのだ。
そして見た。外套から漏れでた白い、白銀の腕。
それは明らかに人の腕とは違う。誰が見ても機械の腕としか思えない、ゴツい形態をしていた。
そう、銃弾を全て弾き飛ばしているのは、紛れもないこの異形の腕だ。
「――くっ……! あ、足だ! 足を狙え……!」
「む、無理ですよ! 只でさえ的があんなに小さく素早いんですよ! 当てるだけでも大変なのに……!」
黒服の男達が初めて敵である少年を見た瞬間、背筋を畏怖の感情が駆け上がる。
圧倒的な権力を持つブラックリスト……そんな者を相手に、たった一人の……どうみてもまだ十三、四歳の少年が攻めてきたのだ。驚かない方が異常だ。
そもそも敵の数は十人はいると聞いていて、男達は不安に刈られていた。そして実際現れたのが、一人の少年だけだ。普通ならそこで安堵するはずが、今回ばかりは話が違う。
全く持って逆だ。十人ならばブラックリストに逆らって攻めてきてもこの『裏』では特別珍しいことではない。
だが、相手はまだ子供で、それも一人だけなのだ。それは正に異常としか言葉で言い表せられない状況だった。
……どうやって、こんなガキがこんな所まで……!?
男達の頬を、汗が伝い。そして――
少年の右手が、こちらに向けて何かを構えていた。
そう気づいた瞬間。
――ガゥンッ!
轟音が鳴り響き、視界が土煙で遮られて何も見えなくなった。
少年の手に握り込まれた黒い――流線型の流れるフォルムを形どる銃から飛び出た銃弾が、黒服の足下――地面を穿ち砂埃が巻き起こる。
その威力たるや通常の銃を遙かに上回っていた。それはこの異常にまで抉られた地べたがその威力を物語っている。
あまりの出来事に黒服達は狼狽え、死を実感していた。しかしそれでも、黒服達にも意地があった。
例えあの銃で心臓を撃ち抜かれても、それでも必ず返り討ちにしてみせる覚悟があった。
いくら少年でも、不意を突かれれば避けられるはずも、弾くこともできない。そう思考した男達は、撃たれることを覚悟で少年が突っ込んでくるのを待ちかまえた。
……このまま終わってたまるか……!
しかし、一向に少年が現れる気配がない。
立ちこめる砂埃が晴れ始めて、視界が元に戻る。
そしてその目に映るのは――黒い、二匹の犬だった。
恐らく少年の姿を追っていた筈の犬は、あまりの空腹に標的を見失った少年から近くにいる黒服に変更したのだ。
男達は、見たことはあるが相対したことのない生物に怯え身を竦ませる。
真っ黒な口が勢いよく開かれて――覗く白い尖った牙が、男の肩へ向かって――
「ひ、ひぃぃぃ……!」
男達の情けない悲鳴が木霊している中、既に黒い風は天空へと舞い上がり――二階の窓から屋敷の中に進入していた。
「ぐふ、ぐふふふふ。もう終わった頃合いだろう……! バカな奴だ。私を相手にせねばまだ長生きできたかも知れんというのに……! ぐふふふ、ぐはははははは」
洋風の――贅沢をそのまま形にしたかのような室内に、豚のような喚き声が耳障りに響く。
この部屋の主にして、シティを権力とい名の暴力で好き放題して、今ではブラックリストに名前が記載されている一人の男。
丸まると太った身体を虐待しているかのように革張りのソファに押しつける。そのあまりの重みにギシギシと、不穏な音が聞こえてくる。
男は五指に着けられた様々な色形の宝石をうっとりと見つめながら、ワインを片手にくつろいでいた。
自分のペットがやられた事など露とも知らぬ男は、傍らに控えている執事服の男に自分の宝を自慢していた。
「見ろこの形! この大きさ! こんな綺麗な物は私のように心から清らかな者にだけふさわしい……。そう思うだろう? ぐふふふふふふ」
対する執事は、嫌悪の一つも見せる素振りもせずに豚の世話をする。
「ええ、本当に仰るとおりで御座います……」
頭を下げて同意の言葉を送るものの、執事はとある別のことを思案していた。
本当に、終わったのでしょうか……?
