〈箱庭〉
人型だった彼女は黒い皮表紙の分厚い本へと変わり果てていった。彼が本を広げると真っ白なページに一つの言葉が書かれている。
―《かの者は言った》と―
『ふん、あいつの挑戦状か。面白い』
彼は知っていた。
少女がこの箱庭を脱すれば薄暗く混沌とした世界は光を得て瞬く間に安定をもたらす事を
彼は知っていた。
少女の目覚めがそう遠くない事を
彼は知っていた。
此処から出る事は少女との一時の別れが訪れる…
彼にとっては刹那だが長い長い時間を感じる苦痛の刻を己が味わうだろうと。
暫く少女を見詰めた後、彼の力で人形のように動かない体を固定してあり支え抱える意味はないが、彼は軽く抱きしめて
瞼、髪、眉間の少し上に優しく口づけを落とした。
すると少女の髪はたちまちに漆黒へと変貌し、生気のない白き肌はうっすらと色づいていった。
『少し我の一部を覆っただけでコレか。だが、悪くない。愛らしい…我の…』
彼が感極まり身を震わせるとバサッその背中に六対の黒き翼を伸ばした
その後、口を歪めて自嘲し黒い本に付いている小さい鏡で己の姿を見た。
『髪は薄い金。瞳は深い青。肌は我のほうが白いな…クククッ。我の本質とは掛け離れた見目よ』
もう一度少女を見て『決して、逃がしはしない。』と謎の言葉を少女の耳元で囁きかけて黒い羽を広げた
この時幾つか羽が舞い散った、それは此の後語られたあらゆる災厄を下界にもたらすが、それは彼の知る由もないだろう。
暫くした後、彼は意を決したのか黒い本を掲げ上げ本に書かれた文字に手を滑らしながら言葉を発した。
『"智を分け、時を紡ぐ事を識る。それは即ち揺らがざる理なり"』
それに応えるかのように淡く蒼い光を灯し
ページが独りでにパラパラとめくれてゆく。丁度真ん中で止まるとそこにはガラスで出来た精巧な扉が現れていた。
ギギィイィィ重苦しくひらかれ、ぱたんっと再び閉まる頃にはその箱庭といわれた空間には何の存在も無かった。
―さぁ、私達の子に会い行こう―
◇プレリュード 完◇
…その頃、創造神はとある人物に箱舟を造らせていたとかいないとか。
※補足※プレリュード=前奏曲、音楽用語。