トモエとシグルド 後
逃げるためにと、シグルドが足を一つ後ろに下げる。
そこに、トモエは歩を進めて、更に強引に押し込むのだ。
そうしてみれば、上手くすり足で、過剰に体重が偏らないようにと気を付けていたのだろうが、それも許さずに。
シグルドは、腕だけでトモエの作る力に対抗しなければいけない、そんな状況に追い込まれる。
「此処から抜け出す方法も、技というのが一つです。ああ、先程の状況もですね。ですが、私を相手に、それで挑むというのは」
「まぁ、わかるけど、さ」
この世界のほとんどの相手に。
トモエは、オユキがトモエにそうあれかしと信仰を捧げているからこそ。
技で負けるつもりは一切ない。
そして、トモエのその思考を支える様に、応えるための太刀がある。
支える為の、奇跡がある。
シグルドに、完全に体勢を崩し、どうにか此処からと考えて。
トモエに、トモエの刃にばかり集中しているシグルドの足を払って転がして。
「もう一つは、今のように追い込まれる前に間合いを離す事です」
「でも、今は」
「目的は、一つに絞るべきかと思いますよ。勝つというのならば、勝ち方に拘るのは下策です。それが出来るのは、相手よりも時分が強い時だけですから」
「でも、俺は前に一度それを選んでる。で、やっぱり後悔したからさ。あんちゃんが、今こうしてる俺に、追い打ちをかけないし」
「これが、最期かもしれませんから」
「あんちゃんは」
「それは、私がシグルド君に応える事ではありません。それを応えるのは、オユキさんにだけ、です」
「あんちゃんは、やっぱり、あんちゃんだよな」
そんなトモエの言葉に、シグルドが泣き出しそうな顔で。
「結果は、流石にどうなるとも知れませんが」
「あんちゃんでも、か」
「オユキさんは、いよいよ今度ばかりはなりふり構いませんよ」
視線を少しずらしてみれば、既にパウがオユキの前に膝をついている。
シグルドとこうした刃を併せている間にも既にオユキはどうせ直るのだから、直らなくても構いはしないとばかりにパウの膝を痛めつけた。
さらには、手首から先が既に切り落とされて、そのまま放っておけば失血による死が待つだけ。
周囲の者達、オユキをよく知らず、表層だけを見てきた者たちは何故そこまでと言葉を失っている。
気の弱い者に至っては顔色を変えるだけではすまず、既に気を失っているものとている。
トモエは、そちらをただ惰弱と切り捨てて。
「さぁ、続けましょうか」
「ああ。パウは、無理だったみたいだからな」
「オユキさんを捕まえるのは、難しいですよ。身体能力についても、ここ暫くの事ですっかりと回復していますから」
「セッカとコユキにセツナのばーさんが、ほんと色々オユキにしてたからな」
「私から頼んだこともありますが、オユキさんが己を持たせるためにと頼んだことでもありますからね」
シグルドの言葉に、トモエとしては想う所がある。
今回の旅の目的、それに至るまでに起きた事。
シグルドは、それを知らないはずがない。
それでも、なおお前はそれを口に出すのかと。
挑発として、そうしたことを口にしてみても構いませんよと教えていたこと。
それを、この場で行っているのだろうと冷静なトモエが指摘する。
いつか、オユキにそうした話を聞いたことがあり、それが今改めて実感が出来る。
先の戦と武技の折りに、これまでとは少し違う形で己の集中の形を得たこともある。
それを、シグルド相手でも使えればと、使ってあげることが出来たならと。
トモエはそんな事を考えてしまう。
確かに、トモエは本気でシグルドと向き合っている。
だが、決して全力ではない。オユキのように、それが出来ない。
シグルドが、晴眼に構え直して。
何処か、潤んだ瞳のままで、トモエをまっすぐに見るから。
その姿が、どうしても過去に、記憶に。
かつてのオユキが、トモエが改めて心を預けると決めた相手に、あまりにも似ているから。
今のシグルドの姿は、その根底にあるものはまさにかつてのオユキが、このトモエの姿を使っていたころの物と言う事なのだろう。
だからだろうか。
ついつい、かつてもそうであったように、思わず目で追ってしまう。
シグルドが、こうした状況で、彼が己の持てる物を全て使って。
それで届くかも定かではないのだとしても、届かないのだとしても。
だが、行わないよりはずっといい。
そうした覚悟の元に、一番最初に教えたことを、ただ教えた通りに。
そんな姿を、ついつい目で追ってしまって。
トモエは、動き出しが遅れる。
その結果は、少々トモエにとっては致命的と呼んでも良い物に。
そらすことは、間に合う。
だが、この場を、トモエはまだ伝えきれていない事、今後導として欲しい事を伝える場だと決めている。
だからこそ、間に合わない。
遅れて太刀を振りながらも、そこから過去に一度見たシグルドの工夫、それを避けるために体を引く。
そして、シグルドはそれが当然とばかりに、初めて衆目の前で向かい合ったときと同じように刺突を放つ。
かつてよりも、袈裟斬りにしても、かつては両手で放っていたのだが下がるトモエに併せて片手に持ち替えて距離を伸ばし、更に刃を寝かせた上で放つ刺突にしてもぶれることなく。