確かにアレから通信も無いし、不審な音も聞こえてこない。
それでも、執事の中ではまだ何かが引っかかっていた。それは魚の小骨が喉にかかったみたいに、気持ちの悪い不快感を与えてくる。
折角、うずいてきたのですがね……
そう思いながら、未だ早鐘を打ち続ける心臓がまだ何も終わっていないと告げてくる。
執事も……それを確かに感じ取っていた。
確信はない、しかし肌を突き刺すかのようなピリピリした威圧感が、確実に何かが近づいて来ているのを示していた。
これはまだ執事が若かかりしときに培った経験。
強者と相対するときだけに、初めて知覚することのできる代物。
そしてそれは、音として具現化した。
まず最初に部屋を満たしたのはあまたの銃撃音。それを聞き間違えることはない、これは、サブマシンガンの銃声だ。
「ひぃ!? もう死んだのではないのか!?」
外から響く不吉な音に萎縮し、太り気味の男が片手のワインをこぼす。
こぼれ落ちた赤い液体は、どうみても値を張るだろう絨毯に血のように小さな染みを作った。
危急の事態だと判断した男は、傍らの執事にグラスの中身の全てをぶちまけて、
「大丈夫じゃなかったのか間抜け! も、もし私の身に何かが起こったらただではすまさんぞ!?」
激昂し、恐怖と怒りで表情を歪める。
ポタポタとしたたる血色の水、それをペロリと下で舐めて、執事の目つきが初めて変わる。
それは仕える者の瞳ではなく、獲物を狩る――狩人の、狡猾で鋭い瞳。
「――っ!?」
さっきまでの勢いは何処へ行ったのか、執事の見る者全てを怯ませる蛇の目にすっかり呑まれて黙ってしまう。
そしてそれもつかの間のこと、すぐににっこりと微笑み、執事は変わらぬ忠誠を男に見せる。
「ご安心を。何があっても、必ずやわたくしめが貴方様の身の安全を保証しましょう」
恭しく一礼する。
太った男は、そんな忠義の塊のような執事の態度に安堵し、どかっとソファに身を沈める。
「必ず。必ずしとめろいいな」
「確かに、承りました」
……これは主の命だ。――必ず、守ってみせる。
そんなやりとりも瞬く間、屋敷の中で鳴るガラスの破砕音。
それは、来訪者を知らせる合図。
……何とも品の無いチャイムだろうか。
無駄な思考をそこで中断し、執事は扉の真正面に立ちはだかり銃を構える。
執事の後方では、主である男が死の不安に震えながらも
豪勢なソファに、強情にも身を預けている。
……さて、どのような手でくるかな?
普通なら真正面から突撃するなど愚の骨頂であるが、今までの行動パターンを鑑みるにその可能性も捨てきれない。
聞こえてくるのは足音だけではない。どうやら扉を片っ端からあけはなっているようだ。
これからわかる二つの事柄。
一つは、相手はこちらの位置を完全に把握はしていないということだ。
もし何処にいるのか知っているなら扉を無意味に開く必要はない。
もう一つは、扉を放つ時に銃声が響かないことから導かれる答え。
敵の目的は、この屋敷の主を殺すことではなく、恐らく何かを訊きにきたと言うことだ。
すなわち、敵はすぐに殺す気はないということ。
……さて、一体何をしにきたのか。
いけない、と思いつつ。胸を躍らせている自分がいることに執事は、
……フフ、素晴らしい。こんな素晴らしい日が来ようとは。
逸る心臓と心を自制して、執事は待つ。
それは大物を釣り上げようとする釣人のようなもの。手に持つ銃はあたかも釣り竿のようで、手と額には汗がにじんでいる。
まさに、手に汗握る展開。
音が近づく。
そして――
……止んだ?
足音が、部屋の前で突然ーー静止した。
まるで侵入者など初めからいなかったかのように、ぱったりと音が途絶えた。目の前の扉の先で。
……何故開けない? 何を戸惑う?
――――――!
思考も束の間、勢いよく開け放たれた扉から飛び出す黒い何かが視界を掠め――――
……速い!?
が、
「――甘い!」
躊躇などしない。それの正体は掴めなかったが、それでも撃ってしまえばこちらに負けはない。
攻撃こそ最大の防御。
両手に抱えた巨大なマシンガンをしっかりと標的に固定して撃ち抜く。
放たれた銃弾の雨は黒い何かを完璧に捉え、そして扉やその先の廊下の壁にも次々と穴をあけていく。
もう十分だと、たっぷり撃ち終わってから執事はトリガーから指を一旦離す。
パラパラと壁が剥がれる音だけが惨めに満たされた空間の中、執事は土煙の中に潜む獲物の亡骸を見た。
……これは――!
そこに落ちているのは、外套だった。
黒い外套が、無数の穴を開けて絨毯にひれ伏していた。
……陽動か!?
それに気づいた執事はすぐさま銃を扉の先の廊下に構え直した。
何故この部屋だけこんな真似をしたのか……それとも全ての部屋に同じことをしていたのだろうか。
……否。
それは違う。執事は本能的にそれを感じ取っていた。何故、かの敵はここに敵が潜むと睨んだのか。
それはあまりにも簡単なことだ。
……この者も、わたくしと同じ存在。
感じ取ったのだ。執事がそうしたように、目の前に潜む侵入者もまた、執事という存在を感じ取っていたのだ。
……愉快。実に愉快。
それにしても、と執事は思う。陽動にしては些か行動が変ではないだろうか?
相手に隙を作るために使った作戦だ。そしてそれは奇しくも成功を納めた。だと言うのに、
……何故、襲ってこなかった?
いくらでもその隙はあったはず。その為の陽動だったはず。なのに、一向に攻めてくる気配がしない。
何にせよ、執事にとってこれは好機だ。相手は策を使ってそれを活かしきれず、こちらは相手がてだれだと判断できた。
……攻めるなら、今!
刹那の思考でそう判断した執事はマシンガンを強く握りしめ――
――ガウンッ!!
それは、獣の咆哮のようだった。
何処からか、唸るような銃声が鳴り響き、そして、
「――ぐふっ」
執事の口から、生暖かい液体がこぼれ落ちた。それは口から頬を伝い落ちていく。
自分の身に何が起こったのか理解できない執事は、ゆっくりと視線を下げる。
そして下げている途中、壁に微かな違和感を感じた執事はそれを凝視した。
それは壁に生えた黒い染み。
直径2、3cmくらいの小さな小さな、丸い穴。
それの正体を見抜いたとき、執事の身体に熱い――焦げるような衝撃が腹部から全身へと駆け巡る。
「がはっ」
あまりの苦痛にその場でひざをつく形で身を崩す。そして、そんな執事を見下すように――
一人の、少年が立っていた。
上半身には防弾ジョッキ、左腕には白銀の人外の腕、そして右手には、煙硝を上げる漆黒の銃。
一番驚いたのは、侵入者がこんな14、5歳も満たない少年であることだった。
若干筋肉で引き締まった細い体躯の少年。その瞳はまるで狩人のような――
……いや、違う。この目はーーあまりにも無機質。
それは人外の瞳だった。
人ではない。人では一生かかってもできないだろう目つき。それは人々に恐怖を与え、そして時に、言いようのない感動を与える。
……なんと、なんと甘美な……
執事は笑う。勝敗はすでに決していた。完全に自分の敗北だった。
最初からこの少年は最初の陽動でケリをつける気はなかったのだ。そう、陽動だと思わせること事態も陽動だったのだ。
私が無闇に撃ち続けているのを見て、少年はこちらの正確な位置を見極めていたのだ。
そして恐るべきは、その右手に掴まれた漆黒の銃。
その威力の恐ろしさは語ることも烏滸がましい。
初めから少年は、執事と相対するつもりなどなかった。最初から壁をぶち抜いてこちらを狩るつもりだったのだ。
まさかそんな非常識極まりない手段をとるなど、一体誰に予想できただろうか。
それができなかった時点で、執事の敗北は決まっていたのだ。
「……最後に、貴方のなま、えを……」
せり上がる血で詰まった喉を必死に張り上げてこがう。
少年はそれを聞き、そして視線を執事から外し、
「……颯真」
素っ気なくそう短く応えて、執事の横脇を通り過ぎる。
「……そう、ま。です、か……よい名、です……」