頬を刃がかすめる感触を覚えながらも、遅れたからこそ手段を変えた太刀をもって。
峰に返したそれで、シグルドにかつて教えたはずの刺突の欠点を改めて思い出させる。
片手での刺突、肘までが伸びきった結果に対して。
トモエの太刀が、シグルドの腕を跳ね上げる動作には、対応が出来ない。
だが、そこまでを含めて、シグルドとしては想定していることではあったのだろう。
跳ねあげられる片腕、手から離れていく太刀。それに構うことなく。体を無理に回しながら、トモエに届けとばかりにもう片方の腕を、先に太刀から放していた手を伸ばそうと体を動かす。
ただ、変わらず。
トモエをまっすぐに見ながら。
それに対しては、トモエは一切の容赦なく。
既に動かしていた足を使って前蹴りを叩き込み、弾き飛ばすことで返答とする。そして、防げずそのまま転がるシグルドが、トモエの想定よりも少々手前に。
「はじいた太刀で、そのままとも考えましたが。上手く止まりましたね」
そうつぶやくトモエの言葉に、一体何が等と考えての事だろう。
流石に、刃の向きがどちらになるかまではトモエの支配の外ではあったのだが、上手く刃を下に、回りながら。
「本当に、よく学んでくれたものです。見ていられる時間は、そこまで長くなかったというのに」
「そう、言ってくれんだな」
「ええ。こちらに来て間もない頃に、オユキさんとも話しましたから」
「セリーのほうが、俺よりも」
「セシリアさんは、私とオユキさん。その振る舞いをきちんと模倣してくれた結果、ですね。こうして、シグルド君とパウ君が私たちにしたと言う事は、あの子も言ったのでしょう」
そう、セシリアは最初からトモエとオユキの示すものを手段として認識していた。
己に合うのだと、これが使えれば今後も間違いないだろうと考えて。
だが、少年たちの中では、後から増えた者達の中でも。
この、シグルドだけがトモエを超えるために、トモエを超えようと考えて学んでいたのだ。
かつてのオユキがそうしていたように。
落ちた太刀が、石畳とぶつかって硬質な音をたて。今は、その余韻も既に消えている。
シグルドは気が付いていなかったのだろうが、パウについては、オユキが躊躇なくとどめを刺した。
そこまでやるのかと、繰り返して問われる言葉。
それに対する解答と言う訳でもなく、オユキがそれをもって返答としたのだろうというのがよく分かる。
そして、そのオユキは何処か空虚な瞳をトモエに向けている。
シグルド程度の相手に、何故傷をつけられたのかと。
昨夜互いに話した、少年たちが求めているだろうこと。
トモエに対する失望が、己の信仰が己以外に傷を、それもとるに足らない相手に付けられたことに、最早心を揺らすことも無いのだと。
オユキの視線が、何処までもそれを語っている。
「あんちゃんは」
「繰り返しますが、私の、私たちの選択を今この場で語る事はありません」
「そっか」
いつだったか、シグルドがアベルに語った言葉がある。
確かに、その頃であればこうしてトモエの頬についた一筋の傷。
それをもって、オユキも奮起したのかもしれない。
トモエにしても、良しとしたのかもしれない。
だが、過行く時間が。
この世界が、オユキに対して行った仕打ちが。
既に、それを許さないだけの物を積み上げた。
「私は、オユキさんを、己の伴侶を恣にするこの世界を良しとは出来ません」
何度も、トモエの期待は裏切られてきた。
それは、この世界も、オユキも。
だから、最期の選択の時に、オユキが口にする言葉は既に分かっている。
それを、許さぬために、ここまでトモエが我慢してきたことがある。
オユキが、トモエに預けている物がある。
「ですから、これが最期、その心算でいますから」
「そっか。でも、俺は繰り返して言うよ」
「ええ。構いませんよ。それを聞かぬ程、度量を失っているわけではありません」
シグルドに、未だに起き上がらずに大の字になって石畳の上で寝転がるシグルドに切っ先は向けたまま。
「あんちゃん、オユキの事、頼むな」
シグルドが口にした言葉に、思わずトモエは笑って。
「頼まれる迄もありません」
「オユキは、どうしたってあんちゃんがいなきゃ、オユキじゃなくなるしな」
「生前の事、それがありますから」
「その時は、あんちゃん、オユキを置いてったんだろ」
「寿命ばかりは許してほしい物とは思いますが、ええ、私としても慙愧の念に堪えぬ事ではありました」
トモエが、先に命を全うした。
その事実が、今のオユキに、かつてから続く今のオユキに残してしまった物もある。
それを、払うのがトモエがこちらに来た理由。
一度完全に断絶した意識、それが再度浮上して、選択肢をえられたその時に。このオユキの話しでしか知らない世界に来ると決めた動機。
「やはり、約束できることはありません。ですので、これからも皆さんが健やかであることを、私は、祈っていますよ」
そうして、別れの言葉を告げた上で太刀を鞘に納める。
話している途中から、シグルドの腕は、既に顔を覆うために使われていた。
だから、もうこれで決着なのだと。
トモエを、既に事を終えたオユキの側で、次に運ぶために待っている相手がいるのだから。