そういいながら執事は、今まで見せたことのない至高の笑みを浮かべ、自らの血で作った赤い絨毯に完全に倒れ伏した。
それを見届けた太った主は、確かに絶望にくれていた。
一瞬の時間で起きた二つの出来事。
信頼できる配下を失い。そして――
「――答えろ」
自分の目と鼻の先まで接近してきた侵入者。
どこか夢心地のような、まどろう思考の中。少年に突きつけられた銃のひやりとした感触に我に返る。
気づけば、少年は自分の額に黒い――闇のように暗い銃を標的として捉えていた。
完全に身を竦ませている男に、構わず淡々と話しかける。
「七年前、如月研究所を襲撃したのはお前か?」
その聞き覚えのある単語に男はハッとし、次いで、
「ま、待て! 私は知らん! 知らんぞそんな事件! 私には何の関係もない!」
それは男がまだブラックリストに載っていなかった頃に発生した事件だ。
この『裏』でもかなり有名な科学者、如月宗吾が立ち上げたグループ。その如月グループの砦、それが如月研究所だ。
誰もが知っていて、そして誰もが真相を知らぬ事件。
もちろん、まだ何の権力も持っていなかったこの男がそんな事件に関わっているわけがなかった。
男の必死の否定を信じたのかそうでないのか、少年は銃を構えたまま。
「……心あたりのある者は?」
「だから知らんと言っている! 私はそのときは何の力も持っていない市民だ。知るはずがないだろう!?」
ソファに身を収めたまま、脂ののった男は弁解を続ける。
そして少年はそれを聞き。
「……そうか」
と短く呟き銃を男の頭から引き剥がす。
男はそれに安堵し、自分が死なないことを実感していた。
少年は身を翻し穴だらけのボロボロな外套を拾い上げ、己の身体を覆う。
そして右手を上げて――撃つ。
男は反射的に身を屈め、そして聞いた。
それはガラスの破砕音。
見ると、部屋に配置された大きめの窓が、一つ大きく穴を開けていた。
ガラスを吹き飛ばされ、額だけとなった窓から入ってくる小さい風が青い清楚なカーテンを揺らす。
誰が見てもわかる。それは少年がこの場から去るために作った逃げ穴。
この時、男の脳裏にある光景が浮かんだ。
それは目の前の少年を殺した未来の映像。
数週間前に現れてブラックリストを次々と狩っていく少年。もし、これを自分の手で殺すことができたなら……
そしたら、自分は栄誉と栄光を手に入れることになるだろう。ホワイトリストに名前が載ることだって十分考えられる。
最凶最悪の者だけが名を残すことを許されるホワイトリスト。もしそこに自分の名を刻むことができたなら……
心臓が興奮で動悸し、それを押さえることも忘れて少年の方を見る。
少年はこちらに背を向けていて、こっちのことはまるで無視の状態。
……今なら、今なら私だって……!
そう判断した男はゆっくりと、そして悟られないように右手をソファの横に沈める。
そして、前々から用意していた物を取り出す。
それはただのハンドガンだ。が、それでも目の前の少年を殺すのには十分な武器だった。
震える手で照準を会わせる。
少年は、未だ背を向けたまま――
……死ねえええ……!
頭に狙いを定めて引き金を――
引く。
そして響く銃声が部屋の中を満たす。
……や、やったぞ……! 私は――――――
どさっとゆう重いものが崩れ落ちる音が鳴り、部屋はそれ以降静寂となった。
頭を撃ち抜かれた――太った男は、幸福の笑みを浮かべたままソファに身を預けて死んでいる。
その手に握られていた銃は脂ぎった手から解放されて絨毯の上に放置されている。
そして、結局一度も振り向くことのなかった少年は、背後に向けていた黒の銃を腰のホルスターに掛けて疾走する。
軽くジャンプして、窓の縁に足を掛けて部屋の外――闇の中へとさらに高く飛翔する。
闇に溶けていく少年。
重力に従う身体と反して、黒い外套は空気抵抗を受けて大きく翻る。
風に煽られた漆黒の外套が飛翔する。
――それは空中を優雅に泳ぎ、羽ばたく。
――それは少年の背中に生えた黒い――堕天の翼のようだった。
